第6話 焼ける巣
人間は、朝に来た。
洞窟の外から、最初に届いたのは足音ではなかった。
匂いだった。
油の匂い。
獣の脂を煮詰めたような、重く、鼻に絡む匂い。
次に、鉄の音。
鎧。
剣。
槍。
そして、瓶の中で揺れる液体の音。
黒い蜘蛛が、巣の中央で糸を震わせた。
――火を持ってきた。
その一言で、巣全体が静かになった。
子蜘蛛たちが奥へ下がる。
怪我をした蜘蛛が、糸の陰に隠される。
戦える蜘蛛だけが、入口側の糸へ散った。
俺もそこにいた。
昨日張ったばかりの警戒糸に、脚を置いている。
震えが来る。
数は多い。
五人、いや、六人。
昨日逃げた鎧の男がいる。
松明の男もいる。
毒で動きが悪い。
それでも戻ってきた。
弓の男はいない。
俺が殺したからだ。
その事実が、体の奥に重く残っていた。
「奥に巣がある。昨日は毒蜘蛛に一人やられた」
鎧の男の声。
「だったら焼けばいい。蜘蛛なんぞ、巣ごと燃やせば終わる」
別の男が言った。
当たり前みたいな声だった。
巣ごと。
そこに卵があることも。
子がいることも。
古傷の糸包みがあることも。
あいつらには関係ない。
ただ、燃やせば終わる。
俺は糸を強く握った。
黒い蜘蛛が、こちらを見た。
――震えが大きい。
――分かってる。
――怒りは、敵に見せるな。糸に乗せろ。
糸に乗せる。
その意味が、今なら少し分かる。
俺は怒りを叫べない。
牙を剥いても、人間には伝わらない。
だから、罠にする。
怒りを、待つ形に変える。
入口に張った糸は三重。
足を取る糸。
松明を落とす糸。
天井の石を引く糸。
全部、昨夜のうちに黒い蜘蛛たちと張った。
俺の糸はまだ細い。
古傷のようにはいかない。
それでも、この巣の一部にはなっていた。
「火を入れろ」
人間の声。
瓶が割れる音。
油が地面に広がる。
松明が近づく。
熱が来た。
俺の身体が、本能的に下がろうとする。
火は怖い。
俺はまだ、火で死んだことがない。
つまり、火なら死ぬ。
簡単に。
確実に。
だが、下がれば奥の子蜘蛛たちまで焼かれる。
黒い蜘蛛が糸を弾いた。
――今。
俺たちは一斉に動いた。
入口の糸が跳ねる。
先頭の男の足に絡む。
「うおっ!」
男が倒れた。
松明が岩に当たり、火の粉が散る。
同時に、天井から石が落ちた。
大きな石ではない。
だが、人間の頭に当たれば十分だった。
鈍い音。
男が呻く。
蜘蛛たちが天井から降った。
黒い蜘蛛が鎧の男の腕へ噛みつく。
別の蜘蛛が松明の男の首筋へ走る。
俺も動いた。
狙いは、油の瓶を持つ男。
こいつを止めなければ、巣は燃える。
俺は壁を走った。
昨日より速い。
脚が迷わない。
糸の振動で、人間の動きが分かる。
男が瓶を投げようとした瞬間、俺はその手首に糸を絡めた。
「また蜘蛛だ!」
男が腕を振る。
俺の体が空中で揺れた。
怖い。
振り回される感覚に、スライムの時の死がよみがえる。
木の棒で潰された感覚。
でも、今の俺には打撃耐性がある。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
まだ死なない。
俺は糸を引いた。
瓶の軌道がずれる。
油の瓶は巣の奥ではなく、洞窟の壁にぶつかって割れた。
油が壁を伝って落ちる。
助かった。
そう思った瞬間、松明が投げ込まれた。
火が油に触れた。
炎が、壁を這って走った。
赤い舌のように。
一瞬で、熱が膨れ上がる。
糸が燃える。
張り巡らされた道が、次々に切れていく。
巣が悲鳴を上げた。
声ではない。
糸の震えだった。
焦げる糸。
逃げる子蜘蛛。
卵嚢を運ぼうとする小さな脚。
黒い蜘蛛が叫ぶように震わせた。
――奥へ逃がせ!
