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第22話 愛している、と

酸素吸入器を口に取り付けられ、腕には無数の点滴。

そしてマインドスイープ用のヘルメットを装着させられたソフィーが、担架で運ばれていく。


圭介はヘッドセットを外し、フーッ、と息をついた。

その目が、部屋の隅でうずくまり、パイプ椅子に腰を下ろしたジュリアにとまる。

彼は鼻を鳴らすと、ゾロゾロと部屋を出て行くスタッフ達に続いて出ていこうとして……眼前でバタン、と施術室のドアが閉まったのを見て足を止めた。


ドアノブに手をかけて開けようとするが、向こう側からガチン、と鍵が閉められ動かない。

しばらくして開けようとするのを諦め、圭介はポケットに手を突っ込んで振り返った。


ジュリアが立ち上がり、圭介から数歩下がった場所まで近づいてきていた。

彼女の手には、小さなハンドガンが握られていた。

それをまっすぐ圭介の眉間に突きつけ、ジュリアはどこか悲しそうな、空虚な目を向けていた。


「……成る程な」


意外なことに、圭介は冷静だった。

彼はポケットに手を入れたまま、ジュリアに向き直った。


「いつからだ? アンリエッタ」


彼がそう問いかけると、ジュリアは口元を僅かに歪め、いびつな笑みを発した。

そして掠れた声で答える。


「最初からよ、中萱君」

「そうか……」

「随分と落ち着いているのね……」


小さな声でジュリアがそう言うと、圭介は軽く肩をすくめ、自嘲気味に笑った。


「そんな気はしていた。人造スカイフィッシュである君を、アメリカ赤十字が何の意図もなく派遣してくるわけがない。なにせ……」


圭介は鼻を軽く引きつらせ、淡々と言った。


「俺達には、人権がない」

「……まるで何もかもがお見通しって言う感じの言い方ね……」

「およそ君が知っている限りのすべてのことはな」

「私は!」


圭介の言葉を打ち消すようにジュリアは叫んだ。

そして両手でハンドガンを構え、安全装置を指先でスライドさせる。


「……私はそんなあなたの、達観した物言いが嫌いだった!」

「…………」

「坂月君も! まるで全てを見透かしているような……私達の存在自体をすでに諦めているような……そんな顔も、声も何もかもが大嫌いだった!」

「…………」

「命乞いをしなさい」


淡々とした声でジュリアは圭介に言った。


「死にたくないって! 助けてくれって喚きなさい! 抵抗しなさい! 中萱榊!」


圭介の本名を怒鳴り、ジュリアは一歩を踏み出した。

そして圭介の額に銃口をえぐりこむように押し付ける。


「どうしたの? 何余裕かましてるの? 私が撃てないとでも……そう思っているの?」

「…………」


圭介は小さく溜息をつくと、その場から動くでも、抵抗する様子もなく軽く笑った。

それはどこか諦めたような、悲しそうな、やるせなさそうな。

虚脱した笑みだった。

彼のその顔を見て、ジュリアが言葉を飲み込む。


「いや……君はきっと、引き金を引く。分かってる。これは脅しじゃない」

「…………」

「そして、これは赤十字全体の意思だろう。なら、俺がここで騒いで、たとえ君を組み伏せたとしても。俺が助かる確率は極めてゼロに等しいってわけだ」

「何を冷静に……分析している場合?」

「ああ。最期くらいゆっくりしたいと思ってね」


圭介はそう言って、懐からタバコを取り出した。

そして口にくわえ、ライターで火をつける。

額に銃を押し付けられたまま、彼はフーッ、と煙を空中に吐き出した。

軽く咳をしたジュリアが、咎めるように言う。


「ここは……病院よ」

「硬いことを言うなよ。今までずっと、あの子の世話で吸えなかったんだ」

「いつから気づいてたの……? 私が、あなたを殺すために派遣されてきたって」


ジュリアが問いかけると、圭介はタバコを吸いながら笑った。


「いつも何も」

「…………」

「そういうものだろう。マインドスイーパーの最期って大体」

「……そうね」

「坂月は、そうやって俺が殺したからな」


笑い話のような調子でそう言うと、ジュリアは目を見開いて硬直した。

そして引きつった声を発する。


「坂月君を……? 中萱君……あ、あなたが……?」

「何を驚いてるんだ。知っているんじゃなかったのか?」


圭介はバカにするように鼻を鳴らし、続けた。


「坂月はS級のマインドスイーパーだった。沢山の人を治療したよ。そして、沢山のエラーを心に蓄積させていった。やがてそれは、処理しきれない悪夢の塊となって坂月を侵食した」

