無謀との戦い。
指腹に痕が残るほどの力を入れ、岩の出っ張りを掴む。
凸凹とした岩壁。滑り落ちそうになるのを堪え、踏ん張る。
はじめは不安定であったが、次第に安定していく体。
よし。確信したら、次に、片足を浮かせ、全神経を靴の裏に集中させる。
足場を探る。目をつけていた場所。あった。
しっかりとした地盤であることを祈りつつ、そのとっかかりに
がっちりと靴のつま先をはめ込み、体重移動を速やかに行う。成功。
と、ここで、ほう、と、ようやく人心地ついたカイン。
安堵の息を漏らしていると、
びゅう、と、吹き付ける風が、襟首に入り込んだ途端、自覚する。
体中に、どっと沸いた冷や汗の存在感を。
実感する。生きている、と。
足の下にある、やや垂直な崖下をちらっと、見下ろせば、
はっきりくっきりわかる、未だ、遠い冥土の森。
目眩を引き起こすほどの、この距離感。
ぞっとする。いつまでも見ているのは目に毒だ。視線を再び、岩壁に戻した。
……とはいえ、やっぱり、今の状況、夢、幻の類に思えもする。
この、指の感触さえなければ。
ゴツゴツとした、この硬さ。
骨が軋む。筋肉もプルプル活躍中。まったく、
いつまで、ぶら下がっていられるだろうか。
至近距離で悠然と佇む岩の塊が恨めしい。
「……」
元々、魔王軍という軍隊所属のくせして、剣さばきさえできない、
本当にただの下っ端兵である。いや、兵というのもおごがましいほどの、
一般市民といってもいいレベルの魔族である。
力は、人間ほど弱くはないが、それでも、
唐突に両腕がだらり、といつどうなるかしれぬ身。
そう、あっという間に滑落死できることを、なんとはなしに、想像はし、
脂汗をかくカイン。傍目からは、本当に普通の魔族である。
現実的に、あまりにありえない状況に、
若干遠目になりつつも、かろうじて岩場にへばりついているけれども、
それも、いつまでのことか。
カインは、あまり考えないようにした。
なんせ、絶望はどこにだって潜んでいる。
悲しんでいたって、しょうもないこともある。
ボコボコ表面の岩に、伸長に腹バイしつつも、
ぴったりとくっつき虫状態でいることを選択したのは、
何を隠そう、私である。むき出しだが。
やばい、頬が引きつっている。もう少し、神の杖でだだをこねて
いたほうが良かっただろうか。
「……」
無言な魔族と同じく、ひよこもまた、沈黙を保ったままでいる。
温かい懐具合に、暖房器具のごとき毛玉、しっかりと生きている様子。
ひゅう、と横殴りの強風に、カイン、顔を背け、片頬を
岩の凹凸にくっつけて目を瞑る。そうして、カッ、と両目を見開き、
ゆっくり、ゆっくりと手足を動かす。
……もうかれこれ、10分は、こうして、煽られる冷風と、スタミナ不足と
折り合いをつけて少しずつ、降り続けていた。
神の杖のてっぺんにて、垂直な崖に向けて、うつ伏せ状態のままお尻から、
もそもそと少しずつ、少しずつ動いて降り立つ勇気を奮い起こしていたのを
鑑みれば、こうして頑張る姿をしてみせるだけで、普通は拍手喝采ものである。
あんなにも、崖の下を降りる潔さをしてみせなかった足踏み魔族、
どうにもこうにも、涙がちょちょぎれる展開でさえある。
……あれから、15分。
プルプルと小刻みに震える手首を宥めながら、また一歩、足を踏み出す。
いや、あんまり進んでいないが、しかし、体力の尽きるまで、
それは続くことをカインはしっかりと理解している。
もし、この五指が万歳状態になってしまったら、主人公はジ・エンド、
瞬時に人生もシャットダウンするだろうし、ぶっちゃけ、走馬灯のタマも少ない。
魔族はそれほど、魔族らしく生きてはいるが、それは、
下級魔族らしい生活なだけであり、上位のごとき華々しい日々を送っていないので、
あんまり見栄えの良い走馬灯は回らないであろうし、実家からも縁切りされてるため、
虚しい思い出ばかりが胸をつく。嗜好品のお酒もないし、
腹は空きっ腹が続く毎日。食べ物ばかりの走馬灯、
というものは、ひと時の現実逃避としては
楽になるに違いないが、そのひと時のために、大量の唾液と、
胃痛という名の激痛を入手したいとは思わなかった。第一、まだまだ、魔族の人生は
始まったばかりである。人間よりは長い寿命である。これからも
だらだらとした人生を送りたかった。目的も熱い理想もないカインという名の
魔族であるが、この魔族も、魔族なりに、それなりに生存していきたいのである。
だが。
さすがに、一時間以上は、無理かもしれない。
ふいに、周囲を見回すカイン。幸いした。
「お……」
と、ここで、目ざとく、とある場所を発見する。
穴場である。実に穴が空いていた。
ぽっかりとした暗がりが、見事に大きく口開いている。
「よし……」
少しばかりの休憩が欲しかったところだ。
いくら魔族とはいえ、いつまでも岩壁に
ぶら下がってもいられない。上位魔族であれば、こんな四方八方岩壁、
重力無視して垂直に歩けるだろうが、平凡な魔族は違う。
久しぶりに蘇ってきたヤル気を奮発し、ちょい、ちょい、と、
カニ移動のごとく、横へスライド移動、そうして、
斜め下へ、下へと、しっかり這いつくばって、降りていく。
うまくいったらしく、足が、ぷらぷら、と。
穴のほうに片足がかかるようになった。
「も、もう少し、降りるべきだな……」
なんだか、風が強いようだ。
靴がぶらぶらと、強風に揺られる。
ちょうど、穴の天井近くまでやってきた。
魔族は平凡である。したがって、かっこよく、ここでバク転やら何やらで
身体能力を発揮して、素晴らしい側転で穴に入れるわけもない。
いそいそと、穴の横へ移るべく、ちまちまと、移動をはじめる魔族。
そのスピードはカタツムリよりは、若干早い、程度だ。
草も生えていない、この岩の絶壁。
がっちり掴んでも、離れる様相のないしっかりとしたもので、
それはカインにとって、幸運なことであった。
水も出ていないから、急に岩崩れが起きる心配もない。
「よ、しっと……」
ぶらりと宙に浮かせていた足が、穴場にたどり着く。
そうして、片手をがっ、と穴に差し込み、がっちりとつかめそうな
場所を手探りで探し、上下左右に、穴の穴だらけの側面を触る。
ツルツルとはしていない、この岩の情勢。もう片方の手も同じように
別の場所を握り、真っ暗な穴ボコに我が身を放り込んだ。
……上手くいった。
生まれたての小鹿のごとく、小刻みに震える両腕を叱咤し、
中の様子を見定める。
四つん這いになり、ぐるりと頭を巡らすと、
想像通りの穴であった。奥には何もない。
くるりとスプーンで中身をくり抜いた印象の、
丸っこい穴であった。
人は数人、入り込める大きさで、
壁は、どうやら掘った跡がある。
つまり、手作りのようだ。
誰もいないことをいいことに、大の字になって、
息を整える魔族。懐から、もぞもぞと何かが出てきたのを
目線で追いかけると、ひよこであった。
魔族のほっぺを、その嘴で突っついてくる。
地味に痛い。
だが、魔族は、そんなこと、どうでもいいとばかりに、
じっと体を休めていた。
「はあ」
嘆息が、小さな岩の穴場に響く。




