第4話 初めての仲間、初めての敵
人間の足音は、三つだった。
重い足音が一つ。
軽い足音が一つ。
引きずるような足音が一つ。
古傷は、糸の上で身を低くしていた。
――見ろ。音を聞くな。震えを読め。
糸が細かく震える。
俺は八本の脚で、その震えを受け取った。
先頭の男は鎧を着ている。
重い。
だが、歩幅が荒い。
慣れた兵士ではない。
二人目は松明を持っている。
火の熱で、空気が揺れている。
三人目は足を引きずっている。
たぶん、前の討伐で怪我をしたのだろう。
「奥まで見ろ。勇者様が見逃した魔物がいるかもしれん」
「本当にいるのかよ。ゴブリンは全部死んだんだろ」
「スライムも一匹潰したって、村長の息子が騒いでたぞ」
俺の身体が、ぴくりと跳ねた。
スライムだった俺を潰した子供。
それを、こいつらは笑い話にしている。
古傷が、俺の糸に触れた。
――震えを殺せ。
俺は慌てて脚を押さえた。
怒れば、糸が鳴る。
怖がれば、糸が鳴る。
今の俺は、感情ひとつで居場所を知らせてしまう。
古傷は言っていた。
弱いものは、怒る前に隠れる。
噛む前に待つ。
糸を張る前に、風を読む。
俺は、息をしていないはずなのに、息を止めるような気持ちで動かなかった。
男たちが近づいてくる。
松明の光が、洞窟の壁を赤く揺らした。
古傷の焼けた巣が照らされる。
割れた卵。
黒く縮れた糸。
小さな死骸。
それを見た松明の男が、鼻を鳴らした。
「蜘蛛の巣か。気持ち悪いな」
「焼け。卵が残ってたら面倒だ」
古傷の脚が、ほんのわずかに動いた。
その震えは小さかった。
でも、俺には分かった。
怒っている。
古傷は、叫ばない。
飛びかからない。
ただ、焼け残った巣の上で、静かに怒っていた。
松明が、巣に近づく。
その瞬間、古傷が糸を弾いた。
ぴん。
洞窟の天井から、細い糸が落ちる。
松明の男の手首に絡んだ。
「うわっ!」
男が腕を振る。
火が揺れた。
その一瞬で、古傷は天井を走った。
速い。
俺とはまるで違う。
岩の影から影へ、糸の上を滑るように移動する。
「蜘蛛だ!」
鎧の男が剣を抜いた。
銀ではない。
ただの鉄の剣。
それでも、俺の身体は勝手に震えた。
斬撃で死んだ記憶が、まだ残っている。
だが、古傷は怯えなかった。
天井から落ちる。
松明の男の顔に張りつく。
「ぎゃあああっ!」
男が叫んだ。
松明が地面に落ちる。
火が、古い糸に燃え移った。
赤い光が広がる。
熱が来た。
火だ。
俺は本能的に後ずさった。
火ではまだ死んでいない。
だから、火は怖い。
「払え! 早く払え!」
鎧の男が剣を振った。
古傷はかわした。
だが、完全には避けきれなかった。
刃が、古傷の脚を一本飛ばした。
白い体液が散る。
糸が強く震えた。
――逃げろ。
古傷の震えが、俺に届いた。
俺は動けなかった。
逃げろ?
置いていけというのか。
初めて話せた相手を。
初めて俺を魔物としてではなく、同族として見た相手を。
初めて、俺に生き方を教えた相手を。
俺は糸を震わせた。
――一緒に。
古傷の震えが返ってくる。
――馬鹿。弱いものは、守りたいものより先に、生き残れ。
松明の男が、顔から古傷を引き剥がした。
その手には、すでに噛み傷があった。
男の動きが鈍っている。
毒だ。
蜘蛛の毒が効いている。
だが、鎧の男は止まらなかった。
「この化け物が!」
剣が振り下ろされた。
古傷は避けようとした。
脚が一本足りない。
焼けた糸が足場を崩す。
刃が、古傷の腹を裂いた。
俺の中で、何かが止まった。
古傷が、地面に落ちた。
灰色の体が、血と体液に濡れている。
腹の白い傷の上に、新しい赤黒い傷が重なっていた。
男は、もう一度剣を振り上げる。
やめろ。
そう叫びたかった。
だが、声は出ない。
俺は蜘蛛だ。
叫べない。
泣けない。
ただ、糸を震わせることしかできない。
古傷が、最後にこちらを見た。
たぶん、見た。
複数の小さな目で。
――名は、生き残ったものにつく。
その震えが、最後だった。
剣が落ちた。
古傷の身体が、潰れた。
俺は、初めて仲間の死を見た。
ゴブリンの死体を見た時とは違った。
スライムだった俺を潰した子供への怒りとも違った。
胸はない。
心臓もない。
それでも、体の奥が裂けたように痛かった。
「よし、一匹殺した」
鎧の男が言った。
一匹。
古傷は、一匹だった。
母だった。
巣を焼かれた生き残りだった。
俺に歩き方を教えた。
糸の読み方を教えた。
それが、こいつらには一匹。
ただの狩り残し。
俺の脚が、糸に触れた。
強く震わせそうになる。
