(1)
その後、怪我人の回収や戦死者の弔いを済ませてからセレンとベリル、ショノアの3人は昨夜の野営地に戻ってきた。すっかり日も暮れていたため、ミレノアル軍はまた同じ場所で夜を過ごすことになったのだ。多くの無事だった兵達は一足先に野営地に到着し、既に酒宴を始めている。どうやら王が兵達を労うために酒と多くの食べ物を振る舞ったらしい。それはそれは大盛況だ。
「これはすごいですね…」
あまりの賑わいぶりにセレンも少し驚いてしまっていた。彼の時代のミレノアルでは平和であった分、国を挙げてここまで喜び騒ぐような機会もなかったのだ。隣にいるショノアも思わず唖然としてしまっている。
「数年ぶりに未来に何の不安もない夜を過ごすのだ。羽目を外したくなるのも頷けるがな…」
ベリルも久しぶりに楽しそうな表情を浮かべていた。彼女のここまで明るい表情を見るのは、以前ベリルの夫の経営する店で食事をした時以来だ。
「さて、我々もあの騒動の中に加わるとしようか」
ベリルが早く行くぞと促してくるのでセレンは笑顔で付いていこうとするが、ショノアは少し気の進まない様子だ。
「…あの中に入るのか…? 俺…一応今は子供の体になってしまっているから飲めないんだがな…」
「無理矢理飲ませようとする人間は誰もいないと思いますよ? 18歳になるまでは子供に酒を飲ませてはいけない…。それはミレノアルでも同じです」
成人しない内に酒を飲むと魔力の成長がその時点で止まるというのはこの世界では常識だ。その相手に本気で嫌がらせをしようとでも思っていない限りは誰も子供に酒を飲ませようとはしない。ショノアは態度や行動こそ大人びているが、顔や体付きなどは完全に子供とわかる外見をしている。間違えて酒を勧められることもないだろう。
「泥酔者がいたとしても周りが止めるでしょう。勿論、私も止めますよ?」
「……まあ、それなら安心だ…。けど俺としてはあんたとゆっくり話したいのもあったんだが…」
確かに今回の戦いではショノアもセレンも自分の体に色々と変化が起きている。情報交換は必要だった。それにようやくファタルとして彼と話をすることができるのだ。セレンとしても2人きりで話したい気持ちはあった。
「…私達の時間はこれからいくらでもあります。王都に帰り着くまでの間にも話す時間は取れるでしょう。ですが、今日この歓喜の時間を共有できるのは今だけなのです」
ここまで人が大勢いる中で2人で話し込んでなどいたら、必ず誰かが乱入してきて人混みに連れ戻そうとするだろう。2人が未来から来た人間だということも会話から気付かれてしまうかもしれない。何より今のセレンは周りのことを気にしながらショノアと冷静に話ができる自信がなかった。何しろファタルが戻ってきたのだから。
「積もる話は静かになってからゆっくりしましょう。もう…焦る必要はありません」
ファタルとは突然慌ただしく別れの時が来てしまった。時間があったとしても本当のことが話せない限り大した話はできなかっただろうが、それでもセレンの中には後悔が残っていた。だがもう次は隠し事も無く対等にファタルと話せるのだ。むしろ後日落ち着いてからゆっくり話したい。
「わかった。確かにそうだな…」
ショノアにもセレンの思いが伝わったのだろう。納得したように笑顔を見せる。
「では行きましょう。ベリル様が待ちくたびれていますよ?」
セレンが少し離れた場所でこちらを見ているベリルを指すと、ショノアは慌てたように付いてきた。2人で彼女に追い付けば、イアニスが馴染みの騎士達を連れて出迎えてくれる。セレンにとってこれほど安心できる嬉しい酒宴はなかった。
