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第24話 目をさますよ

頭部が滅茶苦茶になった理緒の体を抱いて、汀は半狂乱になって泣き喚いた。

一秒経ち、二秒経ち。

理緒の体が、まるで蜃気楼のようにフッ、と消えた。


突然重さがまるでなくなり、血も、飛び散った頭部の欠片も綺麗に消滅する。

汀は、しばらく理緒の体を抱いた姿勢のまま虚脱していた。


ポタリポタリと彼女の目から、次々に涙が流れ落ちていく。

目を見開き、口を半開きにして汀は震えていた。


口の血を拭い、一貴が立ち上がる。

そして、よろめきながら足を進めて近づいてきた。

ソフィーが我に返り、慌てて一貴に向かって腰を落とす。


しかし彼は手でそれを静止すると、髑髏のマスクを脱いで脇に捨て、ソフィーの脇を通過した。

そして理緒と同様に陽炎のように揺らいで消えた岬の亡骸があった場所で立ち止まる。


彼は、暗い表情で消え去った岬のいた場所に手を伸ばそうとして……そして途中でとめた。

そこを通過し、硬直して停止している汀の脇にしゃがみ込む。


「なぎさちゃん、時間がないよ……アルバート・ゴダックの精神体に逃げられる。行かなきゃ」


彼にそう呼びかけられ、汀は呆然とした顔で涙を流しながら、いびつな表情で一貴を見上げた。

そして口を震わせて声を絞り出す。


「いっくん……理緒ちゃんがね……理緒ちゃんが、息をしてないの……」

「…………」


誰もいない虚空を必死に抱きかかえながら、汀は掠れた声を出した。


「どうしたらいい? ね、どうしたらいいかな? 私、どうすれば理緒ちゃんを救える? 教えていっくん……私はどうすればいいのかな……?」


一貴は黙って汀の嗚咽を聞いていたが、やがて彼女の前でゆっくり首を振った。


「死んだら、もうここにはいないよ。なぎさちゃん、それは『夢の本質を見ることができる』君の『目』で、一番分かってることだろ」


静かな彼の声を聞いて、汀は口の端を歪めた。

笑っているつもりだったようだが、それは無残に失敗していた。


「嘘……嘘だよ……だって、だって理緒ちゃんは、ここに……」

「僕の目には、何も見えない」


一貴の言葉を聞いて、汀は力なくその場に崩れ落ちた。

その体を支えた一貴にすがりついて、汀は悲痛な枯れた声で言った。


「理緒ちゃんは……理緒ちゃんはね、私の、私のたった一人の友達なんだよ……? 私のことを、いつだって救ってくれて……いつだって、裏切らないで助けに来てくれて……だから、だから私は……私は理緒ちゃんを救ってあげないといけないんだよ……?」

