第25話 夢
「先生? 先生!」
呼びかける声が聞こえた。
目を開けた。
片目から見える世界も、もうだいぶ慣れた。
左目を動かして視線をスライドさせる。
同時に指先で電動車椅子を操作し、彼女……汀は白い壁に囲まれた診察室の中で、テーブルから正面の座席の方に体を向けた。
「そろそろ会議の時間ですよ。今日はご出席できそうですか?」
看護師の女性に顔を覗き込まれ、汀は軽く微笑んでみせた。
「……ええ。何時からだったかしら」
「二時間後の十五時からです。診察は空いてらっしゃるとお聞きしましたので……」
「今日は、別の先生が担当してくださるの。大丈夫、時間になったら会議室に行きます」
二十代前半程の彼女……汀は、眼鏡の奥の左目を細めて、小さく首を傾げた。
「少し、中庭で食事をしてきてもいいかしら? 朝から何も食べてなくて……」
「あら……そうだったのですか? 駄目ですよ先生、ただでさえ細いのに、もっと痩せたら栄養失調になってしまいます」
「うふふ……そうね」
頷いて、汀は顔を上げて診察室の脇を見た。
病院の中だというのにケージがあり、ふかふかのクッションに老猫が一匹丸くなって眠っていた。
「小白が起きたら、エサをあげて、トイレの掃除をしてもらってもいいかしら?」
「分かりました。安心して何かお腹に入れてきてください」
看護師に急かすように言われ、汀は頷いた。
「ええ。それじゃ、行ってくるわね」
◇
関東赤十字病院の中庭に車椅子を進め、汀は街路樹が並んでいる隅のベンチ、その脇に停止させた。
彼女の眼鏡の奥の右目は白濁していた。
視力は完全にない。
感覚もなく、かろうじて瞼の開け閉めはできる。
左半身の麻痺に加え、首もよく動かすことができなかった。
右手で、先程病院内ストアで購入したサンドイッチの袋を慣れた手つきで開ける。
動かない左手は膝の上に置いてある。
サンドイッチを時間をかけて飲み込み、長く伸びた白髪を手でかきあげる。
看護師に、出勤した時に後頭部のあたりで三つ編みにしてもらっていた。
「元気そうだな」
そこで汀は声をかけられ、顔を上げた。
彼女の前に、スーツ姿の初老の男が立っていた。
彼は堀りが深い顔で汀を見下ろして、言った。
「座っても?」
問いかけられ、汀は軽く微笑んで頷いた。
「ええ、どうぞ」
男性が小さく会釈して、汀の脇のベンチに腰を下ろす。
彼は足が悪いのか杖を持っていた。
それを脇に置いて、懐からタバコを取り出す。
「いいかな?」
「ええ、ここには私以外誰も来ませんから。ただ、ポイ捨てはしないでくださいね」
「失敬な。私がいつそのようなマナー違反をしたというのだね」
軽口を叩いてきた汀に笑いかけ、彼はタバコに火をつけ、フーッと息を吐いた。
煙の匂いをかぎながら、汀はパックの野菜ジュースのストローを口にくわえた。
彼女の膝の上に置いてある、動かない左手の薬指には、プラチナの指輪がはまっていた。
それをしばらく見つめてから、男性は視線を青い空へと向けた。
「結婚式には行くことができなかった。君の花嫁姿を、見たかったんだがな」
「呼んでいませんもの。来れなくて当たり前です」
淡々と返した汀に、男は視線を向けずに続けた。
「彼は元気かね?」
「時折傷口がうずくとは言っていますけれど。ただ、あなたの顔を見たら傷も開きそうですね」
「違いない」
クックと小さく笑い、男性はタバコを暫くの間ふかしていた。
そして小さく、ポツリと言う。
「網原……いや、大河内君。私は、君に謝らなければいけないことがある」
「それはそれは。会議までに終わるかしら」
微笑んで呟く、大河内と呼ばれた汀。
男性はそれに答えず、タバコの煙を吐いて言った。
「君が、マインドスイーパーを続けてくれるとは思っていなかった。その……君はもう、人並みの幸せを手に入れることができた女性だ」
「…………」
「大人になっても長時間のダイブができる人間は、確かに世界中で君一人かもしれない。だが……」
男性は空を見上げながら言った。
「もういいのではないか? 中萱榊の計画のために育てられた君という存在の『業』は、綺麗に消えたはずだ。他ならぬ、君が成し得た戦いによって。だから……」
「医者をやめろ、というのです?」
汀に静かに問いかけられ、男は懐から携帯灰皿を取り出し、タバコを押し付けて火を消した。
「そうだ」
汀は少しの間沈黙していた。
そして、動く右手で、白濁した右目をなでた。
「その目も、精神外科の治療で治すことができるかもしれない。私は、そのサポートを……」
「この目は、このままでいいんです」
汀ははっきりと彼の言葉を否定すると、小さく首を振ってみせた。
「これは、私の大事な証なんです」
「…………」
男はベンチの背もたれに背中を預けた。
「……そうか」
「私の業は、消えていませんよ」
汀はそう言って、野菜ジュースのパックを膝の上に置いた。
「消えることはない。私は、一生その業を背負い続け、一生苦しまなければいけないんです」
「…………」
