トモア2
ほんの少し。
ほんの少しだけ、涙がこぼれた。
といってもそれはマールのアイシャドウをでろでろにして頬を伝っていったので、美しいとか儚いだとかいい得るようなものではなかった。
マールは草むらに腰を落とし、その“先生”なる人物が帰ってくるのを待った。
陽は天辺を越え、影は東に長く伸びていく。
いつまでこの宙ぶらりんな状態が続くのか。せめて最後に胃に入れたパンの栄養が尽きる前までに終われば良いのだけれど――。
ぐうぅぅうぅ。
腹が鳴った。ああ、もう!“先生”はどこ!
空腹を誤魔化すため、マールは立ち上がり教会の敷地を散策した。動かない方が本当は良いのだろうが、心が落ち着かない、体を動かした方がまだ気がまぎれる、ということである。
教会の裏に広がる丘は梨園になっていた。管理者の名が杭で打ち込まれていることから、教会の土地ではなく私有地であることが分かる。枝が垂れ下がっていて、小さな実が手の届く距離にあった。うむ。いや、いやいや。頭を冷やせ。踵を返して戻ろうとすると、澄み切った男性の声が聞こえてきた。滑稽なのは、--そう、滑稽としか言いようのないのは--、その声色とは対照的なリズム。歯切れが悪くふらつき、そしてところどころ急に速くなる。まるで酔っぱらいの足取りよう。
歌声が止まった。
「ん、あんなところにきれいな御嬢さんがいるぞ」
等間隔に植えられた木々の向こうに、少女がいる。少女は両手で長い脚立を支えながらこちらを見ていた。少女はマールを指さして言った。
「先生、冗談はやめてください。あれは場末の娼婦です。よく見てください、あの下品な化粧。それに痩せて胸もないくせに詰め物もしていません。ロクなものを食べておらず、金もない証拠です。追っ払いましょう」
頭をひっぱたいてやろう。
空腹のせいもあるかもしれない。マールは頭で何かがパチッと切れるのを感じた。
ずかずかと大股で距離を詰めていく。少女は微動だにしない。無言のまま手を振り上げると、
「おっと待った」
マールを制止するその声は脚立の上から聞こえてきた。
若い声ではあるが、青年ではなかった。
歳は三十の中ごろといったぐらいか。聖職者然とした服装をしているが、先ほどマールを追っ払った青年とは異なって実に柔らかい雰囲気を持っている。
男はしゃっくりをして、あわや手に持っていた先の鋭利な鋏を落としそうになる。ああ、首府の“窟”にいたときに、この類の人種はよく見かけた。つまり、……酔っ払いである。
夕陽が木々の茂みを赤く焼いていた。男の頬は無精ひげに覆われお世辞にも清潔感があるとは言えなかったが、差した赤と黒によって、どこか色っぽく仕立て上げられていた。
「あ、分かったぞ。もしかして御嬢さんはファクタル院長のあれかい?」
「は、はい!」
鋏をちょきちょきと鳴らしながら、“先生”なる男は顔をほころばして喜ぶ。
「遠いところまでよく来たね。それじゃあ、教会の傍に小屋があるからそこで待っていてくれ。ガウシア君がいるはずだから」
「お伺いしたのですが、“先生”が来られるまで待っていろとご指示がありまして」
「ありゃあ、それはそれは。こんな美しい娘さんになんという不躾な態度だ。私から謝ります。後で“ガツン”と言ってあげましょう!」
マールの足元にぽとりと青い梨が落ちてきた。手に取って嗅いでみる。爽やかな甘い匂い。少女が鼻にかかった声で言う。
「それ、おいしくないよ。成り過ぎた実を間引いたやつだから」
その胡散臭そうな目といったら!
少女は上を向いて、マールを親指で指しながら、この娼婦は知り合いなのか、と“先生”に尋ねた。そうだ、と男は答えた。
「こちらの“先生”は、昨日一晩中蒸留酒をお煽りになった挙句床にひっくり返ってね。ポケットには一銭も入っていないし、しょうがないから100本ほどうちの果樹園の手入れをしていただこうということになったんだ」
「そして、残り25本まで来たよ!」
男が無邪気に声を上げる。少女はやれやれといった塩梅で、
「というわけで、オネーサン。もしこの人に“ガツン”と言ってもらいたいなら作業を手伝いなよ。その方が早いよ」
つまり、マールを救うことができるのは“先生”であり、そして“先生”の生殺奪与権を握りもっとも力を持っているのはこの少女というわけだ。マールは握りしめていた拳を解き、まるで何でもないかのようにすっとぼけた顔をした。
◇◆◇
二人が少女に解放されるころには、陽は完全に落ち切っていた。
「いやあ、本当に助かったよ」
「いえいえ」
屈託のない笑みを注がれ、マールは勇気と元気が湧いてくる。そして安心する。ああ、よかった。自分の居場所はちゃんと用意されていたのだ。
「こんな健気なマルチコ君をゾンザイにするとは何事だ。ガウシア君をとっちめてやろう」
「すいません」
二人は教会をぐるりとまわり例の掘立小屋へと歩く。教会の窓からはほんのりの暖かな光がこぼれている。
マルチコ君?
という語が自分のことを指していることに気付いたのは、しばらくたってからのことであった。いや、いや。かまわない。名前なんてどうでもいいじゃないか。この人がいれば、あの目つきの悪い青年は何とかなるのだろうから。
「私は聞いておりませんでした」
先生は地べたに正座しながら地面に額を付ける。
大きなため息をついて、ガウシアは言う。
「画家など、私は最初から不要だと申しあげておりました。簡単な絵ならば私でも描けます。それを先生がどうしてもとおっしゃるから」
「申し訳ありませんでした」
「来るのは少年だ、と私は伺っておりましたが」
「うん。私もそう思っていたけど、女の子だったみたい」
先生はにこりと笑った。
「みたい、では通るものも通りません!」
ガウシアはぴしゃりと言う。
「若い娘を連れて歩きまわるなど外聞が悪いにもほどがあります」
「いやあ、名前だけどね。やっぱり分からないこともあるでしょう」
「マール・チコルという名が男につくことがありますか」
「ありません」
「まあとりあえず、拾った以上は面倒を見なければなりません。それじゃあ、マーなんとか、女!」
「いや、“マルチコ”だよ」
「そう呼ぶことに決めたのですか?」
「うん」
ガウシアはやれやれといった塩梅でため息をつく。自分は野良猫か何か。ため息をつきたいのはこちらである。というより、いたたまれない。もう一度泣きたいぐらい。
「……ではマルチコ」
「は、はい!」
「教会の裏に小川があるから、とりあえずそこで体を洗ってきなさい。そしてその下品な化粧も落としてしまいなさい」
その夜、マールは眠ることができなかった。
居て良いことになったようだが、いまだ哀れなるこの身は宙づりで、そしてとにかく自尊心が傷ついていた。
それでもまだこのころ、マールにとっては幸福なときだった、と言えるかもしれない。
というのも、“マシン”なるへんちくりんな鉄の塊を追いかけ、追いかけられなければならなくなるのだから。