「…………」

「おかしいよこんなの……どうして? どうして誰も……理緒ちゃんでさえも……私、私は救えないのかな……? いっくん……いっくん、私こんなの嫌だよ……」

「そうだね……」


一貴はそう言って、血にまみれた手で汀の頭をそっと撫でた。

そして彼女の頭を優しく抱きしめる。


「岬ちゃんも、死んでしまった。スカイフィッシュの力で殺された人間の精神は、もう戻ることはないからね。君の精神中核を上書きした、忠信も、多分もうこの世にはいない」

「…………」

「みんな死んでしまった。でも僕達は、行かなきゃいけない」


一貴は汀をそっと体から離し、その両肩を掴んだ。

そしてぎこちなく微笑んでみせた。


「終わりにしよう、なぎさちゃん。僕達は、この悪夢から目覚めるんだ」

「この……悪夢……?」

「アルバート・ゴダックの精神体は、マインドスイープの中枢システムの近くにいる。つまり、ここを越えたすぐそこだ。一緒に行こう」

「でも……でも、いっくん……あなた達の目的は、元老院を殺すことじゃなかったの……?」

「違うよ」


一貴は首を振った。

そして立ち上がり、汀の体を引き起こす。


「僕が、新しいスカイフィッシュになることがこの計画の目的だったんだ」

「え……?」


呆然とした汀に、一貴は頷いて続けた。


「アンリエッタ・パーカーではなく、スカイフィッシュになって世界中にばらまかれる予定だったのは、僕だ。だから僕は、それを為さなければいけない」

「…………」


汀は、頼りなく掴んだ一貴の手を、離そうとしなかった。

一貴は力を込めて握ってきた汀の小さな手を握り返し、言った。


「それを止められるのは、なぎさちゃんだけだと思うんだ。僕が、この自我が崩壊しかけても、ずっと覚えてて、ずっと好きだった君しか、僕を止めることは出来ない」

「…………」

「本当言うとね、少し前のことも、もう思い出せないんだ。でもなぎさちゃんと、岬ちゃんと、忠信のことだけは覚えてた。ずっと忘れなかった。自分のことも忘れて、もう何がなんだか分からないのに、君のことだけは好きなんだ。これって……おかしいかな?」


