あの頃の残滓(4)
※途中でお食事中の方が不快になる描写がございます。あらかじめご了承ください。
──────
目の前に差し出した【ジン・トニック】を、男は一口含んだ。
自信作だ。分量のミスはないし、作業も正確にできた。
少なくとも、今の段階でどこかを間違ったはずがない。
だというのに。
「お前のカクテルって、つまんねえんだよな」
「え?」
薄暗い照明が落ち着いた内装を照らす、狭く陰湿な空間の中。
常連の──さんは、明らかに顔をしかめてそう言った。
その意味が分からなくて、俺は接客の笑顔も忘れて呆然とする。
飲み物の評価なんて、美味い不味いしかないだろ。
「それは、お前がつまらない人間だからだ」
「……すみません」
とりあえず、俺は怒られているのだと思って謝った。
時間はおそらく三時過ぎ。狭いと言っても、カウンターはガラガラ、ソファー席も空いている。店には既に客は──さんしかいない。
俺の隣には先輩の──さんが立っているが、俺に会話の練習をさせたいとばかりに、黙っている。
意味が分からない。
仮に俺がつまらない人間だったとして、だからなんだと言うのか。
「つまらない人間の作るものが、つまらないのは当たり前だろ?」
「……そうでしょうか」
「そうだね。少なくとも、お前のカクテルはだから、つまらない。お前の人間らしさがまるで感じられない」
意味が分からない。
「お前、ここで働いてもう二ヶ月は経つだろ?」
「はい」
「だったら、もう少し打ち解けてみても良いんじゃないか?」
「えっと?」
カクテルを貶してから一転。
──さんは俺を少しからかうような笑みを浮かべた。
「例えばさ。お前の好みの女性のタイプはどんなだとか」
その笑みが、気持ち悪い。
「お前童貞だって言うじゃん? でも女には興味あるんだろ? バーテンダーやってるくらいだし」
「……興味ないわけじゃないですが」
気持ち悪い。
「じゃあ、店の常連さんで良いなって思う人とか居ないのか?」
「……いえ、カウンター隔ててると男とか女とかあんまり」
気持ち悪い。
「というのは建前だろ。誰がタイプとかなら思うだろ」
「……いや、お客さんって年上のお姉さんばかりですから。自分なんか」
気持ち悪い。
「なに、年下趣味ってわけ? じゃあお前、働く場所間違えてるだろ。良い大学出たんだから塾講とかそういうのが良いんじゃない?」
「……良いんです。自分は今、お酒の勉強がしたいんです」
気持ち悪い。
「……はぁ。また、なんでそうやってつまんねえこと言うかな。……勉強ねぇ」
──さんは、じっと俺を見据えた。
それから、時計を確認する。
ふむ、と頷いて彼は先輩に尋ねる。
「──くん。もうそろそろ閉店だし、それまで夕霧を借りて良い?」
「大丈夫ですよ」
俺の了承など始めから取るつもりもなさそうに、彼らは決めた。
俺は──さんの隣の席に座らされる。
サロン(サロンエプロン)も取り外したし、本当に仕事はもう良いようだ。
「ま、とりあえず、飲め」
「はい、頂きます」
そして俺は、──さんに奢ってもらって、先輩の作る大量のカクテルを飲んだ。
勉強だから、好きなだけ飲めと──さんは言う。
そして、飲んで飲んで、飲んだ。
気持ち悪くて、それでも、奢りのお酒を残すわけにはいかない。
だから、飲んで、飲んで────。
「ぅおぉえぇぇぇぇえええええぇ」
便器に大口を開けて、ひたすら胃の中のものをぶちまけた。
頭がぐわんぐわんして、視界がグルグルして、ただひたすらに気持ち悪い。
胃から迫り上がってくる溶岩の固まりを、無理に吐き出す。その度に喉が焼けるようだ。
しかしそうせずには居られない。それを押しとどめておける余裕がない。
俺の体の中で増殖する気持ち悪さを放っておけば、それはやがて俺の体の容量を越えて破裂してしまうのだ。
