第三章:【ずっと前から】
今、俺の胸の奥にはぽっかりと穴が空いている。ベッドに仰向けになり、天井を見つめる。白すぎる天井が、やけに遠い。
「優くんとは、付き合えない」
あの言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
三年前。
『またね!』
「あれはなんだったんだよ……」
俺は自分の拳を強く握りしめた。そしていつの間にか、俺の目からは涙が溢れていた。止めようとしても、指の隙間から零れ落ちるみたいに、次から次へと流れていく。
「……くそ」
声が震える。情けない。昨日、あんなに強く言ったくせに。
『俺は凪といるのが幸せだって言ってたんだろ!』
あれは本音だった。三年前と変わらない。
「それなのに……」
『優くんとは、付き合えない』
あの言葉だけが、何度も頭の奥で反響する。『好きだ』と言った。今でも好きだと言った。
「なのに、どうしてなんだよ……」
理解しようとすればするほど、わからなくなる。俺は悲しみを抱えたまま、涙に溺れるように眠りへ落ちていった。
翌日の学校の放課後。
俺は一人で、家に帰るために廊下を歩いている。いつもは零と帰っているのだが、今日は話す気力が湧かない。その時、後ろから声が聞こえた。
「優……」
神谷零。
「なんだ?」
できるだけ普通を装う。でも声が少し掠れている。零はしばらく黙って、俺の隣に立った。
「お前、無理してるだろ……」
俺は少しだけ黙る。
「……してねぇ」
「してる」
短い沈黙。蝉の声が、やけに遠い。その時、零が口にする。
「なぁ、優」
零の声がいつもより低い。
「明日の放課後でいい。だから、屋上に来てくれ」
その声は少し優しく聞こえた。
「別に……今からでも行けるぞ」
俺は弱々しい声で言った。
「今のときお前は相当メンタルにきてるように見える」
「だから大丈夫だって」
「お前が良くても私が許さん。とりあえず今日はいっかいしっかり頭の中を整理しろ。そして明日放課後に来い。伝えなくちゃいけないことがあるからな」
零はとても真剣な顔で言った。零のあんな顔は久しぶりかもしれない……。
「お前がそこまで言うなら分かった。じゃあ明日、屋上に行く…」
「……分かった。それじゃ明日な」
そして零は俺のことを察してくれたのか、俺たちは別々に帰った。
自分の部屋。
制服のままベッドに倒れ込み、スマホを開く。
凪とのトーク画面。最後の一メッセージは転校してきた日の夜のメッセージで止まっている。三年間、あんなに大事にしてきた時間が、今はただの履歴みたいに並んでいる。その時、一つの疑問が俺の頭をよぎる。
『私、優くんのこと今でも好き……』
『でも、だからこそ付き合えない……』
『時間を奪いたくないの』
凪の咳。
そして零の言葉を思い出す。
『伝えなくちゃいけないことがあるから』
嫌な予感が、形を持ち始める。考えるな。考えたくない。俺はスマホを伏せた。けれど、眠ろうとしても目は閉じられない。もし凪が、俺の知らない何かを抱えているとしたら?