汀は顔を上げて一貴のことを見た。

そして引きつった顔を必死に動かし……小さく笑ってみせた。


それは、泥沼のような絶望の中でもがき、それでも這い上がれない小動物のような……そんな、必死に抗う顔。

どこか狂気をはらんだ小さな笑顔を一貴に向け、汀は無言で彼の手を引いて歩き出した。


「行こう、小白、ソフィー」


子猫とソフィーに声をかけ、汀は通路の奥の白く光る空間の前まで進んだ。


「終わりにしよう」


そこで彼女達の意識は、ブラックアウトした。



ものすごい数のモニターが並んでいた。

地平線の向こうまで続く砂丘に、同じ形をしたパソコンのモニターが突き刺さるように乱雑に並べられている。


数百……いや、数千のモニターに線はなく、どれもが真っ黒で何も表示されていなかった。

その中心に立ち、汀は周りを見回した。

少し離れた場所に、両手に二本の日本刀を構えた一貴が、こちらを向いて立っていた。


「ここが……アルバート・ゴダックの夢世界……?」


ソフィーも少し離れた場所に、小白と一緒に立っていた。

彼女がそう呟くと、一貴は軽く首を振った。


「少し違う」

「…………?」

「アルバート・ゴダック達の『魂』のデータが格納されている、サーバーの一つ……その中だよ。つまり……」


汀がそこで口を開いて、続けた。


「マインドスイープの、中枢システムね。自殺病にかかった人間は、全てここのデータラインを中継してダイブが行われる」

「そう。僕は、今からスカイフィッシュの力で、このシステムの中に隠れている元老院達の魂を殺さなきゃいけない。なぎさちゃん。君が僕を止めないと、僕はそれをする」

「…………」

「そして、その後僕は完全にスカイフィッシュになって……ここから沢山の人の夢の中に感染する。悪夢は、まだ終わらない」


腰を落とした汀に、一貴は続けた。


「終わらせようよ、なぎさちゃん。僕を……僕を、『治療』してくれないか?」


刀を構えて歩き出した一貴に、汀は言った。


「そのつもりよ。私は医者だから。命をかけてあなたを助ける。あなたを治療するわ、いっくん」

「ありがとう。それを聞けて安心した」


一貴はそう言って走り出した。

そして地面を蹴り、日本刀を大上段に汀に向かって振り下ろす。

少しでもかすれば致命傷のその斬撃を体をひねって避け、汀は人間のものとは思えない反応速度で地面を蹴った。


その体が一瞬掻き消えるように見えなくなり、蹴った部分の砂丘から砂煙が上がる。

一瞬で一貴の背後に移動した汀が体を反転させて、素足を彼の後頭部に叩き込む。

凄まじい衝撃に体制を崩した一貴だったが、彼は倒れがてらもう片方の日本刀を横に凪いだ。


汀がとっさに足元のモニターを一つ手に取り、それで日本刀を受け止める。

半ばまで日本刀がめり込んだモニターがバチバチと帯電し、次の瞬間豪炎を上げて爆発した。


その炎に吹き飛ばされる形で、汀と一貴が砂丘に背中から突き刺さり、ゴロゴロと転がった。

汀は近くに落下していた、一貴の日本刀の一本を手に取り、次の瞬間、一貴がポケットから取り出した拳銃から放たれた銃弾を刀で弾いた。


金属音が響き渡り、両断された銃弾が砂煙を上げて砂丘に突き刺さる。

一貴は地面を蹴り、高く跳躍すると、落下しながら二度三度と拳銃の引き金を引いた。


それらを人間業とは思えない動きで切り払い、汀は、一貴が拳銃を変質させて形成した日本刀で繰り出した斬撃を、持っていた刀で受け止めた。

そのまま鍔迫り合いの形でしばらく睨み合う。


体格が劣る汀が徐々に押され始め、一貴は全身の力で彼女を両断しようと腕を動かしていた。

膝をついた汀の持つ日本刀にヒビが入り、グラグラと揺れ始める。

一貴が一度下がり、腕を振り上げて、両手で日本刀を振り下ろした。


受け止めた汀の刀が真っ二つに砕け散り……。

一貴の刀は、汀の右目を深く真一文字に切り裂いた。

鼻先まで刀が彼女の顔を凪ぎ……。

しかし汀は、全く怯むことなく一歩を強く踏み出した。


「さよなら、いっくん。あなたを『救う』よ」


そう、一貴の耳には聞こえた気がした。

次の瞬間、汀の繰り出した拳が、空気を裂く音と共に一貴の胸に吸い込まれた。


腕は弾丸のように彼の胸を打ち……。

一貴は動きを止めた。

汀の手が、一貴の心臓の部分にめり込んでいた。


彼女は暫くの間、手の中で一貴の心臓が脈動するのを感じていた。

少年は振り上げていた日本刀を、ブルブルと震える手で振り下ろそうとして……。

そしてとめた。


「なぎさちゃん……」


口の端から血を流しながら、一貴は屈託なく笑った。


「君を好きになれて、良かった」


汀が一貴の心臓をえぐり取ったのと……。

彼が掠れた声でそう言い、ゆっくりと後ろに倒れ込んだのは、ほとんど同時のことだった。



荒く息をつきながら、汀はその場に膝をついた。

手の中の一貴の心臓がぐんにゃりと形を変え、青いビー玉を形成する。

汀はそれを胸に抱き、陽炎のように揺らいで、一貴の体が消えていくのを見ていた。


「やった……の……?」


ソフィーが震える声で呟く。

彼女は汀に近づこうと足を踏み出し……。


そこで、パチパチパチという拍手の音が聞こえて、足を止めた。

いつの間にか……。

彼女達から少し離れた場所に、バスローブを羽織り、赤いソファーに腰を下ろした初老の男性がいて、手を叩いていたのだ。


「いや……お見事。楽しい見世物だったよ、網原汀君」


男はそう言って拍手を止めると、近くのテーブルに乗っていたワインをグラスに開けた。


「飲むかね? 勝利の美酒といこうじゃないか。ああ……君達は未成年だったな。アルコールはまだ止めておいた方がいいだろう」

「アルバート……ゴダック……!」


ソフィーが呆然と呟く。


「ずっと……見ていたの……?」

「見ていたも何も、ここは私の夢世界のようなものだ。いや……しかし、今回は本当に駄目かと思ったよ。よくぞスカイフィッシュ共を撃退してくれた。君達の健闘を讃えよう」


アルバートはそう言ってニヤニヤといやらしい笑みを浮かべ、汀とソフィーを舐めるように見た。


「どうした? 『私を守る』という目的を達成したんだろう? もう少し喜んでくれてもいいのではないか?」


馬鹿にしたように言われ、汀は彼に背を向けたままその場にへたり込んでしまった。

そして一貴の精神中核を抱いたまま、歯を噛む。

小白が彼女の脇に移動し、頭を擦り付けていた。


「ふむ……」


アルバートは小さくそう言うと、ソフィーの方を見た。


「君がフランソワーズか。今回はよくやってくれた。赤十字に話を通し、君の将来保証をしよう。こっちに来て、手を貸してくれ。私のデータももう古くなってしまい、うまく体が動かなくてね……」


