イヤリングは忘れていませんよ?
眩い朝日はすっかり鳴りを潜め、
いつの間にやら薄暗い昼になっていた。
これは魔界の現象のひとつで、
朝だけが明るく、昼以降は暗くなる。
だから、魔族は大抵、昼以降から起きだし、活動を始める。
魔物も然り。だが、例外的な奴もいるにはいるし、
別に朝型魔族がいても問題はない。単に、
そういったサイクルが、魔族にとっての日常である、
ただそれだけのことである。
「しかし、困ったな」
私は、手元にある道具袋の中身を確かめていた。
実家から、問答無用で手渡されたそれ。
腹も減ったし、どうせ大したものは入っていないだろうと
思っていたが、期待していた通りに、
「やっぱり、大したものはなかったな……」
食糧が、干し肉三枚しかなかったのであった。
それも、剥き出し。
「せめて、何かに包んでおいてくれよ……」
まあ、魔族だし。
というのが、常套句になりやすいのも、魔界の特徴か。
他、寝間着とか、時計、毛布など、
眠るためのものばかりが顔を出す。
僅かな期待でしかなかったが、肩を落とした。
やっぱり期待は、ほんのちょっとでも、すべきではなかった。
途端。
ぐぅ、と。
いささか、健全の働きをしてしまう腹部を片手で抑える。
「むむ……まずいな……」
なんせ、冥土の森、真っ只中である。
迷いの森なのだ。
どこに食べ物があるのか、実に広い深淵地帯のため、
正直どこに何があるか不明である。
そもそも、そこいらに生えている木々にぶら下がっている
カラフルに気色悪いマダラ模様のそれ、
食べられる気がしない。鼻を近づけると、肉の腐った香りがする。
「くせぇ……」
酸っぱい匂いがするのは、平凡魔族の私が根元に吐き出した
吐しゃ物のせいだが、いかにも私は被害者、
とばかりに眉間に皺を寄せ、その場を離れた。
「……どこもかしこもか……」
きょろきょろと大木の隙間を縫うようにして歩くが、
いずれも、あのフルーティとはいいきれぬ
腐った臭いの果物がたわわに実っている。
歩けば歩くほどに、その臭いが濃くなってくる。
同等に、葉っぱの間から見え隠れするドキツい果物の
数も比例して増えていく。とんでもない臭いの集合地へ
入り込んでしまったようだ。
「勘弁してくれよ……」
今、干し肉を食べたら食べたで、
空っぽの胃を満足はさせるだろうが、一時的なもので、
再び空腹になるのは目に見えてわかることだし、
臭いがキツいから、吐いてしまいそうである。
緊張状態であることも、その一因か。
ふいに、空を見上げる。
空を覆う、紫色の霧。
朝方には、あの霧は払しょくされていたが、
少しずつ、あの紫は濃紺を極め始めている。
「やばいよなあ」
魔界は何も、魔族だけが住んでるわけではない。
魔物だって、住んでいるのであった。
理性を持つ魔物ならば、まだいい。
問題なのは……、
ぐるる、
そう。
この、
同じ魔界の住人であるにも関わらず、
「げっ」
鋭い牙を見せつけ、四足歩行を普段はしているであろう、
その体を大きく見せつけ、威圧してくる、
「キルベア、っ」
理性の欠片がない、本能で生きる魔物、である。
臭さが充満する、この冥土の森の一角。
雑食であるキルベアは、ここが巣であったらしい。
そのでかい体毛を覆う筋肉の厚さ、
通常の動物である熊よりも二倍の大きさの化け物。
――――くそ、臭いにごまかされて気づけなかった……!
キルベアはその雑食性から、近寄るとひどい匂いがする。
だから、大抵はここまで接近される前に、逃げ切れるのだが、
このキルベア、ずいぶんと賢いようだ。
その巨体からは想像もできないほど、たくさんの努力を
してきたらしい、牙だけではなく、きっつい鋭角を持つ爪。
逃げ足を定めたら、すぐに追いつく自信があるであろう、
その尻、足の太さ。ふっふっ、と。
鼻息荒く、視線は真っ直ぐに、容赦なく獲物を絡め取ろうと
興奮している。しかし、その赤い目は冷徹そのもので、
通常ならば高位の魔族のみならず、
すべからく魔族が持つべき凶悪な感情を伺わせるが、
対し、平凡な魔族は、混乱をきたして彷徨う目をしていた。
まさか、いきなり魔物に出会うとは、思いもしなかったのである。
現実とは、何故に、こうも無慈悲なものなのか……、
平凡な魔族の背筋に、冷たい汗がひとつ、流れる。
絶望で、顔の筋肉が固まる。
人のみならず、魔族の下っ端でも、
こういう場合、頭の中が真っ白になり……、
考えの考えというものが、吹き飛ぶようだ。
――――この世には、神もなにも、あったもんじゃない……!