「…………」

「元の人格は崩壊。理性もなくなり、自分が誰かも分からなくなった。常に何かに怯え、何かに怒り。人を治し続けたS級能力者は、ただのリビングデッドに成り下がった」

「だから……殺したの?」

「そうだ。それが、坂月の遺言でもあった」

「遺言……?」

「人格が壊れる前に、あいつは俺に、自分自身の治療を依頼していた」


圭介の吸っているタバコから、灰がボトリと床に落ちる。

それを空虚な瞳で見下ろしながら、彼は続けた。


「俺は約束通り、坂月を治療した」

「殺すことは治療ではないわ! それはただの殺人よ!」


ジュリアが叫ぶ。

圭介はしかし、それをやるせない瞳で見返し、ゆっくりと首を振った。


「坂月はそれで救われた。俺は、産まれて初めてその時、人を救った」

「…………」

「最初で最後の、治療だ」


圭介は床にタバコを投げ捨てると、靴のつま先で踏みにじった。

指先でメガネの位置を直し、彼はジュリアをまっすぐ見た。


「坂月は救われた。だが、マインドスイープのネットワーク上にコピーされた坂月の人格は、分裂、増殖を繰り返して『悪夢の元』を延々と生み出し、トラウマとして人の心に介入を続けている。分かるか? 『スカイフィッシュ』というのは、ナンバー1システムの出来損ないの、慣れの果てなんだよ」

「スカイフィッシュが……坂月君の精神体の分裂したものだとでも言うの……?」

「その通りだ」

「嘘よ!」

「じゃあ説明できるのか? スカイフィッシュがどうして同じ姿形をしているのか。どうして介入不能な戦闘能力を有しているのか」

「…………」


圭介は手を伸ばし、ジュリアの頬にそっと触れた。


「全部、坂月の悪夢がモチーフになっているからなんだ」

「それじゃ……」

「君の中にも、坂月の悪夢が感染させられている。君も病人だ」


絶句したジュリアに冷たい目を向け、圭介は手を降ろした。


「……もう少し足掻けると思ったんだがな。存外に早かった。アルバート・ゴダックか? 君に俺の殺害を命令したのは」

「違うわ」

「へえ……?」

「あなたを殺すのは私の意思。あなたのことを、いっときでも好きだった……この私の意思。これは、私が決めた、私の殺意よ」

「違うな」


圭介はわずかに震えるジュリアの手を見てから、彼女の目に視線を動かした。


「それは植え付けられた殺意だ。誰かにインプラントされた強迫観念だよ」

「違う!」

「……違ったら、いいんだけどな」


そこでフッ、と圭介が笑った。

彼の気の抜けたような顔を見て、ジュリアが息を呑む。


「これを」


圭介はポケットから手を出して、ジュリアに差し出した。

そこには小さな紙切れがつままれていた。


「大河内に渡してくれ」

「そんな頼み、私が聞けると思う?」

「聞くさ。なにせ、君は俺のことが好きだからな」


圭介の表情が下卑た笑みに変わる。


「アンリエッタ。ここで俺が、君のことを『愛している』と言ったら。君はその引き金を引くことが、できるかな?」


小馬鹿にしたような邪悪な言葉に、ジュリアは目を見開いて怒鳴った。


「私を……私を弄んで、たばかるつもり?」

「ああ、そうだ。じゃあ逆に聞くが。君は俺を、簡単に殺せるとでも思っていたのか?」


クックと喉を鳴らして笑い、圭介は手を伸ばしてジュリアの、銃を構える右手を掴んだ。

硬直して息を呑んだジュリアの手を引いて、自分の左胸。

心臓に銃口をあてがわせる。


「愛してるよアンリエッタ・パーカー。俺は、君のことが好きだった」

「…………」


歯を噛み締めて圭介を睨みつけるジュリア。

その手がブルブルと震えていた。


「どうした? 俺を殺しに来たんじゃなかったのか?」

「こんなの……こんなの……!」


ジュリアがヒクッ、と喉を鳴らした。

その泣き笑いのような歪な表情を作った顔が歪み……。

彼女の目から涙が溢れた。


「卑怯すぎる……」

「嘘だと分かっていても、動けないだろう。君は『そういう調整』をされているからな」


圭介はニヤニヤと笑いながら、ジュリアの手を握り込んだ。


「撃てよ! 俺を殺すんじゃなかったのか!」


突然の圭介の怒号を聞いて、ジュリアがヒッ、と息を呑む。

そして彼女はよろめいて、その場に尻もちをついた。


カシャン……と安全装置が外れたハンドガンが床に落ちて転がる。

圭介は冷めた目でそれを見下ろし、ポケットに両手を突っ込んだ。


「その程度の存在なんだよ。君も、俺も」


頭を抑えて絶叫したジュリアを淡々と見下ろし、圭介は続けた。


「坂月だって、真矢だってそうだ。俺達……赤十字による第一実験体は、今も昔も只のモルモット。モルモットにはモルモット以外のレールを歩くことは出来ない。だって……モルモットなんだからな」

