010話 ネフェル(?)の学生時代①
ネフェルが学生寮を飛び出したのは入学式が始まる三時間も前だった。
しかし、それでもネフェルは登校が遅くなってしまったと焦っていた。
真新しい学生鞄を胸の前で抱くと、取る物もとりあえずといった様子で大急ぎで駆け出した。
この時間は部活動の朝練に向かう学生が多く、校内の目抜き通りは早朝にもかかわらず多くの生徒が行き交っていた。
ネフェルはそうした学生の間を縫うように走り、目的地へと急いだ。
しかし学生を一人追い越したと思ったら、すぐにまた別の学生に行く手を阻まれ、ネフェルは川を流れる木の葉のように右に左に翻弄されてしまった。
足がもつれそうになりながらも、それでもなんとか目的地に向かってネフェルは走り続けたが───
「きゃっ! あ、あの、すみませんっ!」
ついにネフェルは三人横並びになってふざけ合っている学生の一人にぶつかってしまった。
ネフェルは十分な距離をとって避けたつもりだったが、相手がふざけ合って不意に進路を変えたので、ネフェルの目測が狂ってしまったのだ。
ネフェルのような新入生が入学式を迎えるこの時期、部活動をしているのはネフェルより年上の先輩ばかりだった。
相手もネフェルの真新しい鞄や制服を見て、自分にぶつかった相手が新入生であることをすぐに察したようだ。
「おいおい。なんだよ一年生。さてはお前、わざと俺にぶつかったな?」
ネフェルがぶつかってしまったリーダー格の男子学生が薄ら笑いを浮かべてネフェルに絡んできた。
「やっぱりそうか。ボクも今のはちょっと不自然だと思ったんだよね」
もう一人の男子学生も同調し、同じ様にネフェルに絡んできた。
「アナタ、ナニしてんのよ。ちゃんと前を向いて歩きなさいよ」
三人組の中で唯一ネフェルと同姓の女学生は、せっかく三人で楽しくはしゃいでいたのに、水を差されて不快感をあらわにしていた。
三人は自分達が往来の真ん中で周りの迷惑も顧みず、ふざけ合っていたことは棚に上げ、からかい半分でネフェルに絡んできた。
「ひょっとしてこの俺ときっかけでも作りたかったのか?」
嫌らしい笑みを浮かべてリーダー格の男子学生がネフェルに顔を近づけた。
「へぇ~。キミ、やるじゃん。だとしたら見る目あるよ。この方は魔界の公爵サタナキア家のご長男バルバトス様だからね」
「す、すみません。あの、違います。本当に急いでいて……。
すみませんでした!」
ネフェルは三人の脇を抜け、逃げ出すように走り出したが、すれ違いざまに腕を掴まれてしまった。
「おい、待てよ! 大丈夫だって、俺は怒ってなんかいないさ。勘違いするな。俺は優しい先輩なんだ。
それよりお前、もっとよく顔をみせろよ。
───へえ。おい。見てみろよアガリプレスト。この新入生、結構かわいいぜ」
「あれ? ほんとだね。まだ一年生だから子供っぽいけど、そこがまたカワイイじゃん」
二人は顔を近づけてネフェルを舐め回すようにジロジロと品定めした。
「バルバトス様、小娘にそのような事を申してはいけません。たいして可愛くもない娘が勘違いをしてしまいますわ」
「リリスも見てみなよ。この娘、お前よりカワイイんじゃないか?」
「あ”っ? クソ兄貴。つまんねぇジョーダンほざいてんじゃねぇぞ。こんな小娘がアタシよりカワイイわけねぇだろが!」
リリスはムキ顔で兄アガリプレストを睨みつけた。
「お前はどこの家の者だ? この学園に入学できたという事は、それなりの地位と財力のある家の者だろ?」
バルバトスがさらに顔を近づけてネフェルに問い詰めてきた。
「わ、私は名乗るほどの者ではありません。あと、本当に急いでいて。すみません、どうか手をお離し下さいっ……」