だが、俺は止めた。
古傷は言った。
震えを殺せ。
怒る前に隠れろ。
噛む前に待て。
俺は、天井の影に身を沈めた。
松明の男が膝をついた。
「お、おい……腕が……しびれて……」
「毒か?」
「くそ、蜘蛛の毒だ。早く戻るぞ」
鎧の男がそう言った瞬間、足を引きずっていた三人目が、俺のいる方を見た。
「待て。まだいる」
俺は動いていない。
なのに、見つかった。
男は弓を構えていた。
足は悪い。
だが、目はいい。
矢じりが、俺を向く。
古傷を殺した剣。
松明の火。
そして今度は、矢。
また死ぬのか。
そう思った。
でも、次の瞬間、別の考えが浮かんだ。
いや。
今度は、俺が殺す。
矢が放たれる。
俺は天井から落ちた。
矢が、さっきまで俺がいた岩に刺さる。
落下しながら、俺は糸を吐いた。
狙ったのは、弓の男ではない。
松明だった。
地面に落ちていた火のついた棒。
糸が絡む。
俺は体重をかけて引いた。
松明が転がる。
火が、男たちの足元へ滑った。
「うわっ!」
鎧の男が下がる。
弓の男の視線が、一瞬だけ火に向いた。
その隙に、俺は壁へ張りついた。
走る。
八本の脚で。
迷わない。
もう、脚の数に戸惑わない。
古傷が教えた通りに、体重を逃がし、岩の凹凸を拾い、影から影へ移る。
弓の男が俺を探す。
だが、遅い。
人間の目は、正面しか見ていない。
洞窟の天井を、壁の隙間を、足元の糸を見ていない。
俺は弓の男の背後に回った。
首の後ろ。
皮の防具と襟の隙間。
そこに飛びつく。
男が気づく。
「ひっ――」
俺は噛んだ。
牙が皮膚に刺さる。
毒が流れ込む。
男の体が跳ねた。
腕が暴れる。
俺は引き剥がされそうになった。
でも、離れなかった。
怖い。
人間の熱が怖い。
振り回される衝撃が怖い。
叩き潰される記憶がよみがえる。
それでも、噛み続けた。
男が壁に背中をぶつける。
俺の身体も押し潰されそうになる。
打撃耐性・微。
その言葉が頭をよぎった。
痛い。
だが、まだ死なない。
男の膝が折れた。
弓が落ちる。
指が痙攣する。
口から泡がこぼれる。
「おい! どうした!」
鎧の男が叫ぶ。
弓の男は、答えられなかった。
俺はようやく離れた。
壁へ逃げる。
男は地面に倒れた。
何度か痙攣して、それから動かなくなった。
敵が死んだ。
俺が殺した。
初めてだった。
勇者に殺された。
子供に殺された。
古傷を殺された。
ずっと殺される側だった俺が、初めて敵を殺した。
でも、胸がすくような感じはなかった。
気持ち悪かった。
人間だった頃の俺が、頭の奥で震えていた。
人を殺した。
そう思った。
だが、今の俺は魔物だ。
殺さなければ殺される。
それも事実だった。
鎧の男が、弓の男の死体を見て後ずさった。
「くそっ、撤退だ! 毒持ちがいる!」
松明の男を抱え、鎧の男は逃げ出した。
追えたかもしれない。
でも、俺は動けなかった。
古傷の死体が、焼けた巣のそばにあった。
俺はゆっくりと近づいた。
灰色の体は、もう震えない。
糸も返ってこない。
古傷は死んだ。
俺に蜘蛛の生き方を教えて、死んだ。
俺は糸に触れた。
何も返らない。
分かっていた。
それでも、しばらく触れていた。
名前は、生き残ったものにつく。
古傷の最後の言葉が、何度も身体の中で震えた。
俺はまだ、名前を持っていない。
でも、今日、初めて仲間を失った。
初めて敵を殺した。
なら、もうただの転生した魔物ではいられない。
俺は古傷のそばに、細い糸を張った。
墓にはならない。
人間のように土を掘る手もない。
祈りの言葉も知らない。
だから、糸を張った。
古傷がいた場所を、忘れないために。
俺は焼けた巣の奥で、静かに身を伏せた。
勇者。
お前たちが殺したものを、俺は覚える。
ゴブリンだった俺を。
スライムだった俺を。
古傷を。
そして、俺が初めて殺した敵の顔を。
全部、持っていく。
死んでも、別の魔物になっても。
俺はもう、忘れない。
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現在のステータス
名前:未設定
現在種族:洞窟蜘蛛
過去転生種族:ゴブリン、スライム
転生回数:3回目
死亡回数:2回
撃破数:人族弓兵 1名
前回死因:人族の子供による打撃
獲得耐性:斬撃耐性・微、打撃耐性・微
習得した技術:糸による誘導、天井奇襲、毒牙攻撃
失った仲間:洞窟蜘蛛《古傷》
固有権能:《輪廻変異》《死因耐性》
現在目標:古傷の死を記憶し、洞窟から脱出するか、残って人間を迎え撃つかを決める