そうやってどれだけの時間が過ぎただろうか。気が付くと周りはほとんど酔い潰れて寝てしまっている。イアニスは早い時間に明日があるからと言って自分のテントに帰って行ったが、ベリルは何人かの屈強な体格の騎士達に飲み比べだと言って先程連れて行かれた。彼女はそれまでも何度か飲み比べを挑まれては圧勝している。戦いだけでなく酒の強さも最強のようだ。そんな彼女に勝てば実質酒の強さでは最強になれるだろう。それを狙って挑戦者は次々と現れるようだ。セレンにとってはマリウスがせめて酒だけでもと機会があれば飲み比べを挑んできたものだが、同じようなものなのだろう。
ショノアはもっと前にまだ新任の女性達に連れて行かれた。彼女達は酒よりも食事や会話の方を楽しんでいる様子だったので、むしろ彼は今頃普通に楽しめているかもしれない。それともそろそろ夜も遅いのでテントに戻ってきているだろうか。
「デルフィラも…一緒に楽しむことができれば良かったのですが…」
賑やかで楽しいことが好きな彼女だ。敵が彼女の父親でなければ、この場に来てセレンと共に生まれて初めての宴を楽しむこともできただろう。だが今の彼女は父の死に悲しみに暮れているかもしれない。セレンは懐を探ると小さな切り花を取り出した。
それはこの戦いに出向くセレンにデルフィラが贈った『王女の祈り』だ。ここまでの長い旅路でも昨日の戦いでも元気に咲いていた花だが、さすがに萎びてきてしまったようだ。セレンは転がっていた空の容器を拾うと、水差しに残っていた飲み水を入れて花を挿した。
「私も何か、あなたに残していけば良かった…。そうすれば少しはあなたの寂しさも紛らわすことができたかもしれないのに…」
この花を持つことによって、デルフィラが期待したようにセレンの身が護られるというようなことは無かったが、それよりむしろ彼女の存在を身近に感じられたことがセレンの力になっていた。彼女にも同じようにセレンのことを身近に思えるような何かがあれば、心の支えにもなれたのではないだろうか。
デルフィラの使い魔はセレンがアルゴスのいる塔に向かって以来ずっと見かけていない。父親の死ぬ様など見たいと思うはずもなく、今はずっと部屋に籠っているのだろう。
「そういえば…」
そこでふとセレンは未来に伝わる記録のことを思い出した。戦いの後、亡命してきたガレスの王女は姿を消し、そして聖剣はこの戦いで破壊された…。そう伝わっているのだ。だとしたら何故今も聖剣は無事でいるのか。セレンは恐る恐る今も腰に下げている聖剣を見つめた。
聖剣がこの戦いで破壊されたというのは間違いようがない。でなければセレンがずっと振るってきた聖剣の存在に理由が付かないのだ。しかしそれならこれから聖剣は破壊されるのか。最早一番恐れていた強敵アルゴスはこの世にいない。遺体さえ残っていない。それでもこの剣は破壊される運命にあるというのだろうか。
「そんなことはさせません…」
今となっては聖剣からヘイムの声が普通に聞こえてくるのだ。もうその存在は意思を持つ剣ではなく、ヘイムそのものだ。その彼が破壊されるということはヘイムの死を意味する。
“しかし君が元々持っていた聖剣は破壊されたにも拘らず私の意思が宿っていた。つまり生きていた…ということだろう?”
セレンの不安に反応したのか、ヘイムの声が語りかけてきた。
「ええ。そうです」
『剣』という本来は命のない存在が命を持った場合、その死はどのようにもたらされるものなのか、セレンには見当も付かない。或いは全てが粉々にでもされなければ死なないものなのだろうか。
一体どういうことなのか今も指に嵌っている柄だけの聖剣に尋ねてみても反応は全くない。どうにも新しい聖剣とセレンとの結び付きが強過ぎて、元の聖剣の方の意思が遮断されてしまっているようなのだ。
“器物とは外見が著しく損なわれ、その能力を発揮できなくなった時を『死んだ』とする。魔導器の魔法を開発した人物が記した言葉だ。この言葉を引用すれば、君の聖剣…今となっては私のことだが…。破壊はされても死に直結するわけではない…と取ることもできるな?”
