噂
「ただいま戻りましてよ」
「お邪魔します」
俺はエマの手を引き、無事……とは言い難いものの、どうにか寮の自室へと逃げ帰ることに成功した。
(疲れた……本当に疲れた……)
ようやく一息つける。
俺が安堵のため息をついていると、部屋の奥からアンナがやってきた。
「おかえりなさいませ、お嬢様。そして、いらっしゃいませ、エマ様」
アンナは、いつも通りの優しい笑顔で俺たちを迎えてくれた。
「お食事の準備は整っておりますので、すぐにお持ちいたします。どうぞ、お席についてお待ちください」
俺たちはアンナに案内されるまま、テーブルの席に着いた。
案内を終えたアンナは、食事を取りに行くためか、すぐに部屋を出ていった。
「夕飯、楽しみですね!」
隣では、エマが待ちきれないといった様子で目を輝かせている。
(……まだ食べるのかよ)
つい先ほどまで、酒場で山盛りの串焼きを食べていたはずなのだが。
いったい、あの小さな体のどこに、これだけの食べ物が入るというのだろうか。
……いや、体は小さくないか。
そんなことを考えていると、アンナが戻ってきた。
「お待たせいたしました」
アンナが押してきた配膳ワゴンには、銀色の蓋が載った大皿と、パンの入ったバスケットが並んでいた。
(……どこからこんなものが出てくるんだ?)
ワゴンを見て、ふと疑問が浮かんだ。
だが、アンナが大皿の銀蓋を持ち上げた瞬間、そんな疑問はあっという間に吹き飛んだ。
「おおー!」
「すごいですわ!」
エマと俺の声が重なる。
大皿の中央には、色とりどりの野菜に囲まれた、立派な魚料理が盛り付けられていた。
魚は一度焼かれているようで、皮には食欲をそそる美しい焼き色がついている。
さらに、その上には黄金色の餡がたっぷりとかけられていた。
(これは……美味そうだ!)
思わず見入っていると、アンナが尋ねてきた。
「お取り分けしてもよろしいでしょうか?」
「ええ、お願いいたしますわ」
アンナは慣れた手つきで魚の骨を取り除き、身を食べやすい大きさに分けていく。
そして、取り分けた皿を俺とエマの前に置いた。
「どうぞ、お召し上がりください」
「わぁ!」
エマは、目をキラキラと輝かせながら料理を見つめていた。
「ところで、エマさん」
「はい?」
「先ほどのお話に戻りますけれど……わたくしの噂というのは、いったいどのようなものなのでしょう?」
料理の準備が整ったところで、俺はさっそく本題を切り出した。
「えっとですね……」
エマは言いにくそうに言葉を濁すと、助けを求めるようにアンナへ視線を向けた。
しかし、視線を受けたアンナはというと――。
「そ、それでは、私はこれで失礼いたしますね」
そそくさと部屋を出ようとしていた。
(……待てよ? アンナなら噂どころか、セシリアの過去を詳しく知っているんじゃないか?)