なんとか腕を離してもらおうとネフェルは抵抗したが、上級生の男子に掴まれた腕は、ネフェルの細腕で振りほどくことはできなかった。
「いいじゃないか。名前くらい教えろよ」
「そうだぞ一年生。公爵家のご長男がこう仰ってるんだ。ちゃんと名乗らないと失礼だぞ」
※ ※ ※
心優「お母様」
ネフ「…………」
心優「あの、お母様」
ネフ「…………。なんじゃ」
心優「えっと……。私はお母様の学生時代のお話しが聴けるのかと思ったんですが、これは誰の学生時代のお話しなのでしょう?」
ネフ「誰もなにも妾の学生時代の話じゃ。何を言うか」
心優「いやいやいやいや……。何を言うかって。だってこの女の子はお母様と全く似ていないじゃないですか。顔は可愛いですし、胸も立派ですが、可憐でか弱く、うつむき加減で、今のお母様とは正反対です」
ネフ「失礼なことを言う奴じゃな。おぬしは妾をなんだと思っておるのじゃ。これは妾の学生時代の話じゃ。嘘偽りはない」
心優「お母様の学生時代って何年前のことですか?」
ネフ「そうだな。10年ほど前ではないか?」
心優「10年は短くはありません。しかし、お母様がここまで変貌してしまうのには期間が短過ぎます。お母様、何があったんですか? 次元の狭間に吸い込まれたんですか? それとも誰かと一緒に階段から落ちて身体が入れ替わってしまったんですか?」
ネフ「本当に失礼なことを言う奴じゃな。そんな狭間には吸い込まれておらんし、誰かと一緒に階段からも落ちておらん。妾がこうなったのにはちゃんと理由があるのじゃ。今からそれを聞かせてやるから黙って聞くのじゃ。話の腰を折るでない」
そう云われて私は黙ってお話の続きを聞くしかありませんでした。
でもこの女の子が本当にお母様なのかは信用できず、まだまだ半信半疑でした。
※ ※ ※
バルバトス、アガリプレスト、リリスは執拗にネフェルに絡んだ。
ネフェルはなんとか逃れようと抵抗したが、その姿がより三人の加虐心を煽り、行為を陰湿化させていった。
ネフェルはどうしてよいかわからず困惑し、パニック寸前になったが、その時───
「やあ、バルバトス。おはよう。こんなところで何をしているんだい?」
そうバルバトスに挨拶をしたのは金髪の優しそうな顔立ちをした糸目の学生だった。
「げっ……。ルーシファス」
あからさまに顔をしかめたのはアガリプレストだった。
「やあ、アガリプレストも。おはよう。バルバトスと君が一緒という事はこちらの美しい御令嬢は───」
「おはようございます。ルーシファス様。プルフラス侯爵家の長女リリスでございます」
リリスはスカートの端を少し摘まんで優美なカーテシーで挨拶をした。これにはルーシファスもボウ・アンド・スクレープで挨拶を返した。
「やはりリリス嬢でしたね。ご丁寧な挨拶をありがとうございます。でもどうかそんなにかしこまらないでください。僕たちは家同士が決めた事とはいえ、一度は婚約の儀が話し合われた仲ではありませんか」
そう言ってルーシファスはリリスの手を取ると甲に口を寄せた。
男性が女性に対する敬意をあらわす挨拶だったが、リリスは喜ぶどころか苦々しい表情になった。
そしてそんなリリスより、さらに不快感をあらわにしたのは兄のアガリプレストだった。
「やめろよ、ルーシファス。今更そんなことをして妹を辱めるな。こちらが申し出た婚約の話をアスタロッド家は一蹴したじゃないか」
厳しい剣幕のアガリプレストに対して、あくまでルーシファスは涼やかに対応した。
「まってくれよ、アガリプレスト。その話を断ったのは僕じゃないさ。あくまで家同士の話でまとまらなかっただけだよ。
我がアスタロッド家は公爵だけど、公爵家の中での序列は高くない。対してプルフラス家は侯爵家の中で序列は高く、財力も公爵家を凌ぐほど。客観的に見ても良い縁談だと僕も思ったんだけどね」
