アナグラム。
このまま、何もしたくない。
動こうとすれば、腹が死ぬ。空腹で。
大の字で倒れこむ魔族の耳元でハッスル中のひよこが地味にウザイが、
小動物をどうにかしようとする気力も、
カインという名の名前だけは大層な主人公には湧いてこなかった。
「くそー……」
試しに呟いてはみるも、やっぱり、何かしたいとは思わない。
成人した魔族の苦悩の声だけが篭る。
くるりとくりぬいた穴ぐら、その天井を、凡庸に見上げる。
誰かが手彫りをしたであろう、デコボコな壁面。
一体、なんの理由があって、こんなところに穴を。
確かに、手で掘られた形跡があった。まるで、執着したかのように、
熱心に、スプーンのようなもので。ほいせ、と。執念か。
一人の魔族が、その一生をかけて掘り進めたのだろうか。
だとしたら、懲罰以外に想像がつかない。
ぞっとした。
まさか、私と同等の魔族が、こんなところに……、
なんて悪いほうへと想像を巡らし、実際に視線も巡らしたが、
誰もいなかった。安心するが、これでいいのだろうか。
ふんわり毛玉を見る。
毛玉は、そのふわふわの毛を逆立てることもなく、
カインの毛根を、今度は啄んでいた。そういえば、寝転がったままであった。
「やめろ、ハゲる」
言うと、今度は、髪の毛を嘴に、咀嚼し始めた。
腹でも減っているのだろうか?
しかし、それは魔族とて同じことである。
いくら干し肉という栄養が腹に収まってしまったとはいえ、
満腹とはいえぬ、ささやかなもの。
大きな大人を元気いっぱいにする、ほどではない。
胃痛が、眉間に皺を寄せつける。急激な干し肉という食事が、
胃液を刺激しすぎたようだ。
「はあ」
カイン、むくりと体を起こして、胡座をかく。
すると、ひよこも、頭から垂れ下がって額にかかる。
頭上あたりが黄色くなる視界。
どうやら、食べあさっている髪の毛を手放さなかったものらしい。
魔族は呆然とした面持ちで、前髪にひよこをくっつけた
ままに、銅像のごとく微動だにせず、時間だけを喰った。
頭は働かないし、現実を感じたのである。
紫の気配を。
つまりは、短い魔界の朝が終わったのだ。
どこぞの高位魔族が行ったという、この魔界特有の超常現象。紫の霧。
責任者はどうにかしろ、と声を高らかに言いたくなるが、
そういえば、魔王様だった、と思い直し、魔族、
何でもない表情を取り繕う。さすがに魔王、という存在は、
雲の上の存在である。さすがに興を削がれる。たとえ、胸の内だけの
悪口とはいえ、あまり考えないようにしたい。一応、カインは、
魔王軍に所属しているのだ。その程度の分別はあった。上司は別腹だが。
「……」
これ以上は、あまり考えないようにする。副官が恨めしい。
次に、脳裏に過ぎるは、冥土の森。あのキルベア。
それと、変な魔族であるクソガキ。
瞬時に憂鬱になったカイン、
どっちも心底遭遇したくない存在ナンバーワンを競っているが、
いずれにしろ、もう、神の杖を降りてはじめ、ほいほいここまで来たら、
後戻りはできないので降りるしかなく、
となると、やはり、これ以上の体力の消費は押さえておきたかった。
紫の霧という、魔界特有の現実がやってきた以上、
もはや、進むことは自殺行為。今はまだ、天空近く、
紫の霧から上に位置するが、くだりの進み具合によっては、
紫の霧へ突入してしまうかもしれない。そうなると、視界が不良になる。
それは、芳しい状況ではなかった。
カインは、安全に生きたい。生存したいのである。
無闇に死ぬ確率を上げたくはない。
望みは、ただひとつ。
だらだらと、以前の生活をしたい、というだけ。
できれば、前の環境を取り戻したいのだが、
勇者に一太刀でもいいから足を引っ張らねば難しい。
「ぐぬぬ……」
魔族、洞穴にほふく前進で進み、
じっと、下界を見下ろす。
見事に、紫の世界へと、変貌していた。
未だ、ここは神の杖上層部。
まだまだ、地上へは程遠いようだ。
ちなみに、ひよこは頭からぶら下がっている。
……気づけば、霞を食べて生けるなんて、仙人だけだと
物の本には書いてあったはずだが、魔族にもできたようだ。
手彫りで、穴を掘る作業。
それは、とても執念深いものだった。