エマから話を聞くだけでは足りない。
むしろ、アンナの話こそ聞くべきなのではないだろうか。
「アンナ、お待ちなさい」
「はいっ!」
呼び止められたアンナの肩が、びくりと跳ねた。
俺はなるべく穏やかな表情を浮かべ、アンナに席へ戻るよう促した。
「アンナ。これは命令ですわ」
「……はい」
「こちらに座って、エマさんと一緒に、わたくしの噂についてお話しいただけるかしら?」
できるだけ優しい口調で尋ねたつもりだった。
「……承知いたしました」
アンナは、どこか諦めたような顔で席に着いた。
「わ、私もですか?」
エマもまた、困ったように首を傾げている。
こうして、あまりにも話したくなさそうな二人を交えた、セシリア・モンフォールの噂話を聞くための夕食会が幕を開けたのだった。
祈りを終え、夕食を食べ進めていけば、自然と会話も弾むだろう。
そんな楽観的な予測から始まった夕食会だったが……。
「……」
「……」
現実は、あまりにも残酷だった。
自然と会話が弾むどころか、「美味しい」のひと言すら出てこない。
食器の触れ合う音だけが、気まずい空気の中に響いていた。
(おかしい……。こんなはずではなかったのに……)
俺は、絶望的な空気の中で、いったいどこで間違えたのかと首を傾げた。
(このまま黙っていても始まらないし……。可哀想だけど、仕方ないか)
俺は意を決してアンナに視線を向けた。
「アンナ。わたくしの世間での評判について、教えてくださいませんこと?」
できる限りの笑顔を浮かべて尋ねる。
すると、アンナは勢いよく立ち上がった。
「は、はい! セシリア様は可憐で上品で、とても努力家で、優雅なお方でございます!」
背筋をぴんと伸ばし、運動会の選手宣誓さながらの大声で答えてくれた。
(絶対に嘘だ!)
「嘘ですわよね!」
俺が即座にツッコミを入れると、アンナは勢いよく頭を下げた。
「申し訳ございません! 申し訳ございません! 申し訳ございません!」
何度も何度も、必死に謝罪を繰り返している。
(……その反応だけで、十分察しがつくんだよなぁ)
俺は、引きつりそうになる顔をどうにか取り繕った。
とはいえ、想像だけで判断するのもよくない。
俺は心を鬼にして、改めてアンナに問いかけた。
「アンナ。わたくしは、どのようなことを聞いてもあなたを咎めませんわ。ですから、正直に話してくださいまし」
「は、はい……。えっとですね……。お嬢様は、少々周囲の方々への当たりが厳しいところがおありかと……」
アンナは、恐る恐るといった様子で話し始めた。
(……でしょうね)
屋敷での執事の反応や、アンナの異様なまでの怯えっぷりを見てきた俺にとって、特に驚くような話ではなかった。
「具体的には、どのような点でそう感じられましたの?」
「そ、その……! 決して私がそう思っているわけではなく、先輩方がお話しされているのを聞いただけでございますよ!」
アンナは慌てた様子で弁明を始めた。
(はあ、何かしら被害を受けた人間の反応じゃん……)
俺は内心でため息をついた。
「アンナ。具体的なお話をしてくださいませんこと?」
「は、はい! 失礼いたしました!」
(怒っているわけじゃないんだけどな……。今それを説明しても、余計に話がややこしくなるだけか)
俺は黙ってひとつ頷き、続きを促した。
すると、アンナは少し迷ったあと、口を開いた。
「……私の前任者のことを、覚えておられますか?」
(前任者か。前任者ってことはクビになったか、役目を変えられているんだよな。正直に知らないと言えば、その名前を出すなと言っているようだし。かといって、知っているふりをするわけにもいかないし。どう返せば、アンナが話しやすくなるんだ……?)
俺が頭を悩ませていると、ふと妙案が浮かんだ。
「そうですわ! アンナ、わたくしではなく、エマさんにお話しになってはいかがかしら? その方が話しやすいのではなくて?」
「エマ様に、でございますか……?」
アンナは眉をひそめ、隣に座るエマへと視線を向けた。
「それって、話しやすくなりますか?」
エマも不思議そうに首を傾げている。
(……確かに、それもそうか。俺が席にいる限り、二人が話しにくいことに変わりはないよな。だったら、俺がいなくなればいいじゃん!)
俺はやっとこの状況を打開できそうな一筋の光を見つけて迷わず飛びついた。
「でしたら、わたくしは部屋を出ていきますわ!」
俺は手近にあったガラスのコップを手に取り、勢いよく立ち上がった。
「ですので、なるべく大きな声でお話しなさい!」
そう言い残し、俺は意気揚々と部屋を後にした。
「えっ? えぇ? どういうことですか?!」
「しょ、承知いたしました……?」
背後から、エマとアンナの困惑した声が聞こえてきた。