呼ばれたソフィーは、しばらく躊躇していたが、やがてアルバートに近づき、左手を差し出した。


「それにしても、最後に残ったのが君達のような小さな女の子だとはな……顔立ちはいいが若すぎる……」


毒づきながらソフィーの手を握ろうとしたアルバートの動きが止まった。

ソフィーがいつの間にか拳銃を持ち、彼に突きつけていたのだった。


「なっ……」

「やっと見つけたわ。アルバート・ゴダック。のこのこ姿を現すなんて……気が緩んだんだろうけど、あなた……バカね」


ソフィーは吐き捨てるようにそう言うと、一歩を踏み出した。

そしてゴミを見るような目で彼を見下ろし、その口に拳銃を突っ込む。


「網原汀! 動かないで。動いたらこの男の頭を撃ち抜くわ。精神中核を破壊する」


静かにソフィーはそう言った。

汀は残った左目から涙を流しながら振り返った。

そして右手に強く一貴の精神中核を握りしめて、よろめきながらソフィーに向き直る。


「なにを……」


怒鳴ろうとしたアルバートの喉奥に拳銃を突き入れ、ソフィーは口を異様な形に歪めて笑った。


「あなたを……いや、『お前』をずっと探していた。悪魔め……」


人格が変わったように吐き捨てると、ソフィーは左目で自分を睨みつけている汀に言った。


「残念だけど、こいつはここで殺させてもらうわ。あなたを踏み台にするようで悪いけど、私はこの男をずっと探していた」

「…………」


汀はしゃがみ込むと、前に出ようとした小白を手で制止し、一貴が握っていた日本刀を手に取った。

そしてそれを弄びながら口を開く。


「……多分あなたは圭介と取引をした。だから人体移植手術という非合法な手段にも応じた」


冷静に汀が言うと、激高したのかアルバートが暴れようとし……、ソフィーが鉄のような目で彼を見下ろし、右手を思い切り振り下ろした。

か弱い少女の力だったが、老人には十分すぎるほどの暴力だった。

頭を殴られ、銃を噛んでアルバートが震えながら硬直する。


「余計なことはしない方がいいわ。多分その子……フランソワーズ・アンヌ・ソフィーは本気よ。あなたを殺すつもりね」

「ええ。網原汀。あなたが一歩でも前に踏み出したら、私は引き金を引く。あなたは危険な存在すぎる。しばらくそこでおとなしくしていて欲しいの」


ソフィーは静かな声でそう言うと、アルバートの髪を掴んで無理やり顔を引き上げた。

その目は、憎悪にギラついていた。


「すぐに済むわ」


息を呑んだアルバートが、彼女の目に映るドス黒い感情を真っ向から浴びて震え出した。

本気だ。

そう、自覚したのだ。


「殺す前に一つだけ聞いてあげる。余計なことを言ったら、どうせ殺す命ですもの。後悔する目に合わせるわ」


ソフィーはそう言うと、彼の髪を掴む手に力を込めてその顔を覗き込んだ。


「私達は孤児……赤十字が引き取って育て、マインドスイープの教育を施した子供。ただね、私は調べたのよ」

「…………」


恐怖に怯える老人を無表情で見ながら、ソフィーは続けた。


「お前達元老院が、マインドスイープに適正のある赤ん坊を親から引き離し、孤児として出生登録をし直してたことをね。ダイブができる子供は一千万人に一人の割合でしか適正が生まれない。貴重な『資源』を採集するために、お前達はあらゆる手を使ったみたいね」