「……やめろ」
怖い考えが喉元までせり上がる。気づけば、夜が更けていた。そのまま眠りに落ちる。
夢を見た。三年前の校舎裏。笑っている凪。でもその姿が、だんだん透けていく。
「待ってくれ……!」
手を伸ばす。届かない。目が覚める。朝だった。
俺の体は汗でびしょびしょだった。俺は荒い呼吸を整えながら、ベッドの上で天井を見つめた。
胸がざわついている。嫌な汗が引かない。スマホを見る。朝の六時。
「やはり昨日の考えは正しいのか……?」
俺は怖くなり、これ以上何も考えないようにしながら学校へ向かった。
だがその日一日、授業の内容は一つも頭に入らなかった。凪は教室にいた。いつもの通り、笑っていた。でも時々、苦しそうに息を整えている。そのたびに、胸が締め付けられる。俺は何も聞けなかった。勇気が出なかった。そんなことを考えていたら放課後になっていた。
屋上。
屋上のドアを開けると、フェンスにもたれかかったまま空を見ていた零がそこにいた。
「……一つ聞く」
唐突に零が口にした。
「お前は凪のことどれくらい好きだ?」
「は?」
俺はポカンとする。
「どれくらいって……」
そんなこと言えるわけないだろ、と言いかけて言葉が止まる。
零はまっすぐ俺を見ている。逃げ道のない目だ。
「……三年間待ったくらいだ、わかるだろ……」
零は少し黙った。
「『三年間待った』くらいなら……言うぞ」
風が吹く。フェンスが小さく軋む。
「もし凪が、もう長くいないと言われたらどうする?」
心臓が、止まった気がした。
「……」
聞き間違いだと思いたかった。でも昨日と今日で確かに少しはそう思ってしまう自分がいた。
「何言ってんだよ、そんなわけねえだろ……」
俺は否定することしかできなかった。だが零は今までで一番真剣な顔をしていた。
「三年前、凪が島に行った理由。それは親の仕事じゃない……」
その一言で、全身の血の気が引く。
「……じゃあ何だったんだよ」
零は一度目を閉じて、ゆっくりと吐き出す。
「不治の病だったんだ」
「しかも当時、余命は半年もないと言われていた」
頭が真っ白になる。その時、一つの疑問が頭の中を駆け巡った。
「お前の言っていることが正しいとしたら、なぜあいつは今ここにいるんだよ」
零は考え込んで言った。
「あくまで憶測だが、何らかの理由で余命が伸びたんじゃないかと思う」
「詳しくは知らないのか?」
「すまん、詳しくは聞くことができなかった」
「……そうか、じゃあ病気が治ったという考えはないのか?」
「今までの凪を見れば……わかるだろ」
俺は黙ることしかできなかった。零の言う通り、心当たりはあったからだ。
「凪……なんで教えてくれなかったんだよ……」
拳を握る。
「知ったらお前を『不幸にしてしまうから』だってよ」
胸が痛くなった。
「『時間を奪いたくない』って言ってただろ」
あの言葉が、ようやく確信に変わった。俺の時間。俺の未来。それを奪いたくないから、付き合えない?
「……ふざけるな」
「俺の時間は俺が決めるだろ」
震える声で言う。零の目が揺れる。心なしか零も寂しそうな顔をしている気がした。
「じゃあ、お前は今凪がいなくなっても笑って見送れるか?」
言葉に詰まる。凪がいなくなる未来。考えただけで、胸が裂けそうだ。
「それでもだ……」
俺は顔を上げる。
「あいつが今苦しんでいるなら、俺はあいつの隣にいたい!」
零は呆れた顔をして言った。
「お前ならそう言うと思ったよ……」
「でも、お前はなんで教えてくれたんだよ。凪のことだ、お前に口止めくらいしてるはずだ……」
零の声は、風に紛れそうなくらい小さかった。
「好きだからだよ」
「は……?」
「三年前から、ずっと」
零の声は震えている。
「お前が凪のことで泣いてるの、ずっと隣で見てきた。笑ってるのも、落ち込んでるのも」
唇を噛む。
「私だって、一度くらい選ばれたかった」
その一言が、胸に重く落ちる。
「でも、お前があいつを見る目を知ってる」
涙が零の頬を伝う。
「だから、せめて後悔だけはさせたくなかった」
俺は言葉を失った。その時、俺は理解してしまったのだ。三年間。ずっと、隣にいたのは零だった。俺の目からも涙が溢れた。
「ごめんな、お前のこと、全然理解できてなくて……」
「謝らないで、優……。私はあなたの笑っている姿を見ていたいから言ったのに、これじゃ意味ないじゃん」
零は笑いながらそう言った。そして零は続けて口にした。
「優、今あなたが『すべきこと』はわかるでしょ」
俺の頭の中には一つしかなかった。
「凪のもとに……行く」
「だったら今からでも行ってこい。今ならまだ間に合うから」
零はただニコッと笑っていた。その姿を見ると胸がとても痛くなる。それでも、俺は行くしかなかった。そして俺は零に背を向け、屋上を去った。行き先は決まっている。凪のいる場所へ……。




