第10話 飛んでない
「誰だって、美味いものは食いたい。
おしゃれもしたい。毎日、風呂に入りたい」
そこまで言って、ふとカップの中身を見る。
もう一口で空になりそうだった。
もう一杯、コーヒーを飲もう。
そんなことを考えながら、俺は淡々と続ける。
席を立つ。
「今、それを当たり前にできるのは、前線で戦ってるやつらだけだ」
本棚のインスタントコーヒーの瓶に手を伸ばす。
一振り。
二振り。
三振り。
「自分で稼いでる以上、その範囲でどれだけ贅沢をするかは自由だ」
ポットからお湯を注ぎ、スティック砂糖を一つ落とした。
砂糖がゆっくり沈んでいくのを、無言で眺める。
それから、スプーンを入れてゆっくりと混ぜた。
「なら、稼げない者はどうするか」
カップを鼻先に寄せ、湯気の熱をわずかに吸い込む。
そこに混ざる香りを楽しむ。
思わず小さく頷く。
席へ戻る。
「強いやつに、頭を下げるしかない」
ギシリッ、と椅子が鳴った。
呼吸をひとつだけ挟んでから、告げる。
「男なら太鼓持ち。女なら……。まあ、分かるな?」
ひなたは、目を大きく見開いた。
まばたきすら忘れたように、視線だけが揺れる。
何か言いかけて、結局それを飲み込んだ。
「……というか、生存本能だろうな。
命を賭けて戦っていれば、そういう衝動は必ず出る」
コーヒーを一口、啜る。
カップの縁に口をつけたところで、一瞬だけ手が止まる。
今まで幾度も味わってきたはずのコーヒーが、今日はやけに苦く感じた。
喉を落ちていく熱に、わずかに目を細める。
昔の記憶が、ふと頭をかすめた。
「利害の一致だ」
もう二度と会えない彼女。
ずいぶん泣かせてしまった。
今は、幸せでいるだろうか。
「治安が乱れるのは、こちらとしても困る」
いや、あいつは頼れる良い男だ。
きっと彼女と、うまくやっているだろう。
「折を見て、その手の組織を作るよう校長に言うつもりだ」
そこまで考えたところで、ふと気づく。
空気が、変わっていた。
「……先生も」
「んっ!?」
いつの間にか、天井を見上げていた視線を戻す。
その先に、ひなたがいた。
唇を尖らせたまま、じっとこちらを睨んでいる。
「先生も、そうだったの?」
「……何がだ?」
一瞬だけ目を合わせて、それから視線を逸らした。
コーヒーに口をつけ、ゆっくりと飲み下した。
「先生も、女の人とそういうことしてたの!」
ひなたが立ち上がり、机を叩く。
その音に、強い既視感がよぎった。
そっくりだ。
彼女も、俺が朝帰りすると、ああやって怒っていた。
しばらくは手がつけられなかった。
「お、おい、待て。は、話が飛んでるぞ」
いや、おかしい。
自分のことは、何も言っていないはずだ。
そもそも、俺とひなたは、教師と生徒の関係でしかない。
俺の過去に何があったとしても、関係ない。
「飛んでない! 私の中では重要なんだってば! どうなの!」
バンッバンッバンッ、と机が叩かれる。
反射的に、体が引いた。
椅子が後ろに滑り、キャスターが音を立てる。
やはり、おかしい。
なぜ、俺は責められているのか。
どうして、俺は怯えているのか。
これは彼女のせいで、身体に染みついた条件反射に違いない。
そう考えるのが、一番合理的だ。
「い、いや……。まあ、その……。うん」
言葉が妙に詰まる。
ひなたの目を、真っ直ぐに見返せない。
「信じられない! 先生の馬鹿!」
ドンッ、と拳が机を叩く。
ひなたはそのまま部屋を駆け出していった。
扉が勢いよく開き、そして閉まる。
反動で、わずかに隙間が残った。
静寂が戻る。
「……言いたいことは、伝わったよな?」
誰にともなく呟く。
やはり、説教なんて柄じゃなかった。
椅子にもたれ、暗くなり始めた空をぼんやりと見上げる。
深く、ため息をついた。