「ぉうぇえっっゲホッゲホッ」
ときどき、喉が俺の行動を阻止せんとむせる。
しかしそれでも、体は強硬に中身をせり上げる。
喉と腹筋と、あととにかく色んな所が痛い。苦しい。気持ち悪い。
ただただ便器に抱きついて、体の中から溢れてくる液体を吐き出す。
飲む前はあんなに綺麗だった液体は、俺の中で混じり合って黒く塗り潰されている。
そんな感想もそこそこに、俺はまた体の中から現れる異分子を吐き出した。
胃の中のものを吐き出し切ったのか、まだまだ気持ち悪さは残るが、大分体が軽くなっていた。
とはいえ、小康状態になったに過ぎない。
閉店時間が来て鍵のかかった店内。ソファー席に横たわって、ただただ時間が経つのを待っている。
ソファー席のテーブルに、ことりと水の入ったグラスを置きながら、先輩が言った。
「大丈夫か、総」
「……大丈夫です」
「いや、あんまり大丈夫じゃないだろ。顔真っ青だぞ」
言いながら、先輩は俺の額にひんやりとしたおしぼりを乗せる。
その途中、先輩の指が触れた。
今の俺からすれば、信じられないほどに暖かかった。
「悪いとは思ったんだが、良い機会だと思ってな」
「…………」
「自分の限界、嫌ってほど分かっただろ? ウチはあんまり上品な店じゃないから、飲ませてくるお客さんも居る。断らなければ売り上げに繋がるけど、それで仕事が出来なくなったら問題だ。だから、限界を知っておくのは大切なんだ」
「……はい」
酔ってぶっ倒れている新人に、仕事の話なんて。
と、思いはしても口には出さない。
俺の悪態を知ってか知らずか、先輩は仕事の感じではない、優しい声で言った。
「……あんまり、気にすんなよ」
「……はい?」
「カクテルがつまらないとか、そういうの。お前はまだ、新人なんだから」
「…………」
それから、先輩は伝票の整理をすると言って俺から離れた。カウンターに座って、伝票をまとめたものと、電卓を手に格闘を始める。
俺は、気持ち悪いやら悔しいやらで、唇を噛みしめつつ額のおしぼりを取ろうとする。
そして、額に触れた自分の指が、先輩とは違ってどうしようもなく冷たかった。
いや、本当に指が冷たいのか?
俺は指をすっと、自分の頬に当てる。
指なんかよりも、ずっとずっと、自分の頬が冷たく感じられた。
まるで、いつか触った、あいつの頬のようだった。
作り物めいた、人ではない何かの冷たさだった。
瞬間、俺はふっと理解してしまった。
今、俺は死んでいるのだ。
俺が作ったカクテルは、死人の作ったもの。
死人から人間らしさなんて、感じられるわけがない。
「……………………」
そう考えると、気が楽になる気がした。
俺は頭にこびりついた、あいつの笑顔だけを頼りに動いている。
どだい無理なのだ。ほとんどヒントのないカクテルを探し求めるなんてことは。
そんなことは諦めて、死人は死人らしくさっさと──。
『ダメだよ』
そう考えたとき、頭の中の伊吹が笑顔で首を振った気がした。
それ以上は、ダメだと。
死ぬのはまだ早いのだと。
「…………気持ち悪い」
この気持ち悪さも、死んだらきっと味わえないものだ。
ならばこれを、俺が勝手に手放して良いわけがない。
そんな選択を、あいつは許してくれないだろう。
「……──さん」
「ん?」
自分の口から、信じられないほどか細い声が出た。
先輩はそんな俺の言葉も聞き逃さず、こちらへ振り向いた。
俺は無理に頭だけ起こして、先輩にまっすぐ尋ねた。
「カクテル、美味しくなるにはどうすれば良いですか?」
働いて二ヶ月経って、初めて聞いた質問だった。
カクテルの作り方は教えて貰っていたし、コツなんかも聞いた。
だが、そうやってはっきり聞いたことは無かった。