「…………」


震えながら自分を見上げるジュリアに、鉄のような視線を下ろす圭介。

それは、スカイフィッシュの目に酷似していた。


「俺はずっと考えていた。どうして俺はモルモットなのだろうか。モルモット足り得る定義を作った奴は、一体誰なんだろうか……神ではない。そんなものはこの世にはいない。なら誰? ……坂月と、ずっとそれについて考えていた」

「中萱君……あなたは……」

「俺達をモルモットにし、坂月を壊し、真矢を壊し、こんな腐ったレールを作ったのは一体誰だ。自殺病を蔓延させ、人間の心に腐食するトラウマを植え付けている奴は、一体誰なのか」


圭介は足元の潰れたタバコを踏みにじり、それをドン、と足で叩き潰した。


「俺は坂月と誓った。どんな犠牲を払っても。その『悪魔』を地獄に叩き戻してやると」

「…………」


唖然として硬直しているジュリアに、圭介は続けた。


「だが俺は歳を取りすぎた。君もだ。手足がいる。俺の代わりに、悪魔に鉄槌を下す『カルマ』を持った道具が」

「それが……汀さんだったのではないの?」


震える声でジュリアが言うと、圭介は鼻を鳴らして答えた。


「他に誰がいる」

「あの子は人間よ……あなたの、あなたの復讐のための道具ではない……!」

「汀は真矢を『殺し』た」


淡々と言い放った圭介の言葉に、ジュリアは息を呑んだ。


「え……?」

「マインドスイープした汀の中で、俺達はスカイフィッシュとなったあいつに襲われた。真矢はそこで受けた攻撃により、自殺病に根幹から冒され、再起不能になった。俺を庇って」

「…………」

「真矢のオリジナルは、そこで終わった」


圭介は小さな声でそう言うと、自嘲気味にクックと笑った。


「分かるか、俺の気持ちが。俺の憎しみが。真矢を終わらせたクソガキを、あの悪魔を、俺は今までずっと育てていたんだ。ずっと守っていたんだ。俺の大事な真矢を奪ったあの畜生を、俺は『治療』していたんだ」

「そんな……」

「だがもう十分だ。準備は整った。あいつは、もう逃げることは出来ない」


裂けそうなほど口を開いて笑い、圭介はポケットから両手を出して横に広げた。


「俺の復讐の準備は整った。そこにおける、『俺の生死』などもはや大した問題ではないんだよ。アンリエッタ」

「あなたは……何をしようとしているの?」


掠れた声で問いかけたジュリアに、圭介はメガネの奥の瞳に鈍く光を反射させながら答えた。


「赤十字病院を……マインドスイープというシステムを牛耳っている病人共。『元老院』達を、治療するんだ」


なめるようにゆっくりとそう言い、彼は舌で唇を湿らせた。


「元老院……を……?」

「そのために汀を育てた。テロリストと戦わせた。あいつに治療の術を叩き込んだ。そうだ……アンリエッタ。これは最初から、そう、最初から……元老院と、俺の戦争だったんだ」