「それはいつか、私の心を蝕み、体は朽ちて、死へと誘っていくでしょう。私は、やはり苦しみの中で死ぬのかもしれません」
汀は、しかし男の方を向いて、屈託なく笑ってみせた。
「でも……それが『生きる』ってことでしょう?」
男は目を見開いた。
彼はしばらく汀の笑顔を見ていたが、やがてそっと視線をそらし、杖を手にして立ち上がった。
「いや……その通りだな。すまない。時間をとらせた」
「いえ、いつでも」
「ああ。また来るよ」
コツ、コツ、と杖を鳴らして出口の方に向かって歩いて行く男性。
その向こうで、白衣を着た、眼鏡の女性が彼を待っていた。
女性に支えられ、男の姿が向こうの通路に消える。
「ドクター大河内!」
そこで背後から声をかけられ、汀は振り返った。
少し離れたところで、金髪の背が小さな女医が、パタパタと走ってくるところだった。
「あら……ドクターアンヌ。こちらに来てたの?」
穏やかに言われ、アンヌと呼ばれた女医……ソフィーは息をついて腰に右手を当てた。
彼女の左腕は、肩口からギプスで吊られていた。
「その呼び方はやめて。ソフィーでいいわ」
「でもねえ、そっちのS級能力者を呼び捨てにするのもねえ……」
指先を顎に当てて考えた汀を見て、ソフィーはため息をついた。
「あなたに言われると嫌味にしか聞こえないわ」
「いつ日本に?」
「さっきよ。というか、私昨日飛行機の中からあなたにメールしたわよ。見てないの?」
「あら……ごめんなさいね。忘れてた」
屈託なく言われ、ソフィーは肩をすくめて汀の車椅子、その取っ手を掴んだ。
「押してあげる……あら?」
顔をしかめて、彼女は汀を見た。
「お線香の匂い……? あなた、ケムいわよ」
「そう? 気のせいよ」
右手だけで車椅子を慣れた手つきで操作し、ソフィーは汀と一緒に病棟に入った。
「フランスではどう? いじめられてない?」
問いかけられ、ソフィーは呆れたように鼻を鳴らした。
「私を誰だと思ってるの? 世界に二人しかいないS級能力者の一人よ。どうにかしたくても、誰にもどうにもできないわ」
「うふふ、そうね。違いないわ」
優しく彼女の言葉を肯定し、汀は小さく欠伸をした。
「ちょっと、寝ないでよ? これから会議なんだから」
「あなたがいれば問題はないでしょう? 私、ちょっと疲れちゃって……ごめんね、少し……」
そこで汀の声が途切れた。
「ちょっと……!」
咎めるような声を出したソフィーの前で、汀は車椅子に体を預け、小さく寝息を立て始めてしまった。
一旦車椅子をとめ、持っていたブランケットを彼女の膝にかけたソフィーに、パタパタと小さな子供達がかけてくるのが見えた。
小児病棟の入院棟だったらしい。
「先生! 先生見てー! 教えてくれた折り紙、うまく出来たよ!」
女の子が手にたくさんの折り紙作品を持って汀に呼びかける。
声を聞きつけて、次から次へと子供達が集まってきた。
「あれ? 先生寝ちゃってる」
「そうよ、先生ちょっと疲れちゃってるから、みんな、今は寝せてあげてね」
ソフィーが微笑んでそう言う。
そして彼女は少し子供達と話した後、車椅子を押して歩き出した。
◇
自殺病は、なくならなかった。
人々の心に蔓延したスカイフィッシュは少なくはなったが、まだ活動はしている。
十年経ち、変わったことといえば……。
医療技術が進歩し、マインドスイーパーが無駄に命を落とすことが、少なくなったこと。
そして、子供が大人になったということ。
その二点だけだった。
相変わらず自殺病で人は死に、マインドスイーパーは治療のために犠牲になっている。
テロが終わって、世間は騒がしくはなったが、数年経ちそれは、ただの「過去の出来事」になった。
子供達は、それを知らない。
そして大人になり、結婚し、子を育み、死んでいく。
自分達がいつ死ぬかも分からず。
どうやって死ぬかも分からず。
恐怖に依るエラーを心に蓄積させながら、それでも人は生きていく。
生きざるを得ない。
◇
汀は、赤十字病院のドライバーが運転する車の後部座席に腰を下ろしていた。
ぼんやりとした視線には、流れる夜の街のライトが映る。
これは現実だ。
夢ではない。
何度も確認し、何度も実感すること。
しかし……。
夢と現実の境目とは何なのだろう。
汀はいつもそう思う。
もしかして、私の生きているこの世界こそが夢で。
目覚めるところ、そこが現実なのかもしれない。
そうも思う。
しばらくしてドライバーが車を停め、郊外の一軒家の前でドアを開けた。
車椅子をセットしてくれたので、抱え上げられてそこに座らせてもらう。
「それでは、お疲れ様です。大河内先生」
「ありがとう。また、明日もよろしくね」
微笑んで若い男性ドライバーに言うと、彼は少し頬を赤らめて会釈した。
手を振って車を送り、一軒家のスロープを車椅子でのぼり、チャイムを押す。
少しして、電気がついている玄関のドアが開いた。
汀はそこから覗いた顔を見上げ……。
「ただいま」
そう、言った。
【治療完了、目をさますよ 終】
すべての勇気に力を。
すべての苦しみに光を。
そして、あなたの進む未来へ、希望を。




