トモア1
さらにいえば、マールは画家ですらなかった。
マールはいたって普通の娘だ。
父の庇護の下でぼんやりと十五年生きてきて、市場で求められる技術などを持ち合わせてなどいなかった。父のもとを離れざるを得なくなったとき、初めてマールは食べていくために知恵を絞った。
画家になるという身の程知らずな展望を抱いてしまったのは、絵を描くことについて唯一多少の自負があり、また御用画家は常に富裕層から一定の需要があったからだ。素人が一人潜り込むことぐらいできるだろう。――当然、それは侮りで以外の何物でもなかった。結果は連敗に次ぐ連敗。富める者にはコネと積んだ技術があり、貧しき者には人生の逆転を賭ける死に物狂いの覚悟があった。
しかし、だ。
とにもかくにも職が手に入ってしまった。
くけけ、と喉の奥から変な笑い声が出た。
行き先が未だ戦火燻る辺境であることを告げられたのは、首府を出て二日目のことだった。
「そんな場所だなんて聞いていない」
道中はつらく険しかった。革靴の底は抜けた。マールが逃げ出さなかったのはたとえ戻ったとしてもロクなことがないことを知っていたからであり、そして何より落伍者に対して容赦しないという郵便隊商の屈強な男たちに前後を挟まれていたからであった。だからといって前方足が向かう方向に、幸福が待っていると限ったわけでもないのだが。
ひたすら歩く、歩く、歩く。隊商の連中には性別も年齢も隠していたから、彼らの速度に遅れ、余計な疑念を抱かれるわけにはいかなかった。顔や体を布でぐるぐるに巻いていたので息が苦しい。それでも女身で一人、辺境をうろつくよりは遥かにマシである。
赤岩だらけの光景に心を楽しませるものはない。楽しみは一日二回ある食事だけ。昼は陽か雨が降り注ぎ、夜は寒さが降りてきた。
「この陸路では、毎月一人死んでいる」
「ええ、本当ですか!? まさかヘイズの残党がいるんじゃあ……」
男たちはたき火を囲み、よく無駄話をした。マールは彼らから離れた場所で毛布に包まり、彼らが交わす会話に耳をそばだてた。
「馬鹿。知らねえのか。先月着の身着のまま脱走した奴隷が十三人、道の真ん中でおっ死んだだろうが。十三割る十二。だから毎月約一人」
「……ええと、つまり」
「いたって安全。この旅はおれにいわせりゃピクニックみたいなもんよ(※1)」
夜が明けると行進は再開される。
首府より歩いて二週間。
そこから船で五日乗って、さらに一週間歩いた。
北方の辺境と聞いてマールが最初に浮かべたイメージは、灌木が散らばる寒々とした大地、そして冴えない小さな村であった。眼前の広がる荒野は、そのイメージと違わなかった。街か貧相だろうがかまわない。食べていければいいのである。峻厳な赤い谷間を抜け、緩やかな傾斜がある一帯に出る。丘の天辺に上ると、眼下に己の職場となるべき街、トモアが見えた。
辺境の、冴えない……。
マールの目を大きく見開いた。
街。
いや、それはむしろ巨大な要塞であった。
◇◆◇
隊商の男たちと別れ、マールは完全に混乱していた。
人! 人! 人!
