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無能と罵られ追放された天才軍師、敵国で英雄になる ~追放した王国が、今さら停戦を求めて土下座してきても遅い~  作者: レモンティー


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第九十五話 村人たちは俺を英雄と呼んだが、母だけは昔の名前で呼んだ

母は村の家の戸口に立っていた。

シリウスが礼をしようとすると、母はその額を指で軽く弾いた。

「そんな挨拶、誰に習ったの」

彼は十年ぶりに子供のように肩をすくめた。

母は鎧の留め具を見て、「重そうね」と言った。

戦功も階級も、母の目にはただの荷物だった。

台所には、幼い頃に使っていた欠けた木椀が残っていた。

シリウスが驚くと、母は平然と答えた。

「捨てる理由がなかったから」

温め直した麦粥を口に運ぶと、帝国の宮廷料理よりずっと薄い味がした。

それなのに、二口目から喉が詰まった。

母は何も聞かず、水を置いてくれた。

食後、母はようやく尋ねた。

「戦争で、怖かったことは」

シリウスは答えを選べなかった。

敵の大軍でも、暗殺者でもない。

自分の命令ひとつで、誰かが帰れなくなることだった。

そう告げると、母は長く黙り、「怖いと思えるうちは、人の話を聞けるわ」と言った。

英雄を褒める言葉ではなかった。

それがありがたかった。


翌日、村人たちは記念碑を建てる相談を持ちかけた。

シリウスは断ったが、母が口を挟んだ。

「この子の像なんか建てても、冬の寒さは防げないよ」

代わりに、壊れた学校の屋根を直し、戦死者の子供も学べるようにしようと提案した。

村長が費用を心配すると、シリウスは帝国からの褒賞金の一部を差し出した。

ただし、学校の運営は村の合議で決め、寄付者の名を掲げないことを条件にした。

翌朝、彼は次に帰る日を紙に書き、母の台所の壁へ貼った。

守れるか分からない約束ではなく、守るために予定を変える約束だった。

母は食卓に皿を二枚置いた。

シリウスが「もう一人来るのか」と尋ねると、「昔の癖よ」と答えた。

父が生きていたころ、帰りが遅くても皿を下げなかったという。

シリウスは戦場で数え切れないほどの死者名簿を見てきたのに、目の前の空の皿には言葉が出なかった。

「英雄になったそうね」と母が言った。

「でも、あの冬に一度も便りがなかったことは忘れていないよ」

「知らせれば危険が及ぶと思った」

「それを決めたのは誰?」

シリウスは答えられなかった。

人を守るつもりで、相手から選ぶ権利を奪っていた。

戦場で繰り返し戒めた過ちを、母には犯していたのだ。

食後、母は棚から古い木箱を出した。

幼いシリウスが書いた、拙い字の地図が入っている。

村の井戸、畑、川、橋。

端には『ここを守る』とあった。

「お前は昔から、全部自分で守ろうとした」と母は笑った。

「今度は誰かに手伝ってもらいなさい」


翌日、シリウスは村の子供たちと井戸の位置を測り直した。

新しい地図には、昔の紙になかった学校と診療所が描き込まれた。

母はその横に小さな字で『帰ってくる家』と書いた。

別れ際、母は古い手袋を彼の鞄に押し込んだ。

『また寒いところへ行くんでしょう』

シリウスは予定を書いた紙を指さした。

母は『遅れるなら先に知らせなさい』と返す。

戦場では何千もの伝令を走らせた男が、ようやく一通の便りの重さを知った。

母はシリウスが持参した高価な布を見て、「こんなものを買うお金があるなら、村の診療所へ薬を送って」と言った。

シリウスは思わず笑ったが、母は真顔だった。

「あなたが帰るまで待てた私は運がよかった。待てなかった家もある」


翌朝、彼は診療所で不足する薬の一覧を取り、輸送の手配をした。