自分のカクテルが、不味いのだと、心から認めたことはなかった。
先輩は少し考え込んでから、ふっと笑みを浮かべる。
「まず、お前がカクテルを好きになること」
先輩の答えを、一言一句逃すまいと俺は耳を皿にする。
「お前がカクテルを好きになる。すると、その好きに釣られてお前は練習を頑張れるようになる。そうなると、今度はお前のカクテルが好きな人間が増えてくる。で、最終的には、お前のことを好きになってくれる人も増えてくる」
最後のは良く分からないけど、それ以外はなんとなく分かる気がした。
今の俺は、ただ正確に分量を計って、作業をこなすことしか考えていない。
それじゃきっと、ダメなんだ。
「バーテンダーのカクテルは、名刺と同じだ。カクテルはお前自身。お前が自分を嫌ってたら、誰がお前のことを好きになってくれるんだ?」
先輩の言葉で、唐突に俺は自分の温度を思い出した。
びっくりするほど冷たいと思った、ソレは。
死人の温度じゃない。カクテルの温度なんだ。
氷に冷やされた、あの液体の温度。俺は大量の酒を飲んだから、カクテルになってしまったのだ。
自分が酔っていると自覚しつつ、その答えでなんだか納得してしまった。
そう納得したとき、俺は先輩の言葉がすとんと胸に落ちてきたのを実感した。
「……──さんは、新人のころ、どれくらい練習してました?」
「暇なときはずっと、かな」
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
そう言って、先輩はまた伝票の仕事に戻った。
俺は、ぐったりと体を横たえながら、じんわりと体に熱が戻ってきたのを感じる。
カクテルから、だんだんと人間に戻ってくる。
先輩がそうなら、俺はその倍は練習しないといけない。
暇な時はずっとじゃない。暇な時を作って、練習するんだ。
そして、今よりもずっとカクテルを好きになって、カクテルが美味しくなって、カクテルが分かるようになって。
そしていつか、あの日の伊吹の言葉に、戻ってくる。
「そういや、今聞くのもあれだけど」
先輩は伝票の整理を終えたところで、ニヤリと俺に向かって尋ねてくる。
「俺の作ったカクテル。どれが一番好きだった?」
今は、酒の味なんて思い出したくもないけれど、思い出したらまた吐きそうだけど。
先輩の楽しそうな笑顔に、文句を言えるはずもなかった。
──────
「……思い出した」
どうして忘れていたのだろうか。
俺が、カクテルとちゃんと向き合うと決めた日のことを。
──伊吹に関する記憶は、どうやら完全に戻ったわけではない、ということか。
「……先輩の言葉。あの時は最後、意味分からないと思ったんだけどな」
カクテルが美味くても、俺のことを好きになる人なんていない。
そんな物好きは、伊吹だけで充分だ。
その思いは、結局日本に居たころは覆されず、異世界に来て覆されたのだ。
なんとも数奇な運命だと俺は格好つけて思ってみた。現実逃避と言うかもしれない。
「……さて、顔洗って、練習でもするか」
夢を見たからではないが、今日の練習は一段と気合が入るだろう。
そう思って、起き上がろうと手を付いたところで。
ピキリ、と腕の筋肉が悲鳴を上げた。
俺は咄嗟に付いた手を離し、しばし呆然とする。
どう考えても、昨夜、格好つけた代償であろう。
「…………」
俺はその痛みを、強がりで認めることはせず。
意思の力で強引に起き上がった。
夢の中で腹にたまっていた気持ち悪さは、いつのまにか消えていたのだった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
昨日は更新できず申し訳ありませんでした。
明日も更新して、以降はまた隔日ペースに戻る予定です。
※0315 表現を少し修正しました。