「…………」

「チャンスをあげる。私のパパとママの居場所を言いなさい。知らないとは言わせないわよ」


狂気を感じさせる調子で淡々と言い、ソフィーはアルバートの口に突っ込んでいた拳銃を抜いた。

途端、彼は汀に手を伸ばして喚き始めた。


「何を……何を見ている! 網原君! 早く君の力でこいつを殺すんだ!」


ダァンッ! と、乾いた音が響いた。

一瞬呆然としたアルバートが、次の瞬間絶叫する。

彼の髪を掴んだまま、ソフィーはどこかスカイフィッシュのように赤く光る瞳で彼を見下ろした。


手にした拳銃から硝煙が上がっていた。

右足を半ばから銃弾で吹き飛ばされ、おびただしい数の血液を撒き散らして暴れているアルバートを押さえつけ、ソフィーは彼の左足に拳銃を向けた。


「や……」


やめろ、と絶叫する前に、彼女はためらいもなく引き金を引いた。

同様に左足も吹き飛ばされ、無残な肉塊があたりに散開する。

潰れてぐちゃぐちゃになった両足をわななきながら見ているアルバートの頬を張り、意識を自分の方に向かせてから、ソフィーは彼の右手に銃口を向けた。


「ま……待って……待ってくれ……」


息も絶え絶えな様子で、アルバートは懇願した。

ソフィーが引き金を引こうとしていた指を止めて彼を見る。


「何?」

「言う……答える……お前の言うことに……だから、これ以上私を痛めつけないでくれ……」


ソフィーは口を歪めて笑い、彼の頭に銃口を押し付けた。


「……で?」

「お前の番号は、二百十五番……フランスで当時、唯一の適正が確認された赤ん坊だった」

「…………」

「お前の両親は赤十字の医者……だ。お前のことを……引き渡すのに賛同しなかった……」


ソフィーの手が震え出す。

彼女は歯を鳴らしながら、アルバートに押し殺した声を発した。


「…………殺したの?」

「…………」

「十三年前に、首都で鉄道事故があった。その時に赤十字の医師が二人、乗り合わせていて死亡してる」

「…………」


答えないアルバートの前で、ソフィーの目から大粒の涙が盛り上がった。


「私の……」


彼女はよろめきながら歯を噛み、絶叫した。


「パパと、ママを! お前らが殺したんだ!」


ソフィーの髪がざわつき、金色の髪が彼女の顔を覆い隠す。

病院服が長いドレスのような……白色の薄いローブに変わり、数秒後、そこには髑髏のマスクをつけた小さな影が一つあった。


「殺してやる!」


スカイフィッシュと化したソフィーは、半狂乱で絶叫し、悲鳴のような声で笑いながら拳銃の引き金を引いた。

アルバートの右手、左手が肘の部分から吹き飛ばされ、肉塊に変わる。

ダルマとなった無抵抗の老人の眉間に銃を押し当て、彼女は地面に大の字に転がった彼の胴体を足で踏みつけた。


「何千回でも殺してやる! 死んだら生き返らせて殺す! 永遠に苦しめてやる! 悪魔め! 貴様ら全員同じ目に合わせてやる!」


人が変わったように喚くソフィーの目が、白目までもが真っ黒に変色していく。


「残念だけど……それは出来ない相談よ」


そこで彼女は、背後から声をかけられ、ハッとして振り返った。

その髑髏の仮面の顔面に、いつの間に移動したのか、汀が繰り出した拳がめり込む。


彼女の風を切った拳はそのままソフィーの体を持ち上げると、人一人を重機で殴ったかのように後方に吹き飛ばした。

少し離れた砂山に、ソフィーが背後から砂煙をあげて叩きつけられる。


汀の繰り出した左手は、おかしな方向に曲がっていた。

痛みに顔をしかめた彼女に、アルバートが震える声を上げる。


「こ、殺せぇ! あのスカイフィッシュを……殺せ! 早く!」


喚いている彼を、ゴミでも見るかのように冷たい目で一瞥すると、汀は左手をダラリと下げ、潰れた右目からとめどなく血を流しながら、ゆらりと立ち上がったソフィーに向けて足を踏み出した。


