第5話 古傷の巣
古傷の死体は、思っていたより重かった。
蜘蛛の身体に腕はない。
抱えることもできない。
だから俺は、糸で古傷の体を包み、少しずつ引いた。
ずる、ずる、と焼けた洞窟の床を引きずるたびに、古傷の脚が石に当たった。
その音が、嫌だった。
死んだものの音だった。
さっきまで糸で話していた相手が、今は何も返さない。
――名は、生き残ったものにつく。
最後の震えが、まだ脚の先に残っている気がした。
俺は古傷を置いていけなかった。
人間たちがまた来れば、こいつの死体も踏まれる。
火で焼かれる。
素材にもならない、ただの害虫の死骸として捨てられる。
それだけは嫌だった。
古傷が言っていた。
ここが、私の巣だった、と。
なら、帰す。
せめて、こいつが帰るべき場所へ。
俺は焼け残った糸をたどった。
巣は奥へ続いていた。
人間が焼いたのは、表の巣だけだったらしい。
黒く縮れた糸の奥に、細い通路があった。
人間なら膝をついても通れない。
ゴブリンでも難しい。
スライムなら入れたかもしれない。
蜘蛛の俺には、ぎりぎり通れる。
古傷の死体を引いていくには、狭すぎた。
何度も引っかかった。
脚が折れた。
腹の傷から、白い体液がにじんだ。
俺はそのたびに止まり、糸を巻き直した。
不思議だった。
俺は人間だった頃、蜘蛛なんて好きではなかった。
見れば距離を取った。
巣があれば避けた。
部屋に出れば、たぶん殺していた。
でも今、俺は一匹の蜘蛛の死体を必死に運んでいる。
こいつを汚したくないと思っている。
死体なのに。
魔物なのに。
蜘蛛なのに。
それでも、古傷は俺にとって、初めての仲間だった。
細い通路の奥で、糸が震えた。
俺のものではない。
誰かの糸だ。
――止まれ。
短い震え。
次の瞬間、いくつもの脚音が広がった。
前。
上。
左右。
暗闇の中に、小さな目がいくつも光った。
蜘蛛だ。
一匹ではない。
五匹、いや、もっといる。
大小さまざまな洞窟蜘蛛が、糸の影から俺を見ていた。
俺は動きを止めた。
古傷の死体を引いたまま。
糸が、鋭く震える。
――誰だ。
――知らない匂い。
――ゴブリンの血。
――スライムの粘液。
――人間の恐怖。
古傷と同じことを言われた。
やはり、俺の匂いは普通ではないらしい。
俺は慎重に糸を震わせた。
――敵じゃない。
前方の大きな蜘蛛が、一歩進んだ。
黒い体。
太い脚。
片目が潰れている。
古傷より大きい。
その震えは低かった。
――敵は、敵じゃないと言う。
返す言葉がなかった。
その通りだ。
俺だって、もし知らない魔物が死体を引きずって巣へ入ってきたら疑う。
黒い蜘蛛の視線が、俺の後ろへ向いた。
古傷の死体へ。
糸の震えが止まった。
周囲の蜘蛛たちも、同時に静かになった。
静かすぎて、洞窟の水滴が落ちる音だけが響いた。
黒い蜘蛛が、ゆっくり近づく。
古傷の体に触れた。
前脚で、腹の白い傷をなぞる。
それから、新しい剣傷に触れた。
糸が震えた。
――古傷。
その震えは、言葉というより、名前だった。
周囲の蜘蛛たちが一斉に動いた。
小さな蜘蛛が二匹、古傷のそばへ駆け寄る。
別の蜘蛛が、焼けた脚に触れる。
誰も鳴かない。
人間のように泣き声を上げるわけではない。
だが、糸が低く、細かく震えていた。
悲しみだ。
蜘蛛にも、悲しみがある。
俺はその場から動けなかった。
黒い蜘蛛が、俺を見た。
――何があった。
俺は、見たことを伝えた。
人間が三人来たこと。
古傷が俺に蜘蛛の戦い方を教えたこと。
松明を持つ男に毒を入れたこと。
剣を持つ男に斬られたこと。
最後に、俺へ「名は、生き残ったものにつく」と伝えたこと。
俺の震えは、途中で乱れた。
うまく伝えられたか分からない。
でも、蜘蛛たちは黙って聞いていた。
最後まで。
やがて、黒い蜘蛛が糸を鳴らした。
――古傷は、巣を捨てなかった。
別の蜘蛛が続ける。
――卵を焼かれても。
――子を失っても。
――人間の光に裂かれても。
――戻ってきた。
俺は、古傷の死体を見た。
巣を焼かれた生き残り。
母。
そして、ここにいた仲間たち。
俺は勘違いしていた。
古傷は一匹で残っていたのだと思っていた。
違った。
古傷には、帰る場所があった。
待っている仲間がいた。
それでも、あいつは焼けた表の巣へ戻っていた。
死んだ卵と子のそばへ。
そこを守るために。
黒い蜘蛛が、古傷の体に糸をかけた。
他の蜘蛛たちも続く。
一本ずつ。
静かに。
丁寧に。
古傷の体は、白い糸で包まれていく。
まるで、もう一度巣に抱かれるみたいだった。
俺も糸を伸ばした。
恐る恐る、一本だけ。
誰も止めなかった。
俺の糸が、古傷の体に重なる。
その瞬間、黒い蜘蛛が言った。
――お前は、古傷を持ち帰った。
俺は糸を震わせた。
――置いていけなかった。
――なぜ。
少し考えた。
うまい答えはなかった。
だから、そのまま伝えた。
――俺に、歩き方を教えた。糸の読み方を教えた。殺される前に待つことを教えた。だから、せめて帰したかった。
黒い蜘蛛は長く黙った。
やがて、低く震えた。
――なら、お前は獲物ではない。
周囲の蜘蛛たちが、わずかに道を開けた。
敵ではない。
獲物でもない。
それが、今の俺に与えられた立場だった。
受け入れられたわけではない。
信用されたわけでもない。
それでも、殺されなかった。
それだけで十分だった。
巣の奥は、思ったより広かった。
岩の空洞に、無数の糸が張られている。
卵嚢もあった。
小さな子蜘蛛もいた。
怪我をした蜘蛛もいる。
片脚を失ったもの。
腹を焼かれたもの。
動けず、糸に吊られているもの。
勇者たちの討伐は、終わっていなかった。
焼かれた痕は、ここにも残っていた。
古傷だけではない。
この巣全体が、人間に傷つけられていた。
小さな蜘蛛が、俺の近くに来た。
まだ体が薄い。
子蜘蛛だ。
――古傷は、戻らない?