俺は振り向いた。
子蜘蛛が一匹、燃え始めた糸の向こうで動けなくなっていた。
小さい。
第五話で、古傷は戻らないのかと聞いた子蜘蛛だった。
火が近づいている。
誰かが助けに行かなければ、焼ける。
黒い蜘蛛は鎧の男に押さえ込まれていた。
他の蜘蛛も人間と絡んでいる。
俺しかいない。
行けば、死ぬかもしれない。
火は俺を殺せる。
それでも、脚は動いていた。
俺は燃える糸の上へ飛び出した。
熱い。
熱い。
脚先が焼ける。
体毛が縮れる。
体液が沸くような感覚が走る。
火は、斬撃とも打撃とも違った。
逃げ場を奪う。
空気ごと敵になる。
俺は子蜘蛛へ向かって走った。
子蜘蛛は震えていた。
――こわい。
俺は糸を飛ばした。
――動くな。
子蜘蛛の体に糸をかける。
引く。
軽い。
だが、燃えた糸が崩れた。
俺の足場が落ちる。
下にも火がある。
俺は壁へ跳んだ。
子蜘蛛を引き寄せる。
その瞬間、炎が背中を舐めた。
痛い。
いや、痛いなんてものじゃない。
体そのものが壊れていく。
脚が一本、動かなくなる。
次にもう一本。
焼けた糸が体に絡む。
俺は子蜘蛛を奥へ投げるように糸で弾いた。
黒い蜘蛛の仲間が受け止める。
子蜘蛛は助かった。
俺は、火の中に落ちた。
全身が燃えた。
蜘蛛の身体が縮んでいく。
視界が赤く滲む。
糸の震えが遠ざかる。
黒い蜘蛛の声が聞こえた気がした。
――戻れ!
無理だ。
脚が動かない。
体が割れる。
熱で意識がほどける。
俺は、古傷の糸包みを見た。
炎の向こうで、古傷の場所はまだ燃えていなかった。
よかった。
そう思ってしまった。
死ぬのに。
また死ぬのに。
俺は、少しだけ笑った気がした。
ゴブリンの時は、何もできずに殺された。
スライムの時も、子供に潰された。
蜘蛛になって、古傷と話した。
古傷の死体を巣へ運んだ。
初めて敵を殺した。
そして今、子蜘蛛を一匹逃がした。
強くなったわけじゃない。
勝ったわけでもない。
でも、ただ殺されるだけではなかった。
それだけで、少しだけ違う。
炎が、俺の視界を塞いだ。
最後に、巣の糸が震えた。
たくさんの蜘蛛の震え。
悲鳴。
怒り。
呼び声。
その中に、黒い蜘蛛の低い震えがあった。
――生き残ったものに、名はつく。
俺は返せなかった。
でも、思った。
次は。
次の身体では。
俺は、この火を忘れない。
《死亡を確認しました》
《死因を解析します》
《死因:炎熱》
《副次要因:煙、糸拘束、全身焼損》
《加害個体:人族/討伐隊》
《炎熱耐性・微を獲得しました》
《煙耐性・微を獲得しました》
《過去転生種族:ゴブリン、スライム、洞窟蜘蛛》
《ゴブリン、スライム、洞窟蜘蛛への再転生は不可》
《次回転生種族を抽選します》
暗闇の中で、俺はまだ熱かった。
体はもうないのに、火だけが残っている。
古傷。
黒い蜘蛛。
子蜘蛛。
焼ける巣。
俺は全部覚えていた。
《抽選完了》
《次回転生種族:沼蛭》
沼蛭。
強くなったわけではない。
むしろ、また弱そうだ。
手もないだろう。
脚もないかもしれない。
牙はあるのか。
目は見えるのか。
分からない。
それでも、ひとつだけ確かだった。
俺はもう、あの火で同じようには死なない。
次に目を覚ました時、俺は冷たい泥の中にいた。
暗い。
重い。
息ができない。
いや、息の仕方が違う。
体は細長く、ぬるぬるしていた。
水と泥が、皮膚の全部にまとわりついている。
遠くで、誰かの足が水を踏んだ。
人間の足音ではない。
獣か。
魔物か。
俺は泥の中で、ゆっくりと身を縮めた。
火はない。
光もない。
だが、この身体にも、この身体の生き方があるはずだ。
俺は、泥の底で初めて動いた。
ゴブリンでもない。
スライムでもない。
洞窟蜘蛛でもない。
今度は、沼蛭として。
死んだ巣の熱を、覚えたまま。
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現在のステータス
名前:未設定
現在種族:沼蛭
過去転生種族:ゴブリン、スライム、洞窟蜘蛛
転生回数:4回目
死亡回数:3回
撃破数:人族弓兵 1名
前回死因:人族討伐隊による炎熱死
獲得耐性:斬撃耐性・微、打撃耐性・微、炎熱耐性・微、煙耐性・微
習得した技術:糸罠、防衛戦、仲間の救助
失った仲間:洞窟蜘蛛《古傷》
接触した群れ:古傷の巣の洞窟蜘蛛たち
直前の行動:子蜘蛛を炎から逃がして死亡
固有権能:《輪廻変異》《死因耐性》
現在目標:沼蛭の身体で生存方法を把握し、泥の中から新たな世界を知る




