第四章:【凪の思いと決断】
俺は全力で走っている。息が焼けるように熱い。肺が痛い。けれど足は止まらない。
「間に合え!」
まだ終わらせない。勝手に、俺の知らないところで全部抱え込んで終わらせるわけないだろ。
昇降口が見えた。夕焼けが校舎を赤く染めている。その中に、見慣れた背中があった。凪は一人で靴を履き替えていた。
「……凪!」
「え、なに?」
凪は困惑した顔をしていた。
「全部、零から聞いたぞ」
その言葉を聞いた瞬間、凪の表情が凍りついた。
「……零、言ったんだね」
小さく、責めるわけでもなく、ただ覚悟したように呟く。
「不治の病なんだろ」
「……そして三年前、余命はあと半年って言われてたんだろ」
夕焼けの光が、凪の横顔を赤く染める。影が長く伸びていた。
「……三年前、突然倒れたの」
凪は静かに話し始めた。
「体育の後、息が止まらなくなって。気づいたら病院だった。そこで言われた。進行性の心臓の難病だって……」
胸が締めつけられる。
「手術をすることはできた。でも成功率は限りなくゼロに近いと言われた。しかも当時の私の状態じゃ、体がもたない可能性の方が高いって」
だから島へ行ったのだと凪は言う。
「本土より空気が綺麗で、静かな場所で療養したほうがいいって。治療を続けながら、タイミングを待つしかなかった」
「だから最後に優に告白したんだ。悔いが残らないように……」
俺に告白してからの三年間についても説明してくれた。
「最初の半年はね、本当に覚悟してた。手術もできない状況、とても怖かった。でも半年を過ぎても私は生き続けた」
「今、この生き続けてる状態は『奇跡』らしいの……いつ倒れてもおかしくない状態だって……」
凪は笑う。でも目は笑っていない。
「それでね、優くんに連絡し続けたら、もっと好きになっちゃうでしょ?だから距離を取ろうと思った。でも……できなかった」
連絡は続いた。
「そして二年目の冬、また倒れて。医者に言われたの。『次倒れたら意識は戻らない、だからそろそろ決めるべきだ』って」
手術をするか、しないか。
「成功すれば普通の生活に近づく。でも失敗したら、そのまま――」
言葉が途切れる。
「怖かったの……」
凪の肩が震える。
「確かに空気の綺麗な島にいたおかげで成功率は少しは上がった。それでもよくて三パーセント。しかも成功しても後遺症が残る可能性があるって。だからさ、もし手術台に乗って、目が覚めなかったらどうしようって思っちゃうの」
沈黙。
「だから、優くんとは付き合えないって言ったの」
「未来を約束できないのに、奪いたくなかった」
俺は一歩近づいた。
「ふざけるなよ」
凪がびくっとする。
「『俺の未来』を勝手に決めるな」
涙が滲む。
「三年前だぞ?」
「三年間、ずっと好きだった」
凪の瞳が揺れる。
「今さら余命が短いとか、関係あるかよ」
声が震える。でも止まらない。
「怖いなら、俺も一緒に怖がる」
「手術するなら、終わるまで待つ」
「目が覚めるまで、病室の前で待ってやる」
凪の目から涙が溢れた。
「優くん……」
「俺は隣にいたいって言っただろ」
夕焼けの光が揺れる。そして続けて言う。
「成功率?」
「三パーセントもあるじゃねぇか」
無理に笑う。
「お前が諦めたらゼロになる。でも受ければ成功するかもしれない」
「俺は三パーセントに賭ける」
凪は声を殺して泣いている。
「……でもね、怖いよ」
「死ぬかもしれないんだよ」
「知ってる」
「それでも、生きろよ」
俺は凪の両肩を掴んだ。
「また『またね!』って言うつもりか?」
「今度は本当に終わるぞ」
凪の呼吸が乱れる。
「優くんは、後悔しない?」
「もし私が……」
「しない」
即答だった。
「後悔するのは、お前が何も言わずにいなくなることだ」
沈黙。長い、長い沈黙。
やがて凪は、涙でぐしゃぐしゃの顔で笑った。
「……ずるい」
「何がだ」
「そんなこと言われたら、逃げられないじゃん」
凪はニコッと笑う。そして小さく息を吸う。
「……手術、受けるよ」
震えながらも、はっきりと。
「怖いけど……優と一緒に生きて……ちゃんと未来を見たい」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥の穴が少しだけ埋まった気がした。
「でさ……」
凪は俺の胸に顔を押しつける。
「もし目が覚めなかったら……」
「起きる」
「根拠は?」
「もし失敗したら……」
「成功する」
「俺が信じてる。でももし、そんなことがあったら俺もそっちに逝ってやるよ」
凪は泣きながら笑った。
「……ありがとう」
夕焼けの中、俺たちは初めてちゃんと抱きしめ合った。
三年前は掴めなかった手を、今度は離さないようにして……。
——数日後。
病院の白い廊下。手術室のランプが赤く灯っている。ストレッチャーに横たわる凪は、少し緊張した顔で俺を見る。
「優くん」
「なんだ」
「『またね!』、次は手術後に会お!」
三年前と同じ言葉。でも今度は意味が違う。俺は笑った。
「ああ、またな」
ドアが閉まる。赤いランプが静かに光る。俺は拳を握った。今度はもう、待つだけじゃない。信じる。蝉の声は聞こえない。
代わりに、心臓の鼓動だけがやけに大きく響いていた。
……手術は、これから始まる。




