第02話 異世界への備え
俺の名前は、藤井直也。
この学校で、日本史を教えている。
今年で、三十二歳。彼女はいない。
「おい、落としたぞ」
二年生が修学旅行中だからか、いつもより騒がしさの少ない昼休み。
廊下を歩いていると、すれ違った男子生徒が何かを落とした。
「えっ!? ……あっ!?」
ワイヤレスイヤホンだ。
どうやら片方だけ落としてしまったらしい。
「歩きながら、音楽を聞くのはちょっと感心しないな」
「ははは……。すみません」
男子生徒はバツの悪そうに笑いながら身を屈め、ワイヤレスイヤホンを拾った。
その瞬間。
彼の胸ポケットから、何かが滑り落ちた。
「……おい」
カラン、と軽い音を立てて転がったそれは、百円ライターだった。
別に、喫煙くらいでとやかく言うつもりはない。
俺個人としては、自己責任だと思っている。
だが、教師としては見過ごせない。
せめて、もう少し上手く隠せ。
「ち、違うんです! せ、先生!」
「いやいや、違わないだろ」
慌てふためく男子生徒を前に、思わず深くため息をついた。
ただ、意外だった。
見た目は、普通の男子生徒だ。
むしろ、喫煙なんてするようには見えないタイプだった。
生徒をこういうのもなんだが、いわゆる『陰キャ』寄りに見える。
「ほ、本当に違うんです! い、異世界転移に備えているだけなんです!」
「……はあ?」
意味がわからなかった。
隠すのが下手なら、言い訳まで下手なのか、と内心で呆れた。
男子生徒が必死に叫ぶものだから、周囲の視線がじわじわと集まり始めていた。
「とりあえず、ここで話すのもなんだ。付いてこい」
「……はい」
俺は百円ライターを素早く拾い上げると、返事を待たずに歩き出した。
******
「僕は、真剣なんです!」
「真剣に考えて、これか?」
進路相談室も兼ねた、歴史科教員室。
問題の男子生徒は、熱いやつだった。
もう十分ほど、異世界転生、あるいは異世界転移についてを途切れず語っている。
「そうです! 先生も歴史を教えているんだから、知ってるでしょ?
人類の歴史は、火から始まりました! 火こそ、文明の証なんです!
そして、百円ライターは、いつでも手軽に備えることができるアイテムなんです!」
この分なら、生活指導の先生に報告するまでもないだろうと判断した。
その証拠に、この部屋に入った瞬間、『タバコ臭っ!』と鼻をつまんでいた。
この部屋を共有するもう一人の老教師は、ヘビースモーカーだ。
白いカーテンがベージュ色に変わるほどである。
今日は神経痛で休んでおり、不在だった。
「んーー……。異世界転移に備えるなら、まず身体を鍛えたほうがいいんじゃないか?」
一応、教師として相談には乗ってやる。
進路指導も俺の役目だ。
「大丈夫です! 何やかんやで、チートがあります!」
「じゃあ、知識は?」
「マヨネーズ! オセロ! 石鹸! ばっちりです!」
「いや、語学力とか。言葉が通じなかったら苦労するぞ?」
「何を言ってるんですか! 異世界でも日本語が通じるのは、お約束です!」
あっという間に、面倒くさくなってきた。
それに、腹が減ってきた。
そもそも俺は、昼飯を食べにここへ戻る途中だったのだ。
「……お前、現実的に備えているんじゃなかったのか?」
「というか、先生。
案外話せますね? さては異世界もの、好きですか?」
しかし、男子生徒はまだ語り足りない様子だった。
俺は、失敗だったと自覚し、ため息をつく。
背もたれに体を預け、両手を頭の後ろで組む。
「日本のほうが、断然に良いと思うけどな」
「どこがですか! この行き詰まった社会のどこが良いっていうんです!」
背後の窓から見える、高い秋の空を見上げようとして気づいた。
パーテーションで仕切られた向こう側。
来客用応接セットの影に、スカートの裾が見えた。
「んーー……。安全だし、いざとなったら生活保護もあるだろ?」
「夢がない!」
わざわざ立ち上がって確認するまでもない。
ここに入り浸るなと、何度言っても聞かないあいつだ。
俺は頭をかき、空を見上げた。