「まさか……」

「俺だよ。テロリストを動かして、マインドスイープを妨害していたのは。俺と、坂月だ」

「…………」


絶句してジュリアは後ずさりした。


「無論テロリスト達はそれを知らない。テロに対抗するために組織された、君達『機関』も知らない筈だ。だけどな、事実なんだよ」


圭介は面白くてたまらないという調子で体を曲げて小さく笑い始めた。


「大変だったよ。反乱分子に情報を与えて。わざわざ調整された実験体を助けて……機関とテロの対抗図式を構築するまでに十年はかかった」

「……嘘……」

「嘘じゃない。まぁ、今となっては証明する術はないけどな。証明をするつもりもない」

「テロで、どれだけの人が死んだのか……分かっているの……?」


小さな声で問いかけられ、彼は無表情でジュリアを見下ろした。


「興味ないからな。そういうのには。知らない」

「あなたは……!」


ジュリアは弾かれたように顔を上げた。


「あなたは人間ではない……! 悪魔よ! 汀さんを悪魔と呼ぶなら、あなたもその同類よ!」

「だから何だ?」

「だから……」


ジュリアは悲痛な声を上げた。


「だから……!」


言葉にならなかったらしかった。

しばらく圭介は嗚咽するジュリアを見下ろしていたが、やがてポケットからサバイバルナイフを取り出して鞘を抜いた。


「さて……」


それを逆手に持って、ジュリアに向き直る。


「そろそろ終わりにしよう、アンリエッタ。この現実の世界で。せめてここで終わりにしよう」

「…………」

「俺はこれから君を殺そうとする。無論抵抗しなければ、俺は君の首を切断して、殺す。その後、この病院内の全ての赤十字の大動脈を同じように切断して回り、皆殺しにする」


もう片方の手をポケットに入れ、彼はリモコンのようなものを取り出した。


「計十八ヶ所。この病院には爆薬を設置した」

「…………」


目を見開いたジュリアに、圭介は淡々と言った。


「ボタンを押せば爆発する。まぁ……それだけでも多数の死傷者は出るだろう」

「それが……」


彼女はわななく手で床に爪を立てた。


「それが医者のやることなの……?」

「アンリエッタ……」


圭介は不気味な能面のような顔で、それに返した。


「自殺病に感染した人間は、もう二度と幸せにはなれない。なってはいけないんだ」

「…………」

「何故だか分かるか? 自殺病に感染した人間が、マインドスイープのネットワークにアクセスするたびに、ネットにトラウマが放流される。ウイルスだ。つまり、自殺病患者は治療される度に、自殺病のウイルスをばらまいている。世界中に」


口の端を歪めて、彼は笑った。


「病原体なんだよ。患者は、もはや総て」

「…………」

「俺はこれから、数秒後に君を殺す。その後ボタンを押す。君が俺を殺さない限り、俺はそれを確実に実行する」


カラカラと空調の音が響いた。

ジュリアは震える手でハンドガンを拾い上げ、立ち上がった。

そして両手で圭介に向けて構える。


「そうだ。それでいい」


彼は銃口が頭を向いているのを確認して、満足げに微笑んだ。


「ああ……これでやっと……」

「…………」


砕けんばかりに歯を噛み締めたジュリアが、指先に力を込める。


「真矢のところに逝ける」


銃声が響いた。



「…………」


タバコをくゆらせたスーツ姿の男性が、苦々しげな顔で施術室の中に立っていた。

彼の周りには、黒服を着た男達が立って警備している。

警察と思われる者が出入り口を封鎖し、数人が遺体を青い袋に詰めていた。


「待て」


タバコの男はそう言うと、足を踏み出した。

そして二つの遺体袋に近づき、片方の半開きになっているチャックを覗き込んだ。


高畑圭介……というネームプレートと、頭部を銃弾で破壊された遺体が、そこにはあった。

タバコの男は舌打ちをして立ち上がった。

視線をもう一つの遺体袋にやると、そこにも頭部が破壊された女性の亡骸があった。


「こちらの男性を射殺してから、自殺したようですね……現場の検証を詳しくしないと、断言はできませんが……」

「警部!」


そこで息を切らせて別の刑事が飛び込んできた。

彼は血溜まりを踏み越えて近づくと、警部と呼んだ男に何事かを囁いた。

それを聞いた途端、男が顔面蒼白になる。


「アンリエッタ・パーカー……私の見込み違いだったか……中萱榊を殺して、自分も後を追うとはな……」


苦々しげに呟いたスモーキン・マンに、警部が近づいて、耳元に口を近づけて言った。


「即刻ここから退避を」

「何かあったのか?」

「監視カメラの映像と音声を聞いた結果、この病院には爆発物が設置されているようです。パニックにならないよう、内部の人を誘導しますので、あなたも早く外へ」

「…………」


また舌打ちをして、スモーキン・マンが足を踏み出す。

そこで彼は、血溜まりの中に紙切れが落ちているのを目にした。


さり気なく身をかがめてそれを拾い上げ、血をスーツで拭ってポケットに突っ込む。

そして彼は、火のついたタバコを携帯灰皿に押し込んで、蓋を締めた。

その視線が、圭介が吸って踏みにじったタバコに落ちる。


「……バカ者が……」


苦く、そして重く呟いて、彼は歩き出した。

点、点と血の足跡が、リノリウムの床に広がっていった。



「高畑が……殺された……?」


愕然として大河内は、携帯電話の向こうに震える声を発した。


「そんな馬鹿な……誰だ、殺したのは? テロリストか?」

『それが……ジュリア医師が、施術後に銃で頭部を撃ち抜いたそうで……』

「…………」

『即死です』


電話口の向こうの医師に、大河内は声を荒げて言った。


「ジュリア女史は……? あの人はどうしたんだ?」

『高畑医師を射殺した後、銃を口にくわえて引き金を引いたようです。二人分の遺体が、少し前に施術室から発見されました』

「なんだって……」


大河内は言葉を失い、よろめいて椅子に腰を下ろした。

そして腹の傷を手で抑えながら、掠れた声を発する。


「……分かった。関東赤十字病院はどうなった……?」

『病院内に爆弾が仕掛けられているという話があり、一時騒然となりましたが……デマだったようです。爆弾は発見されず、通常通り、今は稼働しています。報道機関への抑制も完了しています』