魔族に神、というのも不思議な取り合わせであるが、
平凡な魔族には、そこまでの考えが至らない。
一歩、キルベアが、仁王立ちのまま、
獲物よりも二回りも見回りもふっとい片足を突出し……、
魔族もまた、一歩、足を引く。腰はすっかり及び腰。
「う、」
「ぐふ、ふ、ふしゅうう」
「ぐ……」
「ふ、ぐ、しゅふふふ」
魔族は、兵であった過去を忘れた。
といっても、大した訓練もなく、ただ、
腕力で階級はきまっていくような、実力社会の極みといってもいい
組織で、誰も訓練なぞやっていない、名ばかりのものであったが。
「ぐるるるる……!」
対面する魔物は、立ち上がったままの姿勢を唐突におろして、
四つん這いになる。魔族との距離が、一気に肉薄した。
「じゃあああああああああああ」
「うわあああああああああああ」
体中の毛穴、というべき毛穴が開く。
総毛立つ、という、
短い人生の中でもっとも恐怖し、心臓を冷ややかな手で
遠慮もなしに握られる、その頂点に達したとき。
体が、勝手に、反転した。
まずい、と頭でわかっててはいても。
体が、退避行動をとるのである。
背中を、キルベアに向けてしまう。
足が、恐慌から逃れようとつんのめりながらも、前進する。
――――嘘だ、嘘、ウソだろ、
こんな、人生の終わり方。
速攻死ぬ、なんて。あり得ない。死にたくない。嫌だ。
死にたくない、死にたくない……!
唾液が、口端から流れる。
脳髄が、焼き切れそうな、そんな感覚。
視界が緩む。涙が、こぼれそうなほどに、
魔界の景色がゆがんだ。実際、泣いていた。
普段、のんびり平凡な魔族を享受していた、
そのツケ、か。今、無慈悲にもやってきたのだと思った。
――――まだ、まだだ。
まだ、やってないこと、あるんだ。
いっぱい、ある。あるんだ……!
「うあっ」
世界が、反転する。
――――ああ……。
頬に当たる、地面の硬さに辟易する。
こんな時に、転んでしまう、なんて。
気づけば、酸っぱい匂いが、鼻をつく。
頬をこすると、先ほどの吐しゃ物が、指についたのを
認める。いつの間にやら、ここまで逃げてきたらしい。
が、背後からのすさまじい地響きに、
総身がかちこちと固まる。
足に、力を入れようとした。
「あれ……?」
うご、かなかった。
「いや、ウソ、だ、こんなの、」
それでも動かない。
「う、うう、う……」
太ももを叩いても、微動だにしない。
泣き言をいうが、どうにもならない。
どうしようもない、現実が、差し迫っている。
臭さと、胃液の酸っぱい匂い、それと、
自由気ままに流れ落ちる涙を悟り、
把握した途端、さらに熱い落涙を
認め、狼狽もしたが、こんな時に感傷的になって
どうすると、慌てるも、もう、遅い。
「ひっ」
大きな影を、背後に感じた。
振り向くやいなや、大きく振りかぶる爪を見てしまう。
おそらくだが、あの不衛生そうなそれは、
きっと、魔族の体を深く、貫くだろうし、
たくさんの血潮が飛び散るし、水たまりのように
この大木を濡らすのだろう。
痛みは、一瞬。されど、一瞬。
絶対に、苦痛にのた打ち回るだろう。
しかし、それさえ許されない。
なんせ、主導権を握るのは、この魔物である。
理性のない、魔物。
平凡な魔族の頭を持って、振り回される可能性だって捨てきれない。
吐しゃ物まみれの大木に投げ出されることだって、あるだろう。
実家の家族は、死亡手当を貰って嬉々とするだろうが、
私はちっとも嬉しくない。それに、この不名誉な死に方。
勇者の剣にさえ、立ち会えていない死亡の仕方は、
情けないことこのうえなく、同僚の間では、
ちょっとした噂話に上る程度で、すぐに忘れられてしまうだろう。
あるいは、笑い話にさえなるかもしれない。酒の席で。
第一、上官に気に食わぬと死地に追いやられただけのことで、
本当に死ぬとは、ああ、なんてしょうもないことだ。
悲劇にもほどがある。他人にあざ笑われる未来なんて、
――――畜生、畜生、畜生っ!
それならば、それならばっ!
体中が、悲鳴を上げる。
「勇者、てめぇ、絶対、勇者、貴様を、くそっ、
どうして、てめぇは私を助けないんだ、
私は貴様を倒すために……、ああ、
勇者、会いたい、今、君に逢いたい……!」
ちょっと、勇者の剣にかすめられるだけ、でも、
魔界に帰れる可能性はあった。
なんせ、勇者に遭遇して、奴の体力を、
力を削ぐことが目的の間引きの書であるからだ。
――――以前、そういった魔族がいた。
そうして、悠々と療養生活を、送っていた。死ぬまで。
奴さえ、現れてくれれば、逃げ切れるのだ。
そう、奴さえ、大人しくしてくれたら。
会えたら。
チャンスが巡ってくる。
悠々自適な暮らしが……!
無念な魔族の頭には、バラ色の人生が巡っていた。
俗にいう、走馬灯である。
風が。
顔面を、横っ面を弾き飛ばそうとしていた。




