第九十六話 皇帝が退位し、皇女エリシアが新しい皇帝となった
皇帝アレクシスが退位を決め、エリシアが帝国の玉座を継ぐ日が近づいた。
即位式の前夜、エリシアは王宮の回廊でシリウスを待っていた。
『怖いのです』
彼女はそう言い、貴族たちが用意した祝辞を握りつぶした。
皇帝アレクシスが退位を決めても、古い制度まで一夜で消えるわけではない。
シリウスは『怖くない君主より、怖いと認められる君主を信じます』と答えた。
エリシアは祝辞を拾い上げ、最初の一文を書き直した。
貴族は「平和は弱さだ」と叫んだ。
エリシアは戦没者遺族への未払い金を読み上げ、強さとは約束を守ることだと返した。
新皇帝の即位宣誓には国境で徴税権を乱用した役人の罷免が明記されていた。
だが、罷免の勅令を読み上げた瞬間、財務大臣が席を立った。
「徴税官を一度に解任すれば、冬の備蓄を買う金が入りません。国境の兵にも給金を払えなくなります」
式典の空気が凍った。
エリシアは大臣を座らせず、収入の見込みと備蓄量をその場で読み上げさせた。
数字の足りない欄が二つあった。
「ここは推測ですか」
「……昨年の数字を転記しました」
「では、今日ここで罷免を命じるだけでは足りません」
エリシアは横暴の告発があった徴税所を監査下に置き、現地の徴収を一時停止するよう命じた。
代替の役人を送る期限も定めた。
祝賀の拍手は起きなかった。
大臣たちは新皇帝が自分たちに仕事を増やしたことを理解したからだ。
「私の最初の命令は、誰かを罰して終わる命令にはしたくありません」
その夜、シリウスが執務室を訪れると、エリシアはまだ監査報告の様式を直していた。
「即位の日くらい休めと言われました」
「休むことも仕事です」
「では、この一枚を書いたら休みます」
シリウスは机の端に残った三枚を見たが、何も言わなかった。
皇帝の仕事を奪えば、彼女はいつまでも自分の判断を持てない。
式の後、シリウスは大広間の隅でエリシアに一礼した。
彼女は「明日からも遠慮なく間違いを指摘して」と笑った。
議場では古参貴族が、女性の即位と王国との和平を弱さの証拠だと糾弾した。
エリシアは反論の前に、戦没者の家族へ未払いとなった扶助金の額を読み上げた。
『戦争に勝っても約束を守れない国を、強い国とは呼びません』
彼女は財政帳簿の公開、辺境代表の議席、徴税官の不正を裁く監察制度を即位の条件として示した。
拍手はまばらだった。
しかし議場の後ろに立つ辺境の代表は、初めて顔を上げた。
エリシアは忠誠の誓いより先に財政帳簿の公開と辺境代表の議席を認めた。
式の前夜、エリシアはシリウスに「私は怖い」と打ち明け、彼は怖さを隠さない君主でいてほしいと答えた。
シリウスは私兵化につながる栄誉を辞退し、皇帝を諫める独立した評議会を支持した。
新皇帝は戴冠後最初の命令で、戦没者遺族への未払い金を支給した。
退位の詔が読み上げられた時、広間には歓声がなかった。
アレクシスは老いを理由に挙げたが、実際には和平後の新しい制度を次の世代へ託すためだった。
シリウスは玉座の脇で、皇帝が指先をわずかに震わせているのを見た。
退く決断もまた、戦う決断と同じほど重い。
即位式の前夜、エリシアはシリウスを呼んだ。
「私が間違えたら、止めてくれる?」
シリウスは即答しなかった。
「止められる仕組みを作ります。私がいなくても、誰かが止められるように」
エリシアは苦笑した。
「相変わらず、優しい言葉を選ばないのね」
しかし、机の上の新しい勅令には、諮問会議の議事公開と異議申し立ての手続きが書き込まれていた。
式当日、地方から来た代表の一人が列を乱した。
戦災地の農婦だった。
彼女は衛兵に押し戻されながら、「新しい皇帝なら、焼かれた村の話を聞いて」と叫んだ。
エリシアは儀礼を中断し、彼女の名と村を尋ねた。
広間がざわめいた。
式典の順序を破るのは前例がない。
エリシアは答えた。
「前例がなかったから、声が届かなかったのです」
農婦は涙を拭いながら、焼け残った土地の地図を差し出した。
戴冠後、エリシアは最初の勅令に署名した。
戦災復興費を地方へ配分するだけでなく、支出先と進捗を公表し、住民が監査できる仕組みを設けるものだった。
祝宴ではなく、被災地の代表との会議が続いた。
アレクシスはその様子を遠くから見守り、「私なら式を終えてから聞いただろう」と呟いた。
シリウスは「だから、次の時代なのです」と答えた。
夜、エリシアは冠を外して机に置いた。
「思ったより重いわ」
シリウスは笑った。
「軽いと思った日が来たら、誰かに相談してください」
彼女は頷き、翌朝の議題を書き始めた。