母はそれを見て初めて頷いた。

「今度は手紙も忘れないで」

大将軍への命令ではなく、息子への頼みだった。

母は彼が持参した高価な薬箱を見て、首を振った。

『村の診療所に足りない薬があるのに、私だけ特別扱いかい』

シリウスは返事に詰まった。

軍では必要な物資を優先順位で配ってきたのに、母の前ではその原則を忘れていた。

翌朝、彼は診療所の在庫を確かめ、母の薬も同じ手順で手配した。

母はようやく笑った。

『そういうところは、昔と変わらないね』

夕食のあと、母は古い木箱から束ねた手紙を取り出した。

宛名はどれもシリウスだったが、封は切られていない。

「送らなかったの?」

「送る場所が分からなかったんだよ。王国ではあなたの名前を口にするなと言われたから」

彼は一通を開いた。

書かれていたのは村の天気、井戸の修理、隣家に生まれた子のこと。

戦況を尋ねる言葉は一つもなかった。

「大したことは書いてないよ」

「それが知りたかった」

シリウスは読みかけた手紙を膝に置いた。

帝国では勝利の報告が次々と届いた。

だが母がどんな冬を過ごしたか、彼は一度も聞けなかった。

「帰れなくて、ごめん」

母はすぐに許さなかった。

台所の窓を閉め、薪を一本くべてから言った。

「帰れない日があるのは分かる。でも、生きているなら知らせなさい」


翌朝、シリウスは村の郵便を運ぶ商人に頼み、帝国へ戻ってからも手紙が届く経路を確かめた。

軍の伝令網ではなく、誰でも使える便を選んだ。

母はその話を聞くと、やっと笑った。

その晩、母は食器を片づけながら、村の掲示板に貼られた「英雄帰郷」の知らせを指した。

「村長は立派な式をすると言っていたけど、私は断ったよ」

「なぜ?」

「式が終われば、みんな帰る。けれど、橋が壊れたら誰が直すんだい」

翌朝、シリウスは村長と橋の工事場を訪れた。

増水時に橋脚を守る石積みが足りず、職人は材料の到着を待っていた。

王都へ急報を送れば工事は早まるかもしれない。

だが、それではこの村だけが将軍の故郷という理由で優先される。

「隣の村の橋はどうなっていますか」

シリウスが尋ねると、村長は言葉に詰まった。

「同じように傷んでおります。予算が回らず……」

「ならば両方の橋を調べ、危険度で順番を決めてください。私の名を使って先に直してはならない」

母は遠くからそのやり取りを見ていた。

夕食の席で、初めて少しだけ誇らしそうに言った。

「昔のお前なら、誰より先に橋を直してしまっただろうね」

「その方が早いと思っていた」

「早いだけでは、残された人が困るんだよ」

シリウスは返事をせず、翌月も橋の調査結果を送ってもらうよう村長に頼んだ。

帰郷を一日の美談で終わらせないためだった。

「将軍様の命令じゃなくて、息子の約束にしておくれ」

「約束する」

その言葉は、これまで交わしたどの条約よりも短かった。

帝国へ戻る朝、シリウスは門の前で馬を止めた。

母が追いかけてきた。

忘れ物だと言って差し出したのは、幼い頃の木の匙だった。

「こんなもの、どうして」

「お前が初めて自分で作ったものだよ。柄が曲がっているだろう」

戦場で誤差を嫌ったシリウスは、その不格好な匙を長く見つめた。

「捨てなかったのか」

「使えるものを捨てる理由があるかい」

母は笑った後、急に真顔になった。

「約束した日には帰っておいで。帰れないなら、ちゃんと手紙を」

「分かった」

「『承知した』じゃないよ」

「……うん」

シリウスが馬を進めると、村の子供が橋の工事場で手を振った。

母の家の煙突からは朝の煙が上がっている。

世界を動かす命令を出すよりも、その景色を失わない約束を守る方が、ずっと難しいのかもしれなかった。

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