「…そうですね」
聖剣は外見を著しく損傷したが、機能は失われていない。それを“死んでいない”と取るならばそうなのだろう。だが聖剣はそれによってセレンに言葉を伝える力やネメアを倒す力も失った。何も損なわれていないわけではないのだ。
“むしろ私は君のことの方が心配だ。私は君の魂をもらって命を取り戻した。それが個別に存在できるのであれば問題はない。だがもし君の魂を私と君とで共有しているのだとしたら、私に何かあった時君にも何か影響があるかもしれない”
「それを言うならば、私が生きているからこそ聖剣も柄だけで生き続けることができたのかもしれませんね?」
“…まあ、その可能性も否定できないな”
ヘイムの苦笑したような声が伝わってくる。どちらにしてもこの先まだまだ油断はできないということだ。しかしこの先一体誰が聖剣を破壊するというのか。少なくとも今周りで幸せそうに眠っている騎士や兵士達に災難が降りかからないようにと願うだけだ。もう悲惨な戦いはしたくない。
セレンは野営地の中心にある大きな焚き火の前に来ると弱まってきていた火力を魔法で強めた。周りは皆眠りこけていて火の番をしている者は誰もいない。結界石を随所に配置してあるため、火が無くともここにはそうそう魔物も寄ってこないだろうが、それでもできることはやっておくに越したことはない。
それにしてもセレンの見える範囲全てに起きている人間が誰1人見当たらないというのはどういうことだろうか。いくら戦いが終わり、アルゴスが死んだと言ってもまだここは敵地と言って良い。過去には勝利を喜ぶ兵達を敗北した勢力が奇襲し戦況が入れ替わったという話も無くはないのだ。ここまで見張りが誰もいないというのはおかしい。
何か不穏な空気を感じて周りを探っていると、突然遠くで強力な魔法が発動する気配がした。野営地の近くではなく、恐らく場所は城のある方角だ。
「まさか…」
アルゴスが復活したわけはない。彼の肉体はもう何一つ残っていないのだ。だとしたら何か恐ろしい魔法生物でも目覚めたのだろうか。とにかく放ってはおけない。セレンはその魔法の気配を追って一気に転移した。
再び足を踏み入れた城内は既に庭先から見知らぬ魔法生物で溢れかえっていた。これはもしかしたらアルゴスが造成して蓄えておいたもの達なのだろうか。とにかくすごい数だ。だがその魔法生物達と何者かが戦っているらしい。強力な魔法の気配はそこから漂ってくる。セレンがその魔法の気配と自分の間に立ち塞がる魔法生物達を次々と倒していくと、気配の主の姿が見えてきた。
「⁈…デルフィラ⁈」
セレンはその姿に思わず声を上げていた。彼の声が聞こえたのか、気配の主も振り返る。
「セレン⁈」
お互い驚きながらもひとまず周りにひしめく魔法生物達を倒すことに専念する。彼女と共闘するのは初めてだが、とても戦いやすい。デルフィラも同じ気分なのか、セレンを見ては笑みを浮かべている。魔法生物はあっという間に倒され消えていった。
目に付く範囲の魔法生物達がいなくなると、セレンはデルフィラの元に駆け寄る。
「何故あなたがここに? 王都で待っているようにと伝えたはずですよ?」
少し語尾がきつくなってしまったからか、デルフィラはそれまでの威勢の良さが無くなり、叱られた子供のように肩を竦める。
「ごめんなさい…。あなたに…みんなに気付かれないようにこっそりするつもりだったの…。だけど…」
「一体何をするつもりだったのですか? あなたが自ら手を下さなければならないようなら我々にも無関係ではないのでしょう?」
セレンはデルフィラがよりにもよってガレス城に入ってしまったことに苛立っていた。アルゴスは死んだが、この城の中には魔法生物以外にどんな罠が仕掛けられているかもわからない。そのためにデルフィラはこの先変わってしまうのかもしれないのだ。
