011話 ネフェル(?)の学生時代②
ネフェルは鞄を抱え、また目的地に向かって走っていた。
バルバトスに掴まれた腕はズキズキと痛み、酷い痣になることが容易に想像できた。一刻も早く冷水で冷やしたい気持ちはあったが、今はそれよりも目的地に急ぐ事が先決だった。
なんとか正門の前にたどり着いたネフェルだったが、そこには「新入生初登校一番乗り」を狙う生徒で混雑していた。
そんな人混みの中で、ネフェルは必死に相手の姿を探した。
すると正門近くの時計台の下に、その人物がいるのをネフェルは見つけた。
入学初日という不慣れな学園で、心細く思っていたネフェルは、見知った相手をみつけたことで迷子の子供が親と再会したような安堵感に包まれた。
その為、ほぼ反射的に相手に駆け寄り呼びかけた。
「お兄様! カーコスお兄様!」
息を切らせて駆け寄ったネフェルだったが、次の瞬間───
ネフェルはカーコスから容赦のない平手打ちを頬に受け、文字通り打ち倒されてしまった。
※ ※ ※
心優「ええっ!? お、お母様が打たれた……っ!?」
私はお母様が平手打ちをされたことに驚き、思わず立ち上がってしまいました。
心優「お母様っ! これは一体……!?」
ネフ「…………」
お母様は静かに目を閉じ、冷静なご様子でしたが、しかし私は、お母様の手が固く結ばれ、ドレスの裾を強く握り締めていることに気が付きました。
私は、ここで自分が取り乱してはいけないと察しました。
今、最も辛いお気持ちなのはお母様です。そのお母様がじっと耐えているのに、私が取り乱すわけにはいきません。その為、私は静かに腰を下ろしました。
このお話はお母様にとって、とても辛い過去の出来事でした。
私はお母様の手を包み込むように自分の手を重ね、お母様に感謝の意を伝えました。
心優「お母様、お話くださってありがとうございます。そしてカーコスとは……お母様のお兄さんだったんですね」
私がそういうとお母様は「そうじゃ」としっかりと頷かれました。
謎が一つ解けましたが、しかし私は同時に様々な疑問が浮かびました。
確かカーコスとは魔王と相対する勇者であったはず。なぜお母様のお兄さんが勇者に?
そしてそれより何より実の兄が妹を平手打ちするなんてどうしてそんな酷いことをするのか?
そのことを知りたくて、早くお話の続きを聞かせてもらいたいと思いましたが、今は過去の辛い出来事に対処をされているお母様に寄り添うべきだと察し、私は懸命にお母様の手を握り続けました。
※ ※ ※
一瞬、ネフェルは何が起こったのかわからず呆然とした。
しばらくして頬にヒリヒリとした熱い痛みが刻まれていること。そして見上げた兄・カーコスが冷たい目で自分を見下ろしていることから、自分が兄に平手打ちを受け、倒れたことをようやく理解できた。
「お、お兄様……どうして……?」
震える手でネフェルはカーコスに打たれた頬に手をあてた。
「どうしてだと?」
カーコスは実の妹を見る兄とは思えない冷淡な目でネフェルを見下ろし続けた。
「お前が俺に打たれる理由は三つある。───まず一つは「新入生初登校一番乗り」を目指せと厳命したのに、こんな遅くにのこのこと登校してきたことだ」
確かにネフェルはそう言いつけられていた。
その為、ネフェルは三時間も前に学生寮を出たのだが、実はネフェルも本当は五時間前に学生寮を出るつもりでいた。
しかし、昨日は学生寮への引っ越しで誰の手も借りられず、一人で荷物の片付けを行っていた為、疲れから寝坊してしまったのだ。
他の新入生は学生寮に引っ越す際、領地からお付きの者を伴ってくるのだが、ネフェルの領地は地方にあって魔界学園から遠く、また領地は豊かではあるが弱小貴族家で、お付きの者などは雇っていなかった。
その為、ネフェルは寮への入所手続きや荷物の運び入れ、そして荷解きと整理を一人でしなければならなかったのだ。
そして遅くなった理由はもう一つ───バルバトスに絡まれてしまっていたこともあった。
ネフェルはそれらのことを兄に訴え、言い訳をしようと思ったが、兄にはそうした言い訳は一切通じず、結果が全てだという事を思い出し、口をつぐんだ。
そうしてネフェルは言葉は抑え込んだが、代わりに目がジワリと潤み、涙が零れんばかりに溢れてきた。
