親友
その場所は、陽の光すら立ち入ることを拒まれた、静寂の檻であった。
王城の最奥に位置する「禁書庫」。国王の許可なき者は足を踏み入れることすら許されず、幾重もの厳重な警備と結界に守られたその空間に、カツン、と幽かな靴音が響く。この禁忌の書庫へ、唯一、自らの意思で自由に出入りすることを許された人物――王国最高峰の魔術師であり、五人の執行者の1人。そして一千年の時を生きるダークエルフ、シルフィエルであった。至高聖樹に設えられた自室と、この禁書庫。シルフィエルはその二つの空間を、独自の「転移ゲート」で繋ぎ、一歩も外に出ることなく行き来していた。
シルフィエルは、極度の人見知りであった。それだけではない。人間関係においては、病的なまでに後ろ向きな歪んだ認知を抱えていた。一千年という長い歳月が彼女の心を硬く閉ざしてしまったのか、人前に出るとおどおどとして言葉が喉に詰まる。それどころか、他人が向けてくる好意的な視線すらすべて「自分を品定めする悪意」に感じられ、優しい微笑みは自分を蔑み、嘲笑っているようにしか見えないのだ。だから彼女は引きこもる。誰もいない禁書庫の隅で、本の世界にそっと魂を埋めるようにして生きていた。
そんな彼女の頑なな心の殻を、文字通り「粉砕」した存在がいた。
「シルフィエル! やっぱりここにいたのね!」
静謐な空気を撥ね退けるような、鈴の鳴る声。現れたのは、第一王女、エレオノーラ・アイザック・フォン・ヴェルダントであった。彼女は子供の頃から読書が大好きで、国王の許可を得てこの禁書庫に頻繁に出入りしていた。そして、天真爛漫で無邪気、どこまでも人懐っこい幼女だったエレオノーラは、この場所に佇む生きた伝説に出会ってしまった。
いつもなら、一千年の威厳と冷徹な魔力オーラで人を寄せ付けないシルフィエルだが、子供のエレオノーラには一切通用しなかった。それどころか、好奇心旺盛な少女は「世界最高峰の魔術師様だ!」と目を輝かせ、シルフィエルがどんなに冷たくあしらおうとも、視線を恐れておどおど逃げ回ろうとも、しつこく、しつこく、影のように付きまとったのだ。悪意に塗れていたはずのシルフィエルの世界に、エレオノーラという純粋な光が、強引に風穴を開けた瞬間だった。
いつしか、シルフィエルはエレオノーラに高度な魔導の深淵を授ける魔法の先生となったが、次第にその立場は、エレオノーラが完全に上となる。圧倒的にシルフィエルの方が年上だが、その関係性はしっかり者の姉と引っ込み思案で我が道を行く妹のそれであった。
「……また、勝手に入ってきた」
シルフィエルは大きな本に顔を半分埋めたまま、おどおどとした視線をパチパチと泳がせた。彼女が纏う、最高級の漆黒の魔道服。その腰元には、ひどく不釣り合いで大きなサイドポケットが、本人の不器用な針仕事によって無理やり縫い付けられている。そのポケットからは、一匹のピンクのうさぎのぬいぐるみが、ちょこんと顔を覗かせていた。
「一人で捜査に行ったり、人がいる場所に行くのが怖いなら、お守りにこれを連れていって!これを私だと思って一人じゃないって思うのよ」
かつて、エレオノーラがそう言って笑いながら手渡してくれた贈り物。シルフィエルは怖くなると、いつもポケットの中のぬいぐるみを指先でぎゅっと握りしめる。事情を知らぬ周囲の捜査官や貴族たちは、畏怖すべき魔道士のポケットに潜むその布塊を見て、「あれはエルフの秘術で操る、おぞましい使い魔に違いない」と勝手に勘違いして恐れていたが、シルフィエルにとっては世界で一番安心できるお守りだった。
「聞いてシルフィエル。私、今日の閣議決定で、お父様から次期国王に内定されたの」
エレオノーラが弾んだ声で報告する。王国の歴史を揺るがす大事件の報告だというのに、シルフィエルは「へー、そうなんだー……」と、本のページをめくりながら生返事を返すだけだった。
「もう! シルフィエル! 人の話はきちんと聞きなさいって、いつも言っているでしょう!」
ぷっと頬を膨らませ、実の姉のように腰に手を当ててお説教を始める王女。シルフィエルはびくっと肩を揺らし、しぶしぶと重い本を閉じると、おどおどと上目遣いでエレオノーラを見つめた。
「……おめでとう、エレオノーラ」
「ふふ、ありがとう。私、国王になったら、この歪んだ差別社会である国を変えたい。魔力を持たない平民も、獣人も、みんなが手を取り合って、笑い合える国にしたいの。絶対に、変えてみせるわ」
熱っぽく、純粋な希望を語るエレオノーラ。しかし、シルフィエルは「国事」や「政治」というものには一ミリの興味もなかった。彼女が愛するのは、美しい魔導の数式と、本の中の甘い物語だけだ。
「ふーん……。がんばって」
シルフィエルはすぐに興味を失ったように、再びパサリと本を開き、活字の海へと逃げ込もうとする。だが、その長い睫毛がわずかに伏せられた。彼女は本の陰から、ポケットの中のウサギのぬいぐるみをそっと指先で掴み、消え入りそうな小さな声で、ぽつりと呟いた。
「……でも、気を付けるの……」
「え? 何か言った?」
「……なんでもない。本読むから、あっち行って」
シルフィエルは耳まで赤くして本で顔を完全に隠してしまった。エレオノーラはくすくすと楽しそうに微笑むと、自分の衣服の胸元にそっと手を当てた。そこには、服の裏側に隠されるようにして、美しいペンダントが揺れている。人見知りのシルフィエルが、エレオノーラの身を案じて作り上げた、世界にたった一つだけの強力な防護の魔道具。それはエレオノーラの宝物であった。
「またね、シルフィエル」
とびっきりの笑顔でシルフィエルに声を変えて、エレオノーラは禁書庫を後にした。