デルフィラは怯えたように縮こまったまま、顔も上げない。セレンは少し言い過ぎたかと、彼女に近付くと姿勢を低くする。デルフィラはおずおずと手を伸ばし、セレンにしがみ付いてくる。
「父の…王冠が無くなっているの…。気付いていた?」
「王冠…? そういえば…最初に顔を合わせた時は確かに王冠はかぶっていました…」
しかし最後にミレノアル王を狙って転移し、セレンに阻止されたその時には既に王冠は消えていた。ガレス王の王冠はそれほど大きなものではなく、無くなっていても誰も注意を払わなかったのだ。そもそもミレノアル王は余程でない限り王冠を身に付けない。そのためガレス王の頭に冠が無くとも違和感を持てなかったのだろう。
「あれはあなたがくれた髪飾りと同じで、とても強大な魔力を秘めているの。その魔力を魔物が手にしたらどんな恐ろしいことが起きるか…」
セレンは思わず今聞いた話が真実であるかをヘイムに密かに尋ねていた。デルフィラが何故今になってそんなことを言い出したのか、少し納得がいかなかったからだ。しかしヘイムからはそれが事実であるという返答が得られた。
「事情はわかりましたが、それでも私に相談してくれればよかったのです。何も王都からあなたが出向かなくとも…」
「だってあなたはとても戦えそうにない状態だったじゃない! 私だって…あなたがこんなに元気だって知っていたら先に相談してたわ!」
「デルフィラ…」
彼女はアルゴスの元に向かうセレンがほぼ立ち上がることもできないほど消耗していたのを知っている。あの時、恐らく馬をセレンの元まで誘導してくれたのも彼女だろう。だからこそセレンを再び危険な戦いに向かわせたくはなかったのだ。
「すみません…。ずっと…あなたに心配を掛けていたのですね…?」
セレンは彼女を一瞬でも疑った自分を恥じていた。デルフィラは出会った時から自分に何かできることはないか、他人に迷惑をかけてはいないかとそればかりを気にしてきた。そんな彼女が戦いの勝利に沸き疲れ切っているはずのミレノアル軍に、更なる不安の種の存在を伝えることなどできるはずもない。王冠のことは密かに自分だけで解決するつもりだったのだろう。
「わかりました。でももう私は元気だとわかってくれたのでしょう? ならば共に行きましょう」
「……ええ、いいわ。でも無理はしないで」
デルフィラの手になおも力が入る。余程不安だったのだろうと、セレンはその彼女の手に自分の手を重ねた。
「大丈夫ですよ。もう私の体はネメアのようなものですから、普通の魔法生物の攻撃なら何も通用しません」
「そうなの? でもそれなら確かに安心ね…」
デルフィラはようやく安心したのか笑みを浮かべた。しかし周りから響いてきた魔物の雄叫びに、怯えたように肩を竦める。
「手を…繋いでいても良い? ここは暗いし…、子供の頃を思い出して怖いの…」
彼女にしてみればガレス城は育った場所ではあるが、父親に監禁されていた恐ろしい場所でもある。今までは必死だったために恐怖を心の端に押しやっていたのだろう。しかしセレンと合流したことで気が抜け、堪えていた恐怖も一気に襲ってきたに違いない。
「勿論良いですよ。…でも大丈夫。もうあなたは十分強い。何も恐れる必要はありません」
「ありがとう…」
デルフィラはセレンの差し出した手をしっかりと握ると、強い視線で彼を見つめてきた。
「ねえ、セレン…。やっぱり私…、異世界に行こうと思うの…。そしたらいつかあなたの生きる時代に追い付けるかもしれない…。いいえ、あなたの知る『私』は既に追い付いているんだもの…。だったら私も行ってはいけない?」
「…それは」
未来に来たらデルフィラは変わってしまう。何が原因かはわからないが、彼女は別人のような冷酷非道な人間になってしまうのだ。