「二つ目はお前ごときがこの学園に入学したことだ」
さらにカーコスは言葉を続けた。
「我がホーン家は爵位こそ伯爵だが所詮は辺境伯。その地位は王都中央の子爵、男爵にも劣る。魔界学園には地位のある貴族家の令息令嬢しか入学できない。地位の低い我がホーン家が入学するには莫大な寄付金を納めなくてはならない。俺一人が入学するだけでも我がホーン家の財政が傾くほどの寄付金を納めたのだ。だが有能な俺ならばそれほどの寄付金を納めてでも入学する意義があった。だが無能なお前にそんな意義は微塵もない」
自分の一切を無価値と断罪され、ネフェルは打ちのめされたが、不本意な部分もあった。その為、反射的に口を開いてしまった。
「わ、私もお父様とお母様に魔界学園に入学したくないと再三申しました! でもお父様とお母様は「お前のように容姿もよく、気遣いに長けた娘なら同じ伯爵家とは言わずとも王都に近い中央の子爵か男爵家の令息に見初められるだろう」と仰り、全くお聞き入れくださらなかったんです! それに私もそうしたお相手と婚約できればそれこそ我がホーン家の為になると思い、それで───」
ネフェルは必死に訴えたが、カーコスの返答は冷徹だった。
「お前を見初める令息など誰一人としているものかっ!!!」
カーコスの一喝は落雷のようにネフェルを穿った。
ネフェルはびくりと身体を強張らせ、胸の前で手を握ると、叱られる子供のように怯えた。
「お前は気が優しくて細かい事にも良く気付き、気遣いができる優しい娘だともてはやされているが俺から見ればそんなものはまやかしだ! お前は自分に自信がなく、人に嫌われるのが嫌で、絶えず相手や周囲の顔色を窺っているただの小心者だ!
そんなお前を見初める令息などいるものか!
だからお前は絶対に入学するなといったのだ。我が領地で薬草でも摘んで得意の回復薬でも作っていれば良かったものを」
カーコスは額に手を当ててかぶりを振ると、不快感をあらわにして大きな溜息をついた。
「そしてお前が打たれる最後の理由だが、それは俺の事を兄と呼んだことだ。
この学園では俺の事を兄と呼ぶなといったはずだ。俺は我がホーン家の為に日々、お前が想像もできないような努力をしている。その為、お前になど構っている暇はないと言ったはずだ。
それにお前のような愚鈍な奴が妹だと知れたら俺の評判にどんな傷が付く事か……。
だからあれ程きつく兄と呼ぶなと申しつけたのに、衆目集まるこのような場所で大声で俺を兄と呼ぶとは……。
言語道断だ! 俺の言い付けを軽んじるにも程がある!」
そういうとカーコスはネフェルの腕を掴んで乱暴に立ち上がらせた。
「立て、ネフェル。以上がお前が俺に打たれる理由だ。異存はないな?」
兄・カーコスの言い方は最初からネフェルに反論の余地を許さない決め付けだった。
ネフェルは何か申し開きをしたいという思いが刹那的に浮かんだが、すぐにそれは兄に対しては通用しないという絶望に押しつぶされた。
絶望は死に至る病───。その為、ネフェルは糸の切れた操り人形のように生気を失い、兄のすることに一切の反応を示さなくなってしまった。
無抵抗なネフェルに対し、非情にもカーコスは腕を打ち下ろすべく手を頭上高く掲げた。
兄の手が自らに打ち下ろされる未来がすぐ訪れる―――。
しかしネフェルは無抵抗なままだった。
それは絶対的な存在の兄に自らの全てを否定され、死を望むような心境に陥ったからだ。
いっそ平手打ちではなく、剣で首を切り落としてくれればよいものを……。
ネフェルはそう考えてしまうまでに思い詰めていた。
命を投げ出すように無抵抗のまま、ネフェルはカーコスの一撃を待った───。
───だが、しかし、その瞬間はこなかった。
振り上げたカーコスの手を別の誰かが鷲掴みにし、ネフェルを凶事から救ってくれたのだ。
カーコスの腕を掴んだのは黒いドレス姿の男性だった。
ドレス姿だったので一瞬、女性かと思ったが、その人物は明らかに男性だった。
男性のドレスは胸元がとても開放的で、逞しい胸板があらわになっていた。スカートのスリッドも大きく、筋肉質だがしなやかなおみ足が露わになっていた。
とても美しい男性だった。
ドレス姿は女装とかそういう趣向で着用しているのではなかった。