「…………」


大河内は息をついて天を仰ぎ、電話の向こうに数点指示をしてから通話を切った。

そして頭を抑えて体を丸める。


沖縄赤十字病院の、音響反射材のような白い壁に囲まれた部屋だった。

かなり広く、幾つかのパーテーションで分けられている。

大河内はそこで点滴を受けていた。


すぐ近くのベッドには、なぎさが横になって寝息を立てている。

病院の地下、マインドスイープ用の施設だった。

このエリアは、外部からのマインドジャックを妨害する効力がある。


ここにいる限り、テロリストの干渉を受ける心配はないが……反対に、こちらから手出しをすることもできなかった。

マインドスイープのネットワークに接続した瞬間、ハックされる危険性があるからだ。


「高畑……」


大河内は頭を抑えて言葉を絞り出した。

その表情が苦悶と苦痛に歪む。


「逃げるのか……そうやって。卑怯じゃないか……お前はいつも……」


そこで大河内は、看護師の女性が、院内通話用の携帯端末を持って近づいてくるのを見て、顔を上げた。


「ドクター大河内、お電話です」

「何だ? 関東赤十字からか?」


何故自分の携帯に寄越さない、と疑問が頭をよぎった所で、看護師が戸惑いの表情を浮かべて携帯を大河内に渡した。


「いえ……『サカヅキ』という方からです。男性です」

「えっ……?」


呆然として目を見開く。

看護師は彼の様子を見て、怪訝そうに顔を覗き込んだ。


「お知り合いではないのですか? ドクターの親戚の者だということなので、お継ぎしたのですが……」

「いや……知り合いだ。ありがとう、下がってくれ」


大河内は携帯を握り、立ち上がって誰もいない通路側に移動した。

そして保留解除のボタンを押し、耳に近づける。


「……私だ」

『随分出るのに時間がかかったじゃないか』


淡々とした声を受け、大河内は奥歯を噛み締めて、言葉を絞り出した。


「坂月君……」

『生きていたのか? っていう知能指数の低い質問は勘弁してくれ。時間もない』

「……お前が坂月君から分裂した精神体の一つか……」

『ああ。ネットワークを通じて、音声変換ソフトを間に挟んで通話してる。あまり長くは話せない。元老院に逆探知される』

「元老院……?」

『知っていると思うが、先程「高畑圭介」が死んだ』


大河内の問いかけを無視し、電話口の向こうの「坂月」はそう言った。


「本当のことなのか……やはり……」

『殺したのはジュリア・エドニシア。アメリカ赤十字の……』

「アンリエッタ・パーカーだな。厄介なことになった」


歯を噛み締め、大河内は押し殺した声で続けた。


「こちらの情報部の調査通りだとすると、あの女は人造で調整されたスカイフィッシュのようだな……」

『そうだ。いわば、人の手で作り出された僕のようなものだと言える』

「どこかにアンリエッタ・パーカーの精神から分裂した分裂体がいたら、君が死んだ時と同じように、誰かの悪夢に感染する」

『話が早いな』


坂月は小さく笑いながら言った。


『そこまで分かっているならいいんだ。ジュリア……いや、アンリエッタ・パーカーは、最初から高畑圭介を巻き込む為の「時限爆弾」だったんだよ。生きていてもどっちみち処分されていた。新しいスカイフィッシュをネットワークに放流するためにね』

「何故だ」


大河内の血反吐を吐かんばかりの声に、坂月は言葉を止めた。


「自殺病を根絶するために、ナンバー1システムを作ったんじゃなかったのか……?」

『君は一つ大きな勘違いをしてる』


坂月は淡々とそれに返した。


『マインドスイープは、一つのビジネスだ』

「ビジネス……?」

『自殺病にかかった人間が、赤十字病院で治療される。自殺病のウィルスは誰かにまた感染し、新たな患者を作り出す。そのサイクルで赤十字という大きなコミュニティは潤い、回る』

「…………」


絶句した大河内を馬鹿にするように笑い、坂月は続けた。


『たまにスカイフィッシュというスパイスも必要だ。簡単潤滑に進むだけではいけない。異分子による妨害があってはじめて、「治療」はさらなる「必要性」を有する』

「…………」

『全て赤十字の……「元老院」の描いたシナリオなんだよ。君達は、ただそれにそって足掻いているにすぎない』


大河内は歯を噛みながら壁に寄りかかった。

そしてズルズルとその場に腰を下ろす。


『そのシステム自体を潰そうとしているのが、テロリストだ。彼らはマインドスイープという行為自体を消し去ろうとしている』

「そんなことが可能なのか……?」

『可能だ』


坂月は重い声で続けた。


『人の夢に入り込めるシステムを掌握し、そこから別の悪夢を、世界中に送り込む。いわば……アンチスカイフィッシュだ。スカイフィッシュを殺すことができる、ウイルスバスターとでもいうものかな』