鉄やモルタルでできたいかにも硬そうな建物が並ぶ狭い通りに、老若男女、人種や種族を問わず、生き物があふれかえっているのである。雑踏の中でもみくちゃにされ、マールは目を回す。
雇い主のもとを訪れる前に、マールは街角のカフェに座って休憩をとることにした。片手にさえ余る硬貨の二枚を費やし、分不相応な旨い珈琲をすする。席に座る人々はみな洒落た装いで、ぼろで厚着したマールは完全に浮き上がっていた。行きかう人の多くも裕福そうに見えた。
マールの目を引いたのは奴隷であった。大量の塩を背負い子に積んで歩く男。妻だろうか、その傍で女がこれまた大きな生花を抱えている。つまり“あれら”は駄馬より安いのだ。二人の前をマールより一回り小さな少女が歩いているが、よく見れば立派な絹のスカーフを巻いているので、二人の娘、というわけではなく、使役者なのだろう。
首府に生まれ育ったマールでも前者がヘイズ族で、後者がフリクエント族であることぐらいは分かる。生粋のスタティクス人である自分とは違い、肌が多少白いことも知っている。それ以上となると、自分たちの国がフリクエント族を支援しているということ、そしてそれぞれの奴隷が首都に流入し混乱が起きていること。あるいはヘイズ族の一部が各地で暴動を起こしていること、その程度の知識しかない。
しかし、まあなんということだろう。
マールの胸で不安がむくむくと頭をもたげ始め、そんなことを考えている場合ではなくなった。
大きな街。富ある人々。
つまりここトモアでは絵描きの需要は多いはずだ。となれば当然、供給も多くなるはずである。自分の技量を客観的にみれば、首府の競争市場で歯牙にもかけられなかった程度。もしかすると、雇い主は“首府の絵描き”という売り文句に釣られたのかもしれない。だとすれば技量をさらしたとき、幻滅は必至だろう。
マールはほぼ無一文状態であった。
このまま野に戻されるのは困る。
マールはいそいそと街に繰り出し、雑貨屋へと向かった。金周りの良い街。案の定、化粧品の品ぞろえは首府に劣らなかった。文字通り最後の金で買ったアイシャドウと試供品で化粧をし、店の鏡を使って何度も笑顔の練習をする。化粧なんて長い間していなかった。愛想の良い顔とはこんな感じだったかしらん。
◇◆◇
目的地の教会は人に聞くまでもなく場所が分かった。
目印の高い塔を目指して歩いていると徐々に住宅や商店が少なくなっていった。線路敷設中の現場を過ぎると、緩やかな丘が広がりいよいよ街の外れといった雰囲気になる。
丘は美しく開墾されていた。二メートル程度の幅の道がゆるやかに続いており、マールは一人鞄をふかふかさせながら歩いた。他に歩行者は一人も見えない。大きな鳥が落とす翼の影が、背後からゆっくりとマールを抜き去って行った。鷲だ。鷲はしばらく旋回した後、眼前の教会の塔の先端に留まった。
活気あふれる街とは異なり、教会はひどくふるめかしかった。“窟”もそうだったが、名所でもなければ教会とはそんなものなのであろう。フリクエント族やヘイズ族だけのものだったこの土地に、我が国の信徒たちが入植し始めたころの建物なのかもしれない。参拝者はおらず静寂に満ちている。
庭で草をむしっていた使用人に用件を伝えると、老朽化した離れ、というよりは掘立小屋に案内された。
マールは、慎重に、品良く、ゆっくりと戸を叩く。
雇い主はどんな人だろう。やさしいだろうか。自分のような画家でも雇ってくれるような人であればいいけれど。
誰も出てこない。
再度、ノック。もう一度ノック。
最後にはこぶしを叩きつける。が、反応はない。
嫌がらせのような長い時間がたった。ようやく戸が開くと、二十前半だろうか、鼻筋が整い端麗な青年が顔を出した。緊張がにわかに戻ってきて、マールの背筋が伸びる。そして、青年の目にくぎ付けになる。
青年は美しかった。
聖職者の服装をしていなければ、女の子が放っては置かないだろう。
胸がさざめかなかった、と言えば嘘になる。
「マ、マール・チコルと申します。ヴァリアス・インフレト・ファクタル院長のお名前でご連絡が到着していると思いますが、専従画家としてご紹介いただき、さ、参上いたしました」
青年は首をかしげ、顎に手を当てた。
「ん?……ああ、もしかして、例の。まったく、先生ったら困ったな」
――あれ?
青年の怪訝な態度にマールは困惑する。
明らかに、話が通っていない。
甘い感情は一瞬で吹き飛んだ。
微笑みをたたえながら、動揺を伝えないよう必死で努力する。宿も金もない。ここで家に迎え入れてもらえなければ、――
「あ、あの!」
「まあ、とりあえず先生が帰ってくるまで、そこらへんで待っていてくれ」
こうして無情にも、マールの目の前で扉は閉じられてしまうのであった。
(※1)平均値は代表値(あるデータ群の特徴を示す値)の一種です。平均値は極端な値(外れ値)に影響されやすく、「ビル・ゲイツがある居酒屋で酒を飲めば、その店内にいるお客さんの平均年収は億超える」となるわけです。代表値の他の例として、中央値、最頻値などがあります。仮に12ヶ月間で各月に死者が(0, 0, 0, 0, 0, 0, 13, 0, 0, 0, 0, 0)と出た場合、中央値は小さい順番に並べて真ん中(0, 0, 0, 0, 0, 0, 0, 0, 0, 0, 0,13)、つまり6番目と7番目の数を足して2で割った「0」であり、最頻値は12個のデータのうち最も多く出た「0」となります。