「駄目…よね…。あなたが良いと言えるはずはないもの。ごめんなさい…。今の言葉は忘れてちょうだい…」
「……」
セレンは何も言えない自分が悔しくてならなかった。アルゴスを倒す力を手にしても、結局彼女を幸せにすることはできない。だがセレンがいくらここで彼女を引き留めようと、未来にデルフィラ女王は現れる。だとしたらセレンだけでも彼女との再会を望んでいると伝えてはいけないのだろうか。
「いえ…、異世界に行ってください。そして私に…未来の私に会いに来てください…! 未来であなたがどれだけ変わってしまおうと…私があなたを愛していることに変わりはありません。私はあなたと別れたくはない…。それが私の本心です!」
「…!」
悲しみに沈んでいた彼女の表情が一瞬で明るくなった。その顔を見ていると、自分の返答が間違えていなかったことがよくわかる。
かつてデレンベリアは自ら身を引き、セレストの元に帰ることはなかった。そしてセレストも彼女を追うことはなかった。その決断を間違えていると言うつもりはない。今回のセレンの選択が正しいとも思わない。だが王でも何でもないセレンにできることなど、愛している女性を悲しませないことくらいではないのか。未来がどうであろうと知ったことではない。今の2人は互いに想い合っていて、離れ難いと思っている。それの何が悪いと言うのか。
「…嬉しい…。私、本当に嬉しいの…。だってあなたが私に未来で会いたいって言ってくれたのは…初めてだもの…」
「……意気地のない男でしたね…。すみません…」
思わず謝れば、デルフィラは楽しそうに笑う。
「いいえ…、言ってくれただけで十分…。あなたが未来の私も好きでいてくれるんだって、自信が持てたから」
確かにセレンは今まで未来のデルフィラのことを話題にすることさえなかった。未来と今のデルフィラが同一人物であると確信してからは、どうにか彼女を未来に行かせないようにと必死だった。それはつまり彼女が冷酷非道な人間に変わってしまうことを受け入れてしまっているからだ。だがそれは彼女の本当の姿ではない。それを信じるならば、セレンはあのデルフィラ女王をも愛すべきなのだ。
「私は何があってもあなたを愛し続ける…。前に誓ったもの…」
デルフィラは髪に挿していた髪飾りを手に取る。それは夜の闇の中でもわずかに光を放っていて彼女の顔を照らし出していた。
「私を信じていてね…。それだけで、私は強くなれる。必ず…未来であなたと一緒に平和なミレノアルを…」
その時、彼女の背後で何かが突然蠢いた。
「デルフィラ!」
彼女の後ろから長い髪の毛のような無数の触手が迫ってきていて、セレンはそれをすぐさま斬り捨てる。混乱するデルフィラを抱き寄せると、すぐさまその得体の知れない何かから距離を空けた。
どうやら2人の周りはその触手ですっかり囲まれている。まるで黒い海の中にいるような光景だ。しかしこんなものが迫ってきているというのに気配など何も感じなかった。様子を見ているとその触手の束の中に何かが“見える”。
「これはもしかして…」
それはガレスの王冠によく似ていた。だとしたらこの触手は王冠の魔力を手にして力を増した魔物なのだろうか。
「何か…探してるみたい…。危険な魔物…って感じじゃないわね…」
デルフィラも魔物を気味悪そうに眺めるものの、ただ蠢いているだけのその魔物に拍子抜けした様子だ。しかし魔物の大きさはどんどん増していて、足元は既に足首まで触手で埋まっている。離れても離れても触手は流れてくる水のように2人に迫る。
「どこまで大きくなるのでしょう…。放置はしておけませんね」