「そんな……」


大河内は声を荒げた。


「そんな都合のいいことが、できるわけがない!」

『無論、理想通りには行かないだろう。だが、自動でスカイフィッシュを駆逐できる、強力な別の悪夢を患者の心にインプラントできれば、それだけで自殺病の進行をある程度遅らせることが可能だ』

「…………」

『テロリストは、何度もマインドスイープへのジャックを繰り返し、システムの中枢を既に発見している。次にダイブしてきた時が、彼らの決行の時だ』

「私に……どうしろと言うんだ……」


頭を掴んで首を振る。

そして大河内は弱々しい声を発した。


「高畑は死んだ……みぎわちゃんも、マティアスに殺されてしまった。私一人ではもう何も出来ない……そこにさらに、アンリエッタ・パーカーが二人目のスカイフィッシュとして、ネットワークに放流されたら、もう打つ手は何もないじゃないか……」

『今すぐ、君が保護した女の子をダイブさせるんだ』


坂月ははっきりとそう言った。


「何だって……?」

網原汀あみはらなぎさ君を、今すぐ僕の指定する夢座標にダイブさせろ。君のすることはそれだけでいい』

「待て。あの子の主人格は、もう精神外科医によって削り取られてる。記憶も何もないんだ」

『知っている。高畑からそれは聞いた』

「高畑から……?」

『僕はそのような状況のために、対抗策を用意しておいた。網原君には、やってもらわなければいけないことがある。主人格をロストしたくらいで、終わらせるわけにはいけない』


恐ろしいことを言い放ち、坂月は大河内に、座標情報をボソボソと伝えた。

その声が、伝え終わったあたりでノイズ混じりになる。


『赤十字に逆探知された。そろそろ通信を切る』

「坂月君! 教えてくれ、この患者は……一体誰なんだ? 誰の頭の中にみぎわちゃんを連れていけばいいんだ!」

『……君がよく知っている人物さ』

「私が……?」

『その夢座標は、アルバート・ゴダック』


大河内が息を呑んで、メモした夢座標の紙を見つめる。


『僕と高畑が長い時間をかけて割り出した、元老院の最高責任者……全ての赤十字を統括している悪魔の、頭の中だ』



会議室で、大河内は目の前のiPadに視線を落とした。

周囲には沖縄赤十字病院の医師達がいる。


「しかし……ドクター大河内。この状況でダイブを行うのは無茶です。それに、誰なんですか、この患者は」


沖縄側の医師の一人が口を開く。

大河内はiPadに表示されているカルテを見ながら、重苦しい声を発した。


「この患者は……世界医師連盟の一人。アルバート・ゴダックという男性です」


その名前を聞いて、周囲が息を呑む。


「冗談を……! あなたの情報だと、この患者は……」

「はい。アメリカ赤十字病院の隔離病棟で現在も集中治療中の、重度の全身麻痺患者……数年前の脳梗塞で意識不明となっている、植物状態の男性です」


静かに言い、大河内はiPadを叩き、カルテのページをめくった。


「偽名を使っているようですが、この男性で間違いはありません」

「そんな情報をどこから……」


声を上げた医師が、歯を噛んで大河内を睨む。


「いや……そんなことより、ダイブは無理です! 現在テロリストのマインドスイープの妨害を警戒し、全てのダイブ機構へのアクセスが規制されています。ご存知のはずでしょう?」

「分かっています」


大河内はそう言って、息をついてその医師を見た。


「しかし、先程その『世界医師連盟』のアルバート・ゴダック氏に『ダイブ』を行うように、という要請が、私に来ました。ご覧ください」


彼はiPadを操作し、そこに表示されている文書を、画面を回転させて全員に見せた。

映し出されたマークを見て、周囲が唖然とする。


「アメリカ国防総省の、セドリック・バーンステイン大臣からの書面です。そして、彼は私の所属している『機関』の最高責任者でもあります」


iPadを持ったまま、大河内は淡々と続けた。


「日本政府への打診は終わっています。ご存知の通り、国防総省からの通達は、世界医師連盟の決定を上回ります」

「待ってください!」


机を叩いて、医師の一人が立ち上がる。


「この植物状態の患者にアクセスして、何をどうするつもりなのか、お聞かせ願いたい。いくら命令があろうと、ここは軍隊ではない。病院です! あなた方特務機関の力押しで、はいそうですかと協力する訳にはいかない!」