「小白は危ないから、そこにいて」


ついてこようとした小白を押しとどめた汀に、ソフィーが怒鳴った。


「邪魔をするの? 邪魔をするのね、網原汀! 私の復讐の邪魔をするのね!」

「あなたはスカイフィッシュの悪夢に精神を汚染されてる。完全にスカイフィッシュになってしまえば、もう元には戻れないわ。今ならその腕を切除すれば、あなたの精神は助かる」


汀に静かに言葉をかけられ、ソフィーは歯をギリギリと噛みながら答えた。


「……何を言っているの? あなたの親も、この悪魔に! こいつらに殺されていたかもしれないのよ! あなたも、私と同じ境遇なのよ!」

「…………」

「憎くないの? 怒りが沸かないの? あなたをここまで苦しめて、私をここまで貶めて、苦痛を与え続けたのはこいつらなのよ! あなたはそれでも、あの外道を守るっていうの!」


悲痛なソフィーの叫びを聞き、汀は残った左目で、まっすぐ彼女を見た。

そこには怒りも悲しみもない。

ただ、純粋な、まっすぐ突き刺さる信念があった。


「人を治すっていうのは、そういうことなんだよ。多分」


彼女の端的な声を聞いて、ソフィーは口をつぐんだ。

汀は手に持った日本刀を、右手だけで構えて腰を落とした。


「私は人を治すわ。人を救う。だから、あなたも治療しなきゃいけない。あなたは、病人よ」

「正気? その満身創痍の体で、この体の私をどうにかできると?」

「するわ。私は医者だもの」

「違う!」


ソフィーは絶叫した。


「それはこいつらにインプラントされた強制記憶の一つよ! あなたの意思じゃない!」

「だとしても……」


汀はソフィーを見て、フッ、と小さく笑ってみせた。


「私は、人を救いたいんだ」


絞り出すような彼女の声を聞いて、ソフィーが目を見開く。

汀が地面を蹴った。

その姿が視認できない程の速度で動き、掻き消える。


地面を蹴った左足が異様な音を立てて曲がった。

残った右手で、汀は肉薄したソフィーの左手を一閃した。


肩口からそれがゴドリと地面に転がる。

肩を抑えて、激痛に悲鳴を上げてソフィーが倒れた。

汀は着地の姿勢をとれずに、そのままゴロゴロと砂山を転がった。


そしてうめきながら日本刀を掴んで立ち上がろうとし……左足の激痛に崩れ落ちた。

ソフィーの切り離された左腕が粘土のように蠢き、形を変えて膨れ上がる。


「……自我を持っちゃったか……」


吐き捨てるように呟き、汀は日本刀を砂山に刺し、杖代わりにして立ち上がった。

そして右足だけで地面を踏みしめて、ソフィーの腕が変質した「モノ」を睨みつける。


それは、一抱えもあるような巨大な「脳」だった。

人間のピンク色をしたそれが、脳髄をダラリとたらしながら空中に浮かんでいる。


異様な悪夢の形を見て、汀が顔をしかめる。

彼女は視界の端で、肩口から血を流したソフィーが意識を失ったのか、地面に突っ伏したのを確認してから、日本刀を振った。

それが大口径の拳銃に変化し、間髪をいれず脳型のスカイフィッシュに向けて引き金を引く。


真っ直ぐ飛んだ銃弾は、しかし突き刺さることはなかった。

脳が軽く脈動した途端、彼女たちの周囲の空気が、まるで強烈なマグニチュードの地震が起こったかのように揺れた。

たまらず地面に転がった汀の目に、銃弾が突き刺さる直前で爆裂し、煙を上げたのが見える。


スカイフィッシュはゆっくりと空中を浮遊しながら、アルバートに向けて進み始めた。

悲鳴を上げて喚いている老人を見て、汀が歯噛みする。