セレンは剣を抜くと王冠のある辺り目掛けて衝撃波を放った。その威力は昼間のものより更に強い。しかし触手の海を薙ぎ払う衝撃波もすぐに修復され、王冠の直前で立ち上がった触手によって阻まれる。本当に水を相手に戦っている気分だ。しかもセレンが攻撃を加えたからか、触手はセレンに襲いかかってきた。
「いや!」
デルフィラの悲鳴が聞こえて振り返れば、彼女にも触手は襲いかかっている。セレンは自分とデルフィラに襲いかかる触手を振り払いながら、その動きに違和感を感じていた。
「魔力の強い物に反応している…?」
触手はデルフィラの頭やセレンの手ばかりに迫ってくる。その動きは緩慢で、2人を傷付けようとして襲っている様子はない。むしろ髪飾りと聖剣を奪い取ろうとしているだけのようだ。今でもこの触手の量は恐ろしい勢いで増えている。ここに髪飾りと聖剣の魔力が加われば、このガレスの王都を埋め尽くすほど大きな魔物に成長するだろう。質量もどんどん増していることを思えば、触手に呑まれただけで圧死してしまう。
「デルフィラ。そこの木に登れますか?」
触手は既に腰の辺りまで増えてきていた。デルフィラに至っては胸まで上がってきている。しかも彼女は頭に挿した髪飾りを狙われているだけに、時々触手が波のように彼女の上から覆い被さろうとするのだ。
「この魔物…魔法もほとんど意味がないわ!」
デルフィラは炎で焼き払ったり、衝撃魔法で触手を蹴散らしたりしているが、これもすぐに周りの触手が押し寄せてきて身動きが取れない。セレンは彼女をどうにか木の近くまで連れて行くと、上に押し上げる。デルフィラは手近な枝を掴むとようやく触手から逃れることができた。
「もう…城中に広がってる…」
木の上に登ったことで少し見晴らしが良くなったのだろう。夜の闇の中でも魔物の魔力は見える。デルフィラはその大きさに衝撃を受けたようだ。最早王冠を取り戻すどころではない。
「どうにかしてこの魔物の弱点を見つけなければ…」
こういった不定形の魔物は核を壊さなければ倒せない。そして取り込んだ大事なものは大抵核の近くにあるものだ。幸いガレス王の冠はまだ見える範囲にある。だとしたら核も近くにあるはずだ。セレンは自分の目に魔力を集めた。すると魔力の流れがより鮮明に、立体的に見えてくる。
魔力の流れのその源。それはかなり遠く深い場所にある。歩いて近付くことはおろか、転移することもできない場所。あの場所を攻撃できる手段があるとすれば、高い場所から聖剣を投げつけるしかない。失敗すれば聖剣は奪われ、魔物は更に力を増すだろう。
「本当に…少しは休ませてもらいたいものですね…」
思わず愚痴が漏れた。折角アルゴスを倒したと安心していたというのに、その日の夜にはこんな世界滅亡の危機に直面するなどさすがに酷すぎる。しかしこの魔物は恐らくアルゴスの造った魔法生物。そして力を与えているのはガレス王の冠だとすれば、戦いはまだ終わっていなかったのだと取ることもできる。
「これで最後にしてください…!」
セレンは少しでも上から攻撃するために、デルフィラのいる木に登ろうと手を掛けた。しかし彼が上を見上げたその時、高く持ち上がった触手が木の上のデルフィラを襲う。小さな悲鳴を上げてデルフィラは吹き飛び、触手の海に落ちた。
「デルフィラ‼︎」
手を伸ばしても届く距離ではない。彼女も必死でその手に掴まろうと自分の手を伸ばしたが、一瞬で触手の海に呑まれて消える。
「‼︎…」
セレンに凄まじい怒りが湧いたかと思うと、身体中に魔力が漲り始めた。聖剣もそれに呼応するかのように白い光を放つ。彼は木の上まで一気に駆け上がるとそこから更に上空に飛び上がり、見つけた核目掛けて聖剣を力一杯投げ下ろした。その速さは最早人間の投げた物の速度ではない。重さの助けも借りた聖剣は、矢のように核目掛けて飛んでいった。やがて剣が核まで到達したのか、突然触手が大きく波打ちちぎれていく。セレンが地面に着地する頃には魔物は空気に溶けるようにして消え始めていた。