退位したアレクシスは玉座から降り、娘へ一言だけ告げた。
『私のやり方を守る必要はない』
エリシアは深く礼をした。
式の後、シリウスが祝意を述べると、彼女は『明日からは遠慮なく間違いを指摘して』と笑った。
シリウスは『そのための記録と議会です』と返した。
二人とも、善良な君主一人の気持ちだけでは国を守れないと知っていた。
即位式の前夜、エリシアは父アレクシスの執務室を訪ねた。
机には退位の勅書と、未決裁の嘆願書が積まれていた。
「この国は私が思っていたよりも多くの声を聞き逃してきたのですね」
父はしばらく黙り、「私もすべては聞けなかった」と答えた。
「ならば、どうすれば」
「聞こえなかった声が、届かなかったと分かる仕組みを作れ」
翌朝、エリシアは華やかな演説の前に一つの布告を読み上げた。
辺境からの請願は貴族の紹介がなくても受理する。
却下するときは理由を記録し、本人に返す。
広間には戸惑いが走った。
華々しい勝利を語ると期待していた貴族には、地味すぎる布告だった。
シリウスは玉座の横で、若い皇帝の指先がわずかに震えているのを見た。
エリシアは目を逸らさなかった。
式のあと、古参の大臣が「陛下、民は期待しすぎます」と忠告した。
エリシアは頷いた。
「期待に応えられない日もあるでしょう。そのとき、黙って扉を閉じる皇帝にはなりません」
父から譲られた王笏は重かった。
彼女はそれを飾り棚に置き、最初の請願書を自分の手で開いた。
最初の政務会議でエリシアは辺境代表に発言を求めた。
代表は震える声で、徴税官の横暴を訴えた。
貴族が遮ろうとすると、新皇帝は議事録にその遮りも記すよう命じた。
即位の美しさは式典にあったのではない。
翌朝から、昨日まで届かなかった声が届くことにあった。
即位から三か月後、北部の村から税の減免を求める請願が届いた。
大臣は前例がないと退けようとしたが、エリシアは積雪量と収穫の記録を取り寄せた。
村の困窮は数字に現れていた。
彼女は減免を認め、同時に翌年から同じ基準をすべての村へ適用するよう命じた。
「私が気に入った村だけ助けるのでは、昔の宮廷と変わりません」
その言葉を記した書記は、まだ若い皇帝が何を恐れているのか、ようやく理解した。
即位式の朝、国境の役人から税の減免を求める請願が届いた。
新皇帝を祝うための減税なら簡単だ。
だが、それでは来年の橋の修理費がなくなる。
エリシアは祝いの勅令を取り下げ、被災した村だけに期限付きの免除を出した。
『人気のある命令より、説明できる命令を選びます』
若い書記官はその言葉を最初の勅令控えに残した。
即位式の三日前、辺境から届いた請願書には、十二人の名前があった。
徴税所に家畜を取り上げられ、冬を越せない家族の名だ。
財務大臣は書類を伏せた。
「陛下。即位式の直前に徴税官を処罰すれば、貴族院は式を欠席します」
「欠席した者の席は、空席のまま残してください」
エリシアは答えた。
「でも、十二人の名を隠したまま式を迎えることはできません」
シリウスは横から助言しなかった。
彼女が自分の言葉で決める必要があった。
翌朝、貴族院の議長が訪れた。
「陛下の判断が誤りだった場合、誰が責任を取るのです」
エリシアは請願書の裏に、自分の署名と日付を書いた。
「私です。だから監査結果も公開します。処罰が誤りなら、私の署名を証拠にして訂正してください」
議長はその場で反論できなかった。
即位の祝賀が終わる前に、辺境の徴税所から早馬が届いた。
監査が始まったと知った徴税官が、証拠の帳簿を川へ投げ捨てようとしたという。
エリシアは近衛兵の派遣を求める声を制した。
「まず、そこに住む人々の証言を守ってください。兵を送って脅せば、今度は私の名前で沈黙させることになります」
彼女は監査官に、帳簿の写しと住民の証言を別々に保全するよう命じた。
シリウスはその命令を聞き、初めて彼女が自分の助言を必要としない瞬間を見た。
即位式当日、空席は七つあった。
だが、遠い辺境から来た十二人の代表が、初めて傍聴席に座った。
式が終わった後、エリシアはシリウスに尋ねた。
「私の決定は、正しかったでしょうか」
「まだ分かりません。冬が終わって、十二の家に火が灯っているかを確かめましょう」
彼女は頷き、祝宴より先に、現地へ送る監査官の名簿を開いた。
新皇帝の最初の布告には、先帝の功績を称える言葉と並んで、宮廷の支出を公開する期限が記された。
祝辞を期待していた貴族は顔を曇らせた。
エリシアは署名を止めなかった。
父の時代を継ぐことは、父と同じ判断を繰り返すことではなかった。