周囲の同調する頷きを見回し、大河内は息をついた。

そしてしばらく沈黙してから一気に言う。


「この男は、テロリストの一人です。先程CIAにより、国際手配も始まりました」


大河内は、嘘をついた。

勿論、国防総省の大臣から送られてきた書面は、本物だった。

先程の坂月の分裂体との会話を途中から録音し、転送。

それを受けてアメリカ国防総省から送られてきた通達は


「アルバート・ゴダックの殺害」


を命じるものだった。

彼がテロリストである、というのは、国防総省のでっちあげである。

そう、つまり大河内の属する機関は……。

簡単に言うと、「世界医師連盟」という組織を切り捨てたのだった。


そこには様々な思惑があるのだろうが、おそらく一番は、共倒れを防ぐため。

テロリストに情報が漏れている可能性のある、アルバート・ゴダックを殺害することで、口封じをしようとしているのだ。


こみ上げてくる吐き気を抑えながら、大河内は腹の傷を掴んだ。

僅かに血が滲んでいるのが分かる。


夢座標を解析した結果。

アルバート・ゴダックは植物人間であることが判明した。

すでに十年以上寝たきりの生活を送っている。

つまり、元老院の最高責任者は……現実のこの世界からではなく、夢の世界から坂月の精神体のように干渉し、全てを動かしていたことになる。


「国際指名手配犯です。ネットワークに逃げ込まれる前に、精神中核の身柄を確保しなければいけません」

「なるほど……しかし危険すぎる」


大河内の言葉を聞き、医師の一人が歯を噛む。


「沖縄赤十字病院から出せるマインドスイーパーは、今は誰もいません。これ以上スイーパーの命を危険にさらす訳にはいかない。私達でダイブしようにも、時間がもつかどうか……」

「大丈夫です。私が連れてきた子を使います」


静かにそう言い、大河内はiPadをデスクに置いた。


「時間がありません。逃げられる前にテロリストを捕まえ、このテロを終わりにしましょう。長距離ダイブの用意を、お願いします!」



大河内は眠ったまま目覚めていないなぎさの頭にヘッドセットを装着し、何ともいえない苦しい表情で彼女を見下ろした。

ダイブ室に移動して、なぎさを長距離ダイブ装置に接続。

大河内はナビでのサポートに回ることになっていた。


本当は大河内も一緒にダイブをしたかった。

そう主張はしたのだが、沖縄から、アメリカの患者にダイブするというその意識の伝達に、大人の大河内は耐えられないと止められてしまったのだ。

破れんばかりに唇を噛んで、彼は眠っているなぎさの手を握った。

周囲では沖縄赤十字の医師達が慌ただしくダイブの準備をしている。


「……高畑は死んでしまったよ」


大河内は、なぎさにだけ聞こえる小さな声で呟いた。


「ちゃんと話したことはなかったね……私は、卑怯な男なんだ」


反応がない少女の脇の椅子に腰を下ろし、彼は両手で彼女の手を包み込み、額に当てた。

そして絞り出すように続ける。


「私は、真矢ちゃんが好きだった。愛していたんだ。ただ、真矢ちゃんは優しくてね……高畑のことが放っておけなかった。あの二人が惹かれ合って、相思相愛になっていたと知った時、私は狂いそうになった」


自嘲気味に笑って、大河内は目を閉じた。


「高畑を殺してやろうかとも思った。でも、意気地がない私にはそれはできなかった。見ているだけだった。そしてやがて真矢ちゃんは君の中のスカイフィッシュに殺されてしまい、君と高畑だけが残された」

「…………」


眠り続けているなぎさに、彼は小さく言った。


「高畑は君を憎んでいた。私はそれを知っていた。私は、真矢ちゃんが命をかけて守った君を、何とかして高畑の手から助け出したいと思っていた。だから機関に入った。でも、私は君を助けられなかった……それどころか、また戦場に送り出そうとしている……」