いつ、そうなったのか。わからない。
しかし、ひとりぼっちの彼にとって、それしかやることがないので、
仕方なく、そうなったというわけだ。彼は、
何も好き好んでそんなことをしているわけじゃない。
ただ単に、長い年月を経ておきながら、この神の杖と呼ばれる
高所から、降りる勇気がないだけであった。
ふぅ。
今日もまた、ひと掘り。
成果を上げた。
あとどれぐらい進めば、穴を拡張できるだろうか……。
ふいに空を見上げ、雨でもふらないかと、期待するも、
見事な快晴である。そりゃそうだろう。
ここは、雲よりも位置的に高い場所にある。
雨が降るのは、地表近くだ、こんな面倒なところまで、
さすがの雨雲さんも、やってはこない。
なんて、厄介なことになったものだと、つまらない毎日に
嫌気を指す。しかし、やることがなくなると、魔族、
たとえ元は人間だったとしても、頭のほうがおかしくなる。
そう、元々おかしいのだ。
おかしい。
いや、可笑しいのは、この状況だ。
私は、仙人ではない。
仙人とは、人間が体を鍛え、頑張って秘術を覚えて山篭りをし、
仙道を極める者のことをいう。確か、そうだ。
私は、魔族。
人間ではない。
なんだ、この金属でできたものは。
まるで、スプーンだが。
しかも、くたびれている。
私は、こんなものを手元に持ち合わせてなどいない。
あるのは、毛布と、さっきからかしましいひよこと……、
ん?
むむ、ひよこが、いない。
なぜだ。
さっきから、声がするというのに。
いない。
いるのは、確かだ。
こんなにも、耳元で、いや、痛い。
引っ張ってやがる。
こら、こら。
耳を食べるな。
さすがに、耳朶をつままれると辛い。
こら、
「お?」
目覚めると、そこは代わり映えのしない穴。
「ん?」
気づけば、魔族、毛布を取り出し、身にまとって
眠っていた。そうだ、寝ていたのである。
「どう……いうことだ?」
ひよこが、手元で鳴いている。
「ひよこ?」
ぼんやりとしたまま、ひよこをつまむ。
相変わらず、暖房の働きをしてみせる毛玉。
「ひよひよ」
「……今は、いるな、このひよこ」
どういうことか?
霞がかる頭のまま、重たい瞼を無理やり持ち上げて、
ぼう、っとしている魔族。
「あれは、……夢?」
そうか、と、ひとりごちる。
うん。確かに、あれはリアルな夢であった。
ずいぶんと、彩色豊かな……夢であったが。
「……」
ふと、外に視線を投げると、そこには何もいない。
暗がりで、いつの間にやら、夜となっていた。
日の光が感じられない。
「……」
背筋がぞっとした。
眠気も一気に冷めてしまった。
……なんだかわからないが、今、眠りこけてしまったら、
あの夢の続きを見てしまいそうな気がした。
誰もいないはずであるというのに、誰かがいるような。
そんな恐ろしい予感がする。
……勘弁して欲しい。
さすがにカイン、いくら能力に霊感というものが付与されていなくても、
縁起の悪い夢は夢見が悪い。
正直、こんなところで、ゆっくりと眠られない。
キルベアとはまた、別の恐怖に総身が晒されている。
どうしよう。
切実に困った。
……物理的な恐怖はないが、ここは、精神的な恐怖が
お目見えしている。
だが、いつまでも眠らぬ、という選択もとってもいられない。
「……」
明日は、いの一番に起きて、
降りねばならない。
確かに、明日は明日で、死ぬかもしれない。
だが、このままでは……、体力の僅かな回復を得られぬようでは、
先に進めないし、リーズはナシノツブテである。
奴に期待はできなかった。腹は減り放題だし。
……ならば、眠るしか、なかった。
カイン、もぞもぞと、毛布をかき集め、
妙に大人しいひよこを懐にかき抱き、また、眠りの態勢になった。
どうせ、また、浅い眠りになるはずである。
なんせ、明日もまた、命懸けである。どちらにしても、
ちゃんと体を労らねばならなかった。
暖房毛玉が、温かい。
そのことだけが、この魔族にとって、
唯一の意識を傾ける物体になった。
そうして、とろとろと、また、夢の世界へと誘われる。
手ぐすね惹かれ、足を一歩踏み出すとまた、
そこは、仙人である私が、穴を掘り進めている世界が、広がっていた。