彼女は荒く息をつきながら銃を片手で構え……そこで、心臓が激しく脈動し、硬直した。

体が痙攣し、思い切りその場に血液を吐き出す。


脳が過負荷に耐えきれず、悲鳴を上げていたのだった。

視界がぐるぐると回り始め、音がハウリングしたかのように聞こえなくなる。

息を吸おうとするが、空気が肺に入ってこない。


まずい。

もう少しなんだ。

もう少しで、私は人を救えるんだ。


そして、これからなんだ。

この悪夢を抜けて、私は。

しあわせになって。

しあわせにして。

普通の人間の、普通の生活を送るんだ。


残った左目から涙が盛り上がる。

お願い。

お願い神様……。

もう少しだけ私の体を、動かして。


私に、あの人を助けさせて。


「そこじゃないよ。もう少し上」


汀は、はっきりと耳の奥で声が聞こえ、目を見開いた。

誰かが隣に立っている。

優しく、温かい感覚。


隣にいる「彼」は、手を伸ばして汀の震える手を支えた。

這いつくばった姿勢のまま拳銃を握りしめた汀の手をゆっくりと動かし、「彼」はスカイフィッシュの脳幹の部分に照準を合わせた。


「落ち着いて引き金を引くんだ。君の体力はもうもたない。限界なんだ。そろそろ君は強制的にダイブアウトする」


霞んだ視界では、「彼」の顔を見ることはできなかった。


「チャンスは一回だ。あのスカイフィッシュが、アルバート・ゴダックを殺そうとした瞬間を狙う。無防備になる時があるはずだ」


冷静な声を聞き、汀は手に持った拳銃に意識を集中させた。

ダルマになったアルバートに覆いかぶさるように、巨大な脳が蠢いていたところだった。


その中心部が割れ、中から巨大な回転ノコが現れる。

高速回転を始めたノコを見て、アルバートが金切り声の悲鳴を上げた。

それが彼の眉間を両断する……という瞬間。


「今だよ、なぎさちゃん」


その声とともに、汀は拳銃の引き金を引いた。



「…………」


汀はグチャグチャに飛び散った脳漿の海の中で、もがくようによろめきながら、なんとか立ち上がった。

荒く息をつき、手に持った拳銃を取り落とす。


そして彼女は、病院服のポケットに手を入れて、一貴の精神中核を取り出した。

先程まで鈍く光っていたそれは、くすんだ真っ黒い色に変わっていた。


「…………」


残った左目でそれを見つめ、汀は胸に輝きを失った精神中核を抱きながら、折れた足を引きずって歩き出した。

彼女の足元に小白が駆け寄る。


少女と猫は、意識を失っているのか、白目をむいて倒れているアルバートの前で止まった。

汀は一貴の精神中核を大事そうにポケットに入れると、ヘッドセットのスイッチを何度か操作した。

しばらくしてノイズとハウリング音と共に、大河内の声が流れ出す。


『汀ちゃん! 通信がつながったぞ!』


ヘッドセットの奥から歓声が聞こえる。

汀はアルバートを見下ろして、囁くように言った。


「生きなさい……夢の世界に生きる化け物達。私達は生きなければいけない。犠牲にした人の上に、築いていかないといけない。それが生きるってこと……私達医者の『カルマ』だと、そう思う……」

『どうした? 汀ちゃん! 声がよく聞こえないぞ!』


大河内の声を聞いて、汀は小さく笑った。


「せんせ……」


彼女は残った左目で天を仰いだ。

砂原の上の空は、青く澄んでいた。


「治療完了。目をさますよ」

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