恐ろしい子!
紫の霧が厚み増す、真夜中。
月も星も、隠れきっていた。
迷子がさらなる迷子になってしまう、冥土の森。
暗夜。
籠るは、生地が擦れる音。
ひらひらと泳ぐようにしてマントの裾を引き摺る恐怖の存在が、
ただひたすらに、私のほうへと、ゆらりゆらゆら、
回遊魚のごとく接近してくる。
距離が狭められ、近付けば近付くほど、
にわかに色づき始めた、奴の顔立ち。
闇夜は私の金目を、次第に夜目とさせて慣れてくる。
始めはぼやけていた輪郭が、はっきりとしてきたのを皮切りに、
じわじわと、奴の背格好さえも、浮き彫りにさせた。
体のラインはまず小柄。ほっそりとした体型である。
両腕がはっきりとあり、ぶらぶらと、所在無げにぶら下げ、
素手は袖の中にあるようで、見えはしないが、
そのゆったりとした袖口が広い服は、
魔界の修道士が身に着けるようなローブで、マントも同色の真っ黒、
闇夜に紛れるにしてはもう少し明るめの色を取り入れた方が
いいはずなのだが、これでもか、といわんばかりに漆黒を纏いこみ、
肌色を決してみせないその頑なさは、胡散臭さの倍率をドンと跳ねあげる。
また、目深に帽子を被って目元が見えぬから、余計か。
薄色の唇だけが浮かんで見え、一層映える不気味さ。
亡霊か、と突込みを入れてほしいのならそう言ってほしいが、
真一文字に引き絞られた、生気のない唇は微動だにしない。
……、もっとも、気がかりではあるが、その、歩み方で。
昨日の、魔族女みたいな、ゆったりとした足の運び方であったのだ。
生きているわけがない。
が、懸念はする。一応、私だって魔族だ。
相手の息の根が止まっている、のを、私はリーズに確かめ、させた。
無暗に接近して、かろうじて生きていて、殺されるのでは役得ではないから。
第一、目撃したのだ、
あんな、背後から心臓刺されて生きていられるマゾみたいな魔族、
いるはずがないのである。さすがに、ビビり魔族だって心肺停止状態で蘇りなんて、
あり得ないと、踏んでいる。自分だって大量出血で生きていられる自信がない。
だのに、どうして、今。
体の震えが止まらぬのか。
―――――まさか、……、いや、でも。
片腕飛ばされて、冷たくなっていたはずである。
それが証拠に、奴には両腕があった。そんなはずがない、ないのだ。
私は、動揺していた。霞みがかる世界を、しっかり極めようと、
だから、釘づけになったのだ。
ぼうっ、と。
まるで、光っているかのように、
待ってましたと言わんばかりに。
唐突に、灯った、二つの明かり。
――――ん?
暗闇に、浮かぶそれ。目を凝らす。
松明ほどの明るさはなかったが、夜だからこそ、目立つ、
その鮮やかな赤き玉が、私には眩しく感じられ、
しっかと、私は、その光源を、目ん玉に入れた。
赤き光は、宝石のように昏く煌めいており、幻想的で。
磨かれた高貴な玉のように、儚い色であった。
と、同時に。
ようやくそこで、私は理解したのである。
嗚呼、私の脳みそは、どこまでポンコツなのか。
しかめっ面になるが、もう遅い。
「……っ、……」
真紅の瞳。
高位の魔族の証。
魔眼。
ゆるりゆらゆらと、近寄ってくる魔族。
害を為そうとする存在が、同族に仕掛けてくる魔力のすさまじさ。
ぴりぴりとした、痛みが、顔面の表皮から、ぐるりと目の中を一周する。
慌てて顔を背けようとしたが、
ぴしり、と。
ガラスにヒビが入ったみたいに、
頭の中が、ぐわん、ぐわんとかき乱れる。
実際には揺れていない。
だが、私を捕まえようと、まず脳内を混乱させたものらしい、
それは、魔力の手。
奴は、赤き触手のごとき、血のごとき魔力を、
目玉の中央へと伸ばしていた。
視界が、端から染まる。
真っ赤に、染まる。
黒が、赤に浸食される、真っ赤な手。赤い血液。枝葉のように、
広がりを見せていた。そうしてそれは、強制的に、見せられた。
じわ、じわ、と、真っ暗だったはずの金目の世界が、仄暗い赤となっていく。
これは……リーズのときと同じ!
愕然とした。
それが証に、私の体はまるで金縛りのごとく動かないし、声出しも不可能。
垂れ流される、奴の魔力の受け皿となった私、
頭の片隅が、痺れて冷ややかに感じる。
――――どうしよう、どうすればいい。
もう一度、身じろぎするが、徒労に終わる。
指も、足も、首も、腰も、ついでにケツも動かない。てんでダメ。
じりじりとした恐慌が、もはや目前にやって来る寸前だというのに。
私の体は、毛布に包まれて、半身を起こしたままである。絶望する。
―――――な、んてことだ……。
しかも、眼が。
突き刺さるかのように痛い。
裸眼が。こみ上げてくる涙。
生理的な反応までは、支配されないようだ。
―――――あの野郎、私になんの怨みがあって……!