その震えに、俺はすぐ返せなかった。
戻らない。
そう言えばいい。
でも、言えなかった。
子蜘蛛は、古傷の糸包みを見ていた。
俺は、できるだけ静かに震わせた。
――戻ってきた。ここに。
子蜘蛛はしばらく動かなかった。
それから、古傷の包みに細い糸を一本かけた。
黒い蜘蛛が言った。
――古傷は、名を持つものだった。名を持つものは、巣に残る。
――どういう意味だ。
――死んでも、糸の震えは巣が覚える。
俺は巣全体を見た。
無数の糸。
何重にも重なった道。
焼けても、切られても、張り直された跡。
そこには、たぶん多くの蜘蛛がいた。
死んだもの。
生き残ったもの。
守ったもの。
逃げたもの。
すべての痕跡が、糸として残っている。
魔物にも歴史がある。
巣がある。
仲間がいる。
名前がある。
人間側から見れば、ただの討伐対象でも。
そこには確かに、生活があった。
俺は初めて、それを見た。
黒い蜘蛛が、俺の前に立った。
――お前はまだ名を持たない。
――ああ。
――古傷は、生き残ったものに名がつくと言ったか。
――言った。
黒い蜘蛛は、俺の周りを一度回った。
匂いを確かめるように。
震えを読むように。
――お前は死の匂いが多すぎる。ゴブリン。スライム。人間。血。恐怖。怒り。だが、古傷を持ち帰った糸もある。
俺は黙っていた。
――しばらく、巣にいろ。
予想外だった。
――いいのか。
――獲物ではない。敵でもない。だが、仲間ともまだ言わない。
当然だと思った。
俺はこの巣の生まれではない。
古傷を連れてきただけの、怪しい蜘蛛だ。
それでも、ここにいていいと言われた。
黒い蜘蛛は続けた。
――人間はまた来る。逃げるなら今だ。残るなら糸を張れ。
人間はまた来る。
分かっていた。
弓の男を殺した。
鎧の男は逃げた。
あいつらは必ず戻ってくる。
勇者を連れてくるかもしれない。
火を持ってくるかもしれない。
祈る娘を連れてくるかもしれない。
俺は古傷の糸包みを見た。
逃げたい。
死にたくない。
次に死ねば、また別の魔物になる。
この巣には戻れない。
洞窟蜘蛛にも、もう二度となれない。
なら、逃げる方が正しい。
生き残ることが目的なら。
でも。
俺は古傷をここまで運んだ。
古傷の仲間を見た。
子蜘蛛の震えを聞いた。
ここを捨てて逃げたら、俺は何を覚えたことになる。
俺は、糸を一本張った。
古傷の包みの近くではなく、巣の入口へ。
細い。
頼りない。
すぐ切れそうな糸。
でも、俺の糸だった。
黒い蜘蛛が見ている。
周囲の蜘蛛たちも見ている。
俺は糸を震わせた。
――残る。人間が来るなら、今度は待つ。
黒い蜘蛛は、少しだけ脚を伏せた。
それが蜘蛛のうなずきなのかは分からない。
ただ、巣の糸が静かに震えた。
――なら、張れ。弱いものは、一匹で戦うな。
俺は初めて、蜘蛛の巣というものを理解した。
それは罠ではない。
家であり、道であり、記憶であり、仲間の手だった。
俺は八本の脚で巣に触れた。
古傷の死を運んできた俺は、そこで初めて、魔物の群れの中に入った。
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現在のステータス
名前:未設定
現在種族:洞窟蜘蛛
過去転生種族:ゴブリン、スライム
転生回数:3回目
死亡回数:2回
撃破数:人族弓兵 1名
前回死因:人族の子供による打撃
獲得耐性:斬撃耐性・微、打撃耐性・微
習得した技術:糸による遺体搬送、巣内会話、警戒糸の設置
失った仲間:洞窟蜘蛛《古傷》
接触した群れ:古傷の巣の洞窟蜘蛛たち
現在の立場:獲物ではない/敵ではない/まだ仲間ではない
固有権能:《輪廻変異》《死因耐性》
現在目標:古傷の巣に残り、人間の再襲撃に備えて糸を張る