この美しい男性は、自分の魅力を十分理解して自分に最も似合う、最上の衣装を身につけているのだとネフェルは瞬時に悟った。
ネフェルはその男性の美しさに目を奪われてしまった。
ドレス姿の男性は、自ら光を放っているかのように輝き、その動きは細部までがまるで時間の流れが違うかのようにゆっくりと移ろい、その一瞬一瞬がネフェルの瞳に鮮明に刻まれた。
その美しい男性は想像通りの美声でカーコスに問い質した。
「なんじゃ、カーコス。朝っぱらから何をしておる」
カーコスも自分の腕を掴んだ相手が誰かわかったようだった。そして親の仇でも見るかのように相手を睨んだ。
「誰かと思えば貴様か。手を離せ。お前には関係ない。これは家族の問題だ」
カーコスとこの美しい男性は知り合いのようだった。
「家族じゃと? この者はまさかおぬしの妹か?」
「そうだ。俺の妹だ。だからお前は口出しをするな。妹に何をしようと兄の勝手だ」
カーコスは腕を振り払おうと力を込めたが、カーコスの腕を掴む美しい男性の腕は微動だにしなかった。
「馬鹿を申せ。この者がお前の妹であるならなおさらこの手は離せぬ。兄ならば、一番に妹を守ってやらねばならぬ存在だ。その兄が妹を殴るなどもってのほかじゃ。
そしてそのような愚行が眼前で行われる事を、このスレキアイ・バアル・アスタロッドは絶対に看過せぬぞ」
※ ※ ※
心優「ぅあぅ〜、あぅあぅあぁぁぁ~ん……」
私は号泣していました。
ネフ「なんという声をあげて泣くんじゃ。それにおぬしがそんなに泣きじゃくってどうする」
心優「だっで……だっでおがあさまががわいそうで~……あぅあぅあぁぁ~ん」
大口を開けてわんわん泣きじゃくる私をお母様は懸命になだめてくださいました。
ネフ「まったく。この話をして泣きたいのは妾じゃというのに。ほれ。鼻をかめ。涙と鼻水で顔がグシャグシャじゃぞ。妾の顔をそんなに汚すな」
お母様にそう促されて私はハンカチを取り出すと盛大に鼻をかんで涙をぬぐいました。
もっとも今の私の身体はお母様の身体なので、傍目には泣きじゃくったお母様が盛大に鼻を噛んでいるように見えるでしょうが。
ネフ「どうじゃ? 少しは落ち着いたか?」
心優「ビッグ……。はい”……お”ぢづぎま”じだ……。お見苦じい所をお見せじてしづれいしまじだ」
私はお水を一口飲んで、さらに自分を落ち着かせました。
心優「お母様、すみません。私が教えて欲しいと申したばかりに、こんな辛いことをお話しいただきまして」
ネフ「よい。もとよりこれは妾の方こそ最初におぬしに言っておくべきだったことじゃ」
心優「そう思っておられてもやはり話すのは気が引けたのですね」
ネフ「そうじゃな。だがこれ程の辛い話じゃ、妾が躊躇ったとしても責めることはできまい?」
そう言われて私はもちろんですと大いに頷きました。
心優「そしてスレキアイさんは、確かマルフィスさんの……」
ネフ「そうじゃ。先代魔王にしてマルフィスの父、そして妾の夫じゃ」
それを伺うと私の口角はグググッと引き上がりました。
心優「ほっほ~ぅ。この方がお母様の旦那様なのですね。へぇ~、ほぉ~、これはこれは……」
ネフ「なんじゃ。ニヤニヤとだらしなく笑いおって」
心優「いやだってとてもハンサムで綺麗でカッコ良くて。お母様もしっかり目を奪われてしまってましたね」
ネフ「よさんか。気恥ずかしい。窮地を救ってくれた事を有難いと思っていただだけじゃ」
心優「えぇ~? そうですかぁ~? でもこの方とご結婚されてますよねぇ~?」
私はからかい半分で意地悪くお母様に詰め寄りました。
ネフ「まったく。こういう話には貪欲に喰いつきおって。まあ、確かにこのあとスレキアイにあることをされてな。ヤツに嫁入りするしかなくなってしまったのじゃ」
心優「嫁入りせざるを得ないあること……ですか?」
ネフ「そうじゃ」
心優「それって───……」
ネフ「こら。破廉恥な行為を想像するな。そのような淫らな行為ではない。つまりはアレじゃ。魔界的なお作法で、それをされるともうその相手に嫁入りするしかないというそういう行為じゃ」
魔界的なお作法で相手に嫁入りするしかないという行為───
それがなんであるか私はとても興味を覚えました。
そしてお母様のお話の続きをおねだりしました。