強く少女の手を握りしめ、大河内は言葉を絞り出した。


「私を……許して欲しい……」

「ドクター大河内、時間です」


後ろから声をかけられ、大河内はなぎさの手をベッドに戻してから、立ち上がった。

ダイブ室から出て、ガラス張りのそこを取り囲むように機器が敷き詰められている一角に、大河内はよろめきながら移動した。

そして彼は、ヘッドセットをつけて声を張り上げた。


「ダイブを開始します。彼女の意識をスイープシステムに繋いでください!」



なぎさは、真っ白い、どこまでも続く廊下に立っていた。

天井には蛍光灯が縦に並んでおり、時折ブツブツと明かりが切れて、ついてを繰り返している。


二メートル幅ほどの通路はどこまでも伸びており、振り返っても同じ、先が見えない通路しかなかった。

壁も、床と同じ素材なのか白い、ただそれだけのものだ。

通路というよりはトンネルのようだ。


『私の声が聞こえるか?』


耳元のヘッドセットから大河内の声が流れてきて、なぎさはビクッとしてヘッドセットを触った。

病院服に裸足の格好だ。

訳が分からない。


そこで彼女は、頭に抉りこむような痛みを感じ、悲鳴を上げて両手で耳を塞いだ。

鼓膜が破れそうな激痛だった。

そのまま床に転がってのたうち回る。


ヘッドセットの向こうで大河内が何事かを言っているが、聞いている余裕はなかった。

なぎさの鼻から一筋、血が流れ出す。


しばらくして痛みが鈍痛に変わり、彼女はうずくまって頭を抱えたまま震えていた。

ここはどこで、自分はどうしてしまったのか。

さっぱり分からなかったが、先程の激痛でそんなことを考えている余裕がなかった。


『大丈夫か? 返事をしてくれ!』


大河内の声に、やっと掠れた呟きを返す。


「パパ……?」

『良かった。いいかい? 時間的余裕がない。君の身を守るためにも、私の言うことを、聞き返さずに素直に聞いて欲しい』


大河内の切羽詰ったような声を聞き、なぎさは震えながら言った。


「な、何が……」

『君の脳に多大な負荷がかかってる。激痛はそのためだ。君は今、夢の中の世界にいる。今すぐその地点から移動するんだ』

「夢……ここが……?」


呟いて、壁により掛かりながら何とか立ち上がる。


『目的地は別だが、指定地点に寄って欲しいんだ』

「体が……うまく動かない……」

『君の精神がまだ慣れていないんだ。少し動けば適応する。とにかく、そこは危険だ。先に進んでくれ』

「後ろと前が同じで、どっちに行ったらいいのか分からないよ……」


心細げに言われ、大河内は少し考え込んでから答えた。


『壁に扉があるはずだ。すぐ近くに』


言われ、なぎさは周りを見回した。

確かに、少し進んだ先の壁に、一つだけ不自然に木造の扉がついている。

その前に移動して口を開く。


「うん……ある」

『中継地点はおそらくそこだ。開いて中に入ってくれ』

「分かった」


頷いてドアノブに手をかけようとしたときだった。

チャリ……という金属音が響き、なぎさは弾かれたように振り返った。


少し離れた場所……。

今まで彼女がいた場所に、人影があった。

パーカーフードを目深に被った、足元まで続く長いコートを羽織った華奢な影だった。


しかしそれを見た瞬間、なぎさの体が勝手に震えだし、彼女は悲鳴を上げてその場に尻餅をついた。

腰が抜けてしまったらしく、ズリズリと力なく後ずさりする。


『何だ……? 何かいるのか!』


大河内がヘッドセットの向こうで怒鳴る。

しかし汀は答えることができずに、フードの女性……と思われる人を真っ直ぐ見つめていた。

フードの中が異様に暗く、顔を見ることができない。

なぎさは体全体を走る悪寒に耐えきれず、「彼女」が足を踏み出したのを見て、金切り声の絶叫を上げた。


「誰かがネットワークに侵入してきたと思ったら……あら、中萱君のペット」


クスクスと笑いながら、女性の声を発した「それ」はなぎさの眼前で足を止めた。


「でもお生憎様。あなたをこの先には行かせないわ」

『アンリエッタ・パーカーの精神分裂体……! スカイフィッシュか!』


なぎさの耳のヘッドセットから、大河内の声がする。


『逃げろ! その精神体は、トラウマとしての機械的な動きしかしない。早く扉に入るんだ!』


なぎさはしかし、動くことができなかった。

震えながら、アンリエッタのことを見上げる。


フードの奥の暗闇で、髑髏のマスクが光ったような気がした。

ドルン、という音がした。

ハッとした時には、アンリエッタが何か巨大なものを持って、紐を引っ張っていた。


どこから出したのか、と考えるより恐怖が先行した。

チェーンソーの高速回転する刃を振りかざして、フードの化物はなぎさに向かってそれを振り下ろした。


殺される、と目を瞑る。

しかし予想された衝撃はいつまで経っても訪れず、なぎさは恐る恐る顔を上げ……そして目を見開いた。


自分と同じような病院服の女の子が、いつの間に現れたのか、間に飛び込んできていたのだ。

彼女は、アンリエッタと同じような巨大なチェーンソーを軽々と振り回すと、受け止めていた相手の凶器を跳ね飛ばした。


そしてためらいもなくアンリエッタの頭に向けて振り下ろす。

フードの化物は手を伸ばして、女の子の腕を掴み、チェーンソーの動きを止めた。

凄まじい力が双方にかかっているのか、ミシミシという異様な音が響く。


「何をしているの、網原汀あみはらなぎさ! 早くその扉の中に退避しなさい!」


悲鳴のような声を受け、なぎさはハッとして立ち上がり、転がるように扉のドアノブに手をかけた。

回して押すと、向こう側に扉が開き、彼女の小さい体が中に転がり込む。

そこで、なぎさの意識はブラックアウトした。

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