えっ、マジですか。
視界一杯に迫るはずの、かぎ爪。
その一本が、かきぃん、と。
音を立てて、弾き飛ばされるのを、
平凡な魔族は、へっぴり腰を地べたに押し付けたまま仰ぎ見る。
「へ?」
くらりへらりと、
その爪一本。剥がれたらしいソレ。
宙を舞った、と思ったら、
続いて、
「へあっ!?」
眼前間近に、唐突ながら。
魔力が収縮された証である、魔方陣が形成されていた。
目と鼻の先、触れるほどに近いところ、
地面ではなく、何故か空中に、
魔力を帯びた古代文字が……、真ん丸円の中で、
左右対称に配置されつつも光を放ち、じわじわと
時計回りに動きながらも浮かんでいる。
当然ながら、この複雑模様の魔方陣、
平凡な魔族が発動したものではない。
「こ、こりゃあいったい……」
眼を大きく瞬きつつも、
魔族はじっと、この怪現象を見透かした先にある、
キルベアの様子を確かめる。奴でもないだろう。
片腕を持ち上げたまま、動揺しっぱなしであったが、
唸りながらも、その場から逃げようとはしない赤目の魔物。
平凡な魔族でさえも腰が死んでさえいなければ、しっぽ巻く状況であるが……、
キルベアは、その堂々とした体躯だからこそ、
その場に留まったのかもしれない。
理路整然と考え至ることはないが、
王者としての本能も、あるにはあるのだろう。
冥土の森でのキルベアは、魔物の上位に位置づけられる。
したがって、食べ放題飲み放題の、この悠々自適の生活に、
まさか、刃向う奴がいるとは、などと考えも及ばず、
脳がこう着状態なのかもしれなかった。
あるいは、獲物への執念深さゆえか……、
キルベアは食べ物に対する執着心が強いという。
実際、警戒心を露わにはするが、
視線を、魔方陣の向こう側にある、
すっかりへっぴり腰の魔族から外そうとはしなかった。
ぎょろり、と。魔方陣越しに睨まれる。いや、吸い付くように、
目線を離さない。魔物のこの異様なさまに、
平凡さんは、喉の最果てから、ひきつるような声を出そう、として、
出せなかった。顔面はすっかり岩みたいに表面が硬くなってるし、
体は動かせない、おまけに腰は及び腰ときたものだ。
武器になるようなものはないし、放り投げっぱなしの道具袋が可哀そうなほどで、
できるのはただ、魔方陣と魔物に挟まれた現在の状況を、
乾いた裸眼で見続けるだけ、である。
蛇に睨まれたカエル状態。
魔方陣はぐるぐると目の前で回るだけだし、
キルベアにとっては、爪がなぜか一本失われたぐらいで、
現状の餌が消えるわけではない。
静寂だけが支配する場で、獣の呼気が時折、響く。
やっぱり、死ぬ。
死ぬ、しかない……。
なんだよ、この状況。
ちっとも、何も変化がないではないか。救いがない。
嗚呼、実家の父さん母さん、可愛いわが子を千尋の谷どころか、
冥土の森に無情にも見捨てやがって。化けて出てやるぞ、
コンチキショー。
「おいおい、まだ、諦めないのか?」
男の声だ、それも若い、と把握した途端、
びくっ、と体中を跳ねさせるのは魔族。
「キルベア、だったか……、
ずいぶんとわかりやすい名前、してんだな」
はっきりと滑舌よく話す調子、
彼の声は、基本粘つくような魔界の空気とは異なり、
いっそ爽やかである。
腰は動かないので首だけ回し、
彼の姿を一目見ようと、声がしたはずの斜め後方を振り向く。
と、そこには。
「あれ?」
いない。
あるのは、腐ってるとしかいいようのない、腐敗臭の果物ばかりが、
ぶら下がった大木である。
疑問、と、ドキドキと不安に脈動する心臓を持て余したとき。
「ぎゃあああああああ」
「ひいっ」
とんでもない咆哮に、
思わず頭を両手で丸め、目をつぶったが、
すぐに臭い立つ、この、鉄の、どこか嗅いだ覚えのある匂いにつられ、
ゆっくりと、顔を上げる。本当に、少しずつ。恐怖は、いまだに
腹の底にくすぶっているが、この妙な静寂具合に押されたまで。
「な……」
驚いた。
そこには、魔物であるキルベアが、大きく袈裟切りをされ、
横たわっていた。
いや、今から倒れる瞬間であった。ちょっとだけ浮かんでいるのだから、
もう、バタンキューと墜落するのみ。
「……倒れた」
地響きをたて、宙を舞う、血潮。
先ほど飛んでいたはずの爪は、すでにどこかへ
混じりあってしまい、どこに落下したかわからない。
それぐらい、場所を占拠したキルベアの巨体が、
大木と大木の間に横たわっていた。
あんぐりと、口を開けるしかなかった。
もしかしたら自分がこうなっていたのかもしれない、光景。
さらに、
「あっ」
魔方陣が、すうっ、と煙のごとしに消えたのである。
これは、どういうことか。
魔方陣とは、やっぱり魔法であるからして、術者がいる。
魔法を、唱えた存在が、いるはずである。
まさか、キルベア?