これ以上は辛抱できないといった様子でリリスはルーシファスの手を振りほどくとバルバトスの腕に抱きついた。
「お心遣いありがとうございます、ルーシファス様。でもどうかもうお気になさらないでください。私どもは今はバルバトス様と婚約の話を進めております。バルバトス様は夜会には私をエスコートしてくださるとお約束してくださいました。話は順調に進んでおります」
そういってリリスは必要以上にバルバトスの腕に抱きついた。
「へぇ。そうなんだ。バルバトス、さすがだね。序列最高位の公爵家は先見の明がおありだ」
言葉は最上の誉め言葉だったが、バルバトスは自分が見下されているように感じてならなかった。
「黙れ、ルーシファス。リリス譲と俺の婚約は兼ねてより決まっていた周知の事実だ。それを突然搔き乱すように横やりを入れてきたのはお前たちアスタロッド家じゃないか。プルフラス家がアスタロッド家に婚約の儀を申し入れただと? ふざけるな! 申し入れをさせるようアスタロッド家が圧力をかけたんじゃないか! しかもそうまでしておきながら話を一蹴するとは無礼にも程がある!」
バルバトスにも厳しい剣幕を向けられたルーシファスは苦笑いをするしかなかった。
「まあ、そうだね、バルバトス。その件については本当に申し訳ない。でもリリス譲がこれ程までにお美しいと、無駄だと分かっていても僅かな可能性に賭けてこちらも縁談の可能性がないか探りたくなるというものさ」
その言葉はリリスと、リリスの兄アガリプレストには嫌味以外の何ものにも聞こえなかった。
「ところで───……」
ルーシファスは身体を傾けてバルバトスが腕を掴んで後ろに隠している新入生を覗き見て訪ねた。
「その一年生は誰なんですか?」
※ ※ ※
心優「ルーシファスさんは学生時代からまったくお変りありませんね。一目でわかりました」
ネフ「そうじゃな。容貌でいえば今と変わりないな」
心優「ただ丁寧な物腰が少し鼻についてしまいますね……」
ネフ「本人に悪気はないのじゃが、やはり慇懃無礼に感じる者は少なくないじゃろうな。無自覚に敵を作ってしまうタイプじゃ。だがそれでも周囲から───特に女生徒からは慕われておったぞ」
心優「それにしても良い所に来てくださいました。この後、お母様を助けて下さったんですよね?」
ネフ「まあ、無関係ではないが直接的ではないとも言える」
心優「そうなんですか? わかりました。ではお母様、お話の続きをお願い致します」
私はこの後の展開がどうなるのかとても楽しみになりました。
ワクワクしながらお母様が続きをお話くださるのを、絵本を読んでもらう子供のように待ちわびました。
※ ※ ※
「ルーシファス、お前には関係ない!」
バルバトスはそういって尚も強くネフェルの腕を引いて自らの背後に隠した。
その乱暴な扱いと腕の痛みでネフェルの顔は苦悶の表情に歪んだ。
「本人はかなり嫌がっているようですが……。本当に大丈夫なんですか?」
その瞬間、ルーシファスの糸目がスッと開かれた。
バルバトス、アガリプレスト、リリスの三人に緊張が走った。三人も「糸目が開くこと」の意味を十分に理解していたのだ。
三人は反射的に身構えてしまい、ルーシファスと対峙するような構図になってしまった。
その結果、四人はピリピリとした緊張感に包まれてしまった。
そんな一触即発のような状況を打開したのはウィンリルだった。
「あれ? お~い! ルーシファス兄ちゃ~ん!」
場の空気を無視した屈託のないウィンリルの声は四人の間の緊迫感をかき消した。
「こんなところで何してるの?」
興味津々といった様子でウィンリルはやってきたが、そのすぐ後ろにいたグランダムがウィンリルはもちろん、バルバトス、アガリプレスト、リリス、それにルーシファスさえも突き飛ばした。
