第十二話 帰る場所
一九六〇年八月
記録は、紙で届いた。
細長い紙が、机の上に広げられた。端が丸まって、机から垂れた。一度目の空の記録と、同じ紙だった。
男たちが、それを囲んだ。
高度。十万二千八百フィート。
吊りかごを離れてから、主傘が開くまで。四分三十六秒。
最も速かったところでは、音の速さに迫っていた。
誰かが、低く口笛を吹きかけて、やめた。
紙の上には、いくつもの数字が並んでいた。
男たちは、黙ってそれを読んだ。
キッティンジャーは、壁際の椅子に座っていた。右手を、膝の上に置いていた。
彼は、数字を見なかった。
紙の端のほう、心拍と呼吸の欄を見ていた。上昇の途中で、記録の線が途切れていた。計器が壊れたのだった。
誰かが言った。
「三つとも、記録だ」
キッティンジャーは、紙から目を上げた。
「記録は、おまけだ」
それだけ言った。
誰も、言い返さなかった。
*
その夜、ニューメキシコの基地の装備室には、遅くまで明かりが点いていた。
フランク・ヘイル軍曹は、作業台の前に座っていた。
台の上に、手袋が一つあった。右手だった。
彼は、手首の継ぎ目を外し、合わせ、締めた。指で継ぎ目をなぞった。
外した。
合わせ、締めた。なぞった。
どこにも、悪いところは見つからなかった。低圧室で何度試しても、空気は漏れなかった。あの日の空の上で、なぜ漏れたのか。手袋は、何も答えなかった。
ヘイルは、また継ぎ目を外した。
扉が開く音がした。
キッティンジャーだった。
彼は、何をしているのかとは訊かなかった。作業台の向かいに立ち、黙って、ヘイルの手の中の手袋を見た。
それから、右手を差し出した。
腫れは、もう引いていた。指の付け根に、薄く赤みが残っているだけだった。
ヘイルは、その手を見た。
手袋を持ち上げた。指を一本ずつ入れさせ、手首の継ぎ目を合わせ、締める。指で、継ぎ目をなぞる。
夜明け前の、あの更衣の車の中と同じ手順だった。
キッティンジャーが、右手を握った。開いた。
もう一度、握って、開いた。
ヘイルは、作業台の端に置いてあった紙を引き寄せた。鉛筆を取り、右手の欄に、印を一つつけた。
キッティンジャーは手袋を外し、作業台の上に置いた。ヘイルの前に。
そして、何も言わずに部屋を出ていった。
ヘイルは、しばらくその手袋を見ていた。
それから、明かりを消した。
*
オハイオの整備室に、木の箱が届いた。
フランシス・ボープレが、作業台の端でその蓋を開けた。
主傘。安定傘。小さな補助傘。砂が残っている。
それから、胸の予備傘。
袋の留め紐は、結ばれたままだった。
ボープレは、それを開けなかった。
作業台の向こうに、若い技術者がいた。あの日、屑入れの上で手を止めた男だった。
ボープレは、予備傘の袋を作業台の上で滑らせ、彼のほうへ押しやった。
若い技術者は、袋を見た。ボープレを見た。
それから、留め紐をほどいた。
白い布を、一枚ずつ開いていく。折り目を確かめる。皺を手のひらで伸ばす。
紐の一本を、根元から指に通しはじめた。ゆっくりと。
ボープレは、それを見ていた。
途中で、若い技術者の指が止まった。紐を明かりにかざし、片目を細めた。何も見えなかったらしい。それでも、彼はその一本を外し、台の脇に置いた。
ボープレは、何も言わなかった。
自分の作業台に戻り、次の箱の蓋を開けた。
*
オハイオの夕方は、まだ明るかった。
家の前の道に、車が止まった。
扉が開く音がした。
台所の窓から、母親が外を見た。手を拭いて、玄関へ向かった。
マークは、もう玄関にいた。
網戸の向こうに、父親が立っていた。
飛行服ではなかった。いつもの服を着て、小さな鞄を一つ提げていた。
マークは、網戸を開けなかった。
父親の顔を見ていた。
父親は、鞄を下ろした。網戸を開け、玄関の床に膝をついた。息子と、目の高さが同じになった。
マークが、訊いた。
「番号、ついてた?」
母親が、廊下の奥で足を止めた。
父親は、すぐには答えなかった。
左手を伸ばして、息子の頭に置いた。
それから、言った。
「ついてた」
(第十二話 完)
――『地球に落ちた男 ―帰るために、飛んだ―』 了
本作を「宇宙服の話」と思って読み始めてくださった方も、いらっしゃるかもしれません。
キッティンジャーが着ていたのは、宇宙服ではありません。当時の高高度飛行用の部分与圧服を、この実験のために手直ししたものでした。
エクセルシオール計画が確かめようとしたのは、高い空で機体を失った飛行士が、生きて地上まで帰る方法です。小さな安定傘で回転を防ぎ、低い高度で主傘を開く。ボープレが考えたこの仕組みは、のちに世界中の射出座席の安定傘として受け継がれた、とキッティンジャー自身が語っています。
そして、この実験で得られた知見は、宇宙へ向かう人間の安全にも役立てられました。人類が宇宙へ行く前に、誰かが「帰り方」を確かめておく必要があったのです。
一九六〇年八月の跳躍の記録は、五十年以上破られませんでした。二〇一二年にそれが更新されたとき、キッティンジャーは地上から、跳ぶ男に声を送る役を務めていました。
かつて空の上で地上の声を聞いていた男が、今度は地上から、空の男を帰す側に立っていたのです。
本作は史料をもとにしていますが、会話や家庭の場面、地上の人々の役割分担の多くは創作です。
ただ、記録に名前の残らなかった人たちの手が一人の男を帰したこと。それは、創作ではありません。
八雲 海
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