セレンはすぐにデルフィラが消えてしまった辺りに駆け付けるが、彼女の姿はない。触手が波打った時に何処かへ運ばれてしまったのだろうか。地面で何かが光っていたのでよく見ると、それは彼女の髪飾りだった。
「一体、何処へ…?」
探知の魔法を使っても彼女の居場所はわからない。もしかしたら意識が無いのかもしれない。ひとまず再び同じことが起こらないよう王冠だけは回収しなければならない。立ち上がり、セレンが後ろを振り返ったその時だった。
「⁈……」
胸から背中にまで突き抜けた冷たい衝撃に、見下ろすとデルフィラの悪魔のように笑った顔があった。何が起きたのか、彼はすぐにはわからなかった。彼女はセレンの体に手を付くと、彼の体から何かを引き抜く。
「‼︎」
凄まじい痛みに耐え切れず膝を付くと、勝ち誇ったようなデルフィラの声が頭の上から降り注いできた。
「こんな機会が来るとはな…! 私が潜んでいるとは夢にも思わなかったようだ!」
「……アル…ゴス…?」
彼女の体からわずかに感じる魔力には覚えがあった。何とか顔を上げれば、そこには聖剣を握ったデルフィラがこちらを見下ろしている。頭には王冠が輝いていた。
「王冠のみを取り戻して再起を図るつもりであったが、まさか貴様に気付かれるとは…。どうにか逃げ果せないものかと機会を窺っていたが、絶好の機会に貴様が剣を手放した。失敗作も時には役立つものよ!」
デルフィラは顔を歪めて高らかに笑う。それは未来で見た彼女の顔そのままだ。
「あなたが…デルフィラを変えてしまったのですか…? そうとも知らずに彼女はずっと…!」
セレンは怒りに魔法を放とうとしたが、相手はデルフィラだ。アルゴスは彼女の体を恐らく乗っ取った。だが彼女は死んだわけではなく生きている。傷を負わせるわけにはいかない。
「攻撃できぬか? そうであろうな。…私はあくまで娘の人格の一部。それ以外は娘そのものだ。取り戻したければ死なせないことだ」
手を差し出した姿勢のまま動けないセレンを見て、デルフィラは本当に楽しそうに笑みを浮かべた。彼女の手にある聖剣もその言葉を聞いて思い留まったのか、迸り始めた冷気が静かに収まっていく。
「しかし今の貴様に娘を取り戻す余力があるものか…。同種の力を持つ剣に心臓を刺し貫かれてまだ生きているとは思わなかったがな?」
「くっ…」
彼自身も驚いているが、確かにこの傷は人であれば致命傷だ。いくらミレノアル人でもこの傷で生き続けることは難しい。血も物凄い勢いで失っている。意識もあまりはっきりとはしないが、それでもまだ生きている。デルフィラはセレンをじっと見つめていたかと思うと、聖剣を持ち上げた。
「なるほど…、これか…」
何を思ったのかデルフィラは聖剣の刃を握り込んだ。そして握り潰すかのように力を込める。
「貴様は自分が何をしたのかよくわかっておらぬのだろうな? だから説明してやろう。貴様とこの剣は最早同一の存在。どちらかが生きている限り滅びはせぬ…。だが片方の消耗は両方の消耗を呼び…、いずれどちらも滅ぼされることになる…!」
デルフィラの手が輝き、同時に聖剣の刀身にもヒビが入っていく。頭の中でヘイムの苦しむ声が響き、それに伴いセレンの体にまでバラバラに砕かれるかのような痛みが伝わってくる。セレンは力を振り絞って立ち上がるとデルフィラの手から聖剣を奪い返し、剣を抱き抱えるようにして一気に転移した。
後に残されたデルフィラはまさかセレンにそこまでの力が残っているとは思わなかったのだろう。一瞬唖然としていたが、やがて冷笑を浮かべて自分の手を眺めた。
「…逃げたか…。まあ、良い。そろそろ時間切れのようだったからな…」
デルフィラはそう言うと、突然その場に泣き崩れた。