「お前たち邪魔だ。どけ。道を空けろ」
「おっとっと。まったく兄さんは乱暴ですね」
ルーシファスが苦情を申し上げたがグランダムは意に介さず、そのまま何事もなかったかのように通り過ぎていった。
「道のど真ん中で立ち止まっているお前たちが悪い」
そう言うグランダムの歩みは速く、何かを急いでいるようだった。
グランダムの進路にいた生徒は背後からくるグランダムの圧力に気付き、振り返ってグランダムを見ると左右に分かれて道を譲った。
その為、グランダムの前には海が割れる様に道が拓かれていった。
「ごめんね、ルーシファス兄ちゃん。ボクたち急いでるんだ」
ウィンリルは両手を合わせてルーシファスに「ごめんね」をすると、駆け足でグランダムの後を追った。
「兄さんもウィンリルもそんなに急いでどこに行くんですかっ?」
ルーシファスが二人の背中に問いかけた。
「知れたことだ。今日は入学式だぞ。ウィンリルを新入生初登校一番乗りにさせるのだ」
振り返りもせずグランダムは背中でそう答えた。
「そういうことなんだよ、ルーシファス兄ちゃん。それじゃあね~」
手を振りつつウィンリルはグランダムの後を追っていった。
「そういえばそんなことを競う伝統がこの学園にはありましたね。
そういえばバルバトスは数年前の新入生初登校一番乗りの栄を勝ち取っていたね」
「それがなんだ。くだらない。今にして思えばあんなもの、子供の意地の張り合いだ」
「まあ、そう言わないでよ。僕も頑張ったけど、まさか前日の晩から正門の前で待機してるなんて思いもよらなくて。君には完敗だったよ」
これは嘘偽りのないルーシファスの尊敬の言葉だったがバルバトスには通じなかった。
「そうそう。それで君の後ろにいる一年生だけど───。……あれ? いなくなってるね」
ルーシファスはバルバトスの後ろにいたネフェルを探したが、その姿はすでになくなっていた。
バルバトスも自分が掴んでいた獲物が逃げたことに気付き、周囲を見渡したが、この混乱の隙にネフェルはバルバトスの手を逃れ、その場から走り去っていた。
「あの娘は誰だったんだろう……? 誰かに似ているような……。どこかで見たことがあるような気がしたんだけど……」
ルーシファスは軽く腕組みをして唸ったが、答えを絞り出すことはできなかった。
※ ※ ※
ネフ「何がそんなに愉快なのじゃ?」
心優「だって、お母様。グランダムさんが若々しくて。今のお姿と比べるととても新鮮でした。それにウィンリルさんも幼げでとても可愛いです。いかにも学生時代って感じです」
ネフ「まあ、そうじゃな。奴らも当時は本当に学生だったな」
心優「グランダムさんは少し乱暴ですが、そのおかげで逃れることができてよかったですね」
ネフ「結果的にそれはそうじゃが、危うく妾も突き飛ばされるところじゃった。有難いとは思うがグランダムに礼を申す気にはなれんな」
心優「それにお母様が急いでおられた理由もわかりました。お母様も新入生初登校一番乗りを狙っていたんですね」
ネフ「うむ……。狙っていたというか、狙わされたというか……」
心優「え? どういうことですか?」
ネフ「当時の妾はそのようなものに興味などなかった。だが妾の意志とは関係なく、そうさせたいと思う者がおったのじゃ」
そう仰るお母様は「その誰か」を思い浮かべたようでした。
そして「その誰か」を思うとお母様はとても緊張されるようです。私はお母様の胃がキュッと固くなるような不快感を共有しました。
お母様がお話を再開するには、気持ちが落ち着くまで少し待つ必要があると私は察しました。
その為、私は沈黙し、静かにその時を待ちました。