おそらく、完璧な支配を求めて、分かりやすく自覚させるためのことだろう。
赤き魔眼に支配された馬鹿は、こうして、ご主人様への服従を示すため、
真っ赤に泣いたウサギの眼をしなければならないという。
まさに、今。この状況である。じわりと滲む、暮れなずむ世界。
幸いに呼吸はできる。だが、涙ばかりがだくだくと出てくる現在、
それは小さな小さな慰めであり、現状の逆転にはさほどの関わりがない、が。
ゆらり、ゆらりとやってくる、その小柄な人物。
私は、その人物を、じっくりと見詰めるしか、脳のない、生きたお人形と化していた。
最悪である。おまけにいい大人が泣いている。踏んだり蹴ったりにもほどがある。
――――くそ……、
なんだよこれ、なんで野良魔族と二回も出会うんだよ……、
しかも高位。最悪、ああ、最悪だ。
なんて厄日だ……ちくしょう、
腹いっぱい飯だって、まだ食べてないのに……。
冥土の森を彷徨って野外活動。ちょっとしたギリギリキャンプ。
キルベアに出会わず、干し肉二枚で、どこまで寿命延ばせるかな!?
っていう、三日目に突入するはずだったのに。
ため息ぐらいはついとこう、と思ったが、唇は開閉不可。
どうやら、できるのは鼻息だけのようだ。
ふんふん煩い。これはなんの拷問か。
これから一生、鼻で呼吸しろということか。
唇の上下を動かす試みをするも、
唾液を飲み干すぐらいのことぐらいしか、用を為さない口の中。
若干、絶望を覚えた魔族。
今後の一生を顧みていたら、チーン、と何かの音が成る音を
遠くから聞こえた気がした。
しおしおに、なりそうな魔族、己の心を叱咤する。
きっ、と、睨みつけるように、ふざけた歩き方をする奴を見つめる。
――――いや、まだだ。
まだ、終わらんよっ!
平素より武器を持たない下っ端兵士、
それでも、状況を改善できる術はないか、と。
いつもの機転を探す。
が、眼は動かないし、体は言わずもがな。鼻しか利かぬ。
声も出ないし。腹も減った。中途半端に起こされたから、胃が軋む。
道具だって、そう、用意周到に同僚Aが歩いてたりするわけもなく。
そこいらへん、どこをどう見たって、木、木、木。
三つ合わさって森という塩梅で。死にぞこないの冥土の森の
面目躍如、というわけか。どういうことだ。
――――私はまだ、死にたくないのに。
日持ちが過ぎた白菜のように、しなしなになった魔族。
再び、絶望に包まれた。
そもそも、前回どうにか助かったのは、リーズという、
お人好しな人間がいたからである。
魔族のことを知りたいと、やけに張り切っていた、あいつが
いたからこそ、死地を抜け出せた、ただそれだけのこと。
それが今じゃ、力、が無いというだけで、ここまで、
弱者は、いたぶられるとは。魔界の法律なんて、魔界の首都でしか
通用しない。しかし、魔界の掟だけは、絶対である。
強い者こそが、正しいという、実力社会。
―――――おまけに、喋る権利さえ、与えられない。
囀るな、ってことか?
チーン、が二回鳴った気がする。
――――にしても、どうして、気付けなかったんだろう。
魔族、目の乾く苦しみにもがきながらも、
その苦痛から逃れるために、
必死こいて考える。
今も、爛々と帽子の奥から、輝かせている赤い瞳。
現状、魔力が私に垂れ流されている状況であるが、
魔眼の力を発動させるのに、魔力は必須である。
魔族は、魔力を目にすることができる。
したがって、どこに誰がいるのすぐに分かるし、
そもそも、これほど濃縮な魔力を、気付かないでいられる
魔族は存在しない。高位の魔族は、魔力を垂れ流すものだ。
絞ることはするだろう、魔族女みたいに、
目を瞑って相手の間隙を狙って攻撃してくる恐ろしい罠を
しかけてくる用意周到な魔族もいるにはいるが、
いずれも、技を仕掛ける前でも、ぴりぴりとした魔力を垂れ流す。
……そもそも、魔族にとって、魔力とは呼吸をするように、
自然と流すもの。息をするようにして、魔力を取り込み、
放出する。酸素を吸うように、当たり前の行為である。
眼にも意識すれば、見える。
ごく小さい粒で構成されたもので、はあるから、
望まない限り、視界に入ることもない。凝縮された魔力は
はっきりと目にできるが。
その、当然あるべきものが、あのくそったれには、無かった。
見えもしなかった。魔力を、魔族は視認できる、というのに。
一応主人公である、魔族にも、
それなりの……、うん、そうそう、ちょっとぐらい、
その程度の、ああ、そう、っていう申し訳な感じの
魔力を体中に付している。それこそ、頭の先から、
髪、ケツから足の指に至るまで。
僅かに垂れ流している。
そうして、それが魔族にとって自然なこと。
川の流れ。
近寄れば、認識もできるもの。それが、魔力。
なのに。
相手の顔、形。唇。目鼻立ち。
頭から、ケツ、足の先に至るまで。
この人物は、魔力というものを出していなかった。取り込んでもいない。
高位魔族は、その自由さ、傲慢さゆえに、魔力を自在に絞ることはあるにせよ、
すぱっ、と。消すことはしないものだ。
主人公でさえ、そうなのである。
魔族にとって、魔力を消すということは、息をしないということと同義。
全ての魔族は、ここまで完璧に、
己の呼吸を忘れるようなこと、するわけがないのである。
空気のように、ありふれたもの。それが、魔力。
その魔力を、意識的に、同族にさえも感知させずに近付ける、なんて。
あり得ない。
あり得なさすぎて、ただ、妙な、奇異なものをみる顔で見詰めるのみ。
さぁ、奴は、私の足元に、ぴたりと立ち止まった。
そうして、その奥でキラリと光る赤き双眸が、私を捉えて離さない。
「……ねぇ」
私は、目を動かせないから。
奴の顔を拝むことができない。
年若い、
……少年の声が、頭上から聞こえた。