いや、まさかのまさかだ。
いくらなんでも、こんな理性のない魔物が、
魔法という、高度な技術を扱えるわけがない。頭脳がなければ、
発動すら不可能なのだ。
ふるふると首を振って、鉄の匂いのする血肉に目をやる。
もしかしたら自分がそこに絶命もせず、虫の息でいたのかもしれないと思うと、
ぶるぶると震える。今更ながら、体が怯えだしたのだ。
「くくっ」
笑い声がした。
ぎょっとして、笑い声の主を見定めると。
いつの間やら……、
キルベアの隣で、いや、私のほうに向ってくる、
男がいた。
少なくとも、私よりもガタイがよく、
それでいて、精悍な顔立ちの人だ。
そう、
「な、なななっ」
「なが多いな」
「ななななな」
ちょこざいな言い方もさまになる、
そんな空気を持つ男だった。
長い黒髪をゆるく縛り、背に流しているが、
動くたびに艶やかに照り返しは、丁寧に磨いているのがわかるし、
妙に鋭い青の眼差しを持つ彼には、
その漆黒の一房がよくよく似合っていた。
それに、褐色の肌も素晴らしくマッチしていて、
外出を好んでしているのか、と思われるほど、
ほどほどに日に焼けているけれども、ダークエルフほどではないし、
鎧から伸びている二の腕のもむちむち具合から、
筋肉がそこそこにあるのがわかるし、
武器である剣を腰に据えているあたり、
普段から武勇でも鍛えた体であるのだろう。
以上のことから、やっぱり彼が、キルベアを倒した強者らしい。
他に誰もいない。
少なくとも、平凡な私ではない。勝手にキルベアは死ぬわけがないし。
それに、もっとも驚愕すべきは、
「な、なな、なんで」
「なんで?」
「なんで、に、」
五体満足でいるこの種族は、そう滅多に、
冥土の森にいられない。
全身が鳥肌立つ。
「人間が、ここにいるんだっ!」
無礼に人差し指をつきつけてもなお、余裕しゃくしゃくで、
白い歯見せて豪快に笑う男。
魔族からしてみれば、不気味なことこの上ない。
「ぶふっ、くくくっ」
「な、わ、笑いごとかっ!」
激昂した。
そう、奴は、
どっからどうみても、
人間、
であった。
ひとしきり大笑いしたあと、たちまちに生真面目な顔をとる。
「ぷ……はぁ、」
―――――青い瞳が、すっと、魔族を見据える。
「そう、俺は、確かに……、
人間だよ」
彼は、どこからどう見ても、
ヘタレな魔族を見下ろしてくる不躾な、人間である。
それも、浮世離れをした、人間。
彼は、微笑む。
青い目を細め、柔らかく。
その姿は、見目の良さもあるが、
見事な鎧と豪奢なしつらえの武器を携えているため、
どこか、英雄の絵画のように品があり……、
悔しくも見惚れた。
彼は、ずいぶんと見てくれが良すぎた。
たちまちに、そんな自分に苛立ちを覚え、目を合わさずにいたが。
平凡で、上官によって死地に追いやられたヘタレ魔族が、
出会った人間の男。いったい、何者なのだろうか。
このときはまだ、しょぼい魔族自身も、今後、
夢にも思わぬとんでもないことに巻き込まれようとは、
露ほどにも思わなかったのである。




