第八十六話 俺は皇帝に、王国を併合すべきではないと進言した
謁見の間には、帝国の歴代皇帝が広げた領土を示す大地図が飾られていた。
皇帝アレクシスはその前に立っていた。
「議会の採決を止めたそうだな。お前は勝った国に何を求める」
シリウスは王国の地図ではなく、二枚の試算表を差し出した。
一枚は併合後の税収。
もう一枚は橋の修復、畑の再開墾、帰還兵の保護、駐留費、反乱鎮圧費まで含めた戦後三年間の見通しだった。
「領土は手に入っても、平和は買えません」
重臣の一人が反論した。
「王国を自由にすれば、また刃を向けてくる」
「その危険はあります」
シリウスは否定しなかった。
「だからこそ、軍備の上限と国境監視を定めます。ただし監視する側も約束を守らねばならない。帝国軍が勝手に村へ入れば、条約は初日で意味を失います」
「お前は帝国の勝利を安く売るのか」
皇帝が問う。
「いいえ。勝利を次の戦争に変えたくないのです」
アレクシスは椅子に戻り、指で肘掛けを叩いた。
甘い理想ではなく、守れる仕組みを示せという沈黙だった。
シリウスは提案書を開いた。
「王国の自治を認め、双方が参加する共同監視団を置きます。兵数と補給倉庫を定期的に確認し、兵の移動は事前に通告する。報告は両国で公開します」
皇帝は地図に二つの駒を置いた。
一つは帝国軍、もう一つは王国の残存兵だ。
「自治を認めれば、こちらの兵を退かせることになる。裏切られたらどうする」
「違反の疑いがあれば、まず共同監察官が確認します。期限を定めて協議し、それでも解決しなければ条約に沿って対応する。監察官が帰った後も、住民が知らせを届けられる窓口を残します」
ガイルが腕を組んだ。
「それでも裏切る者はいる」
「はい。信頼できないから、互いに確かめる仕組みを作るのです」
重臣の一人が顔をしかめる。
「敵国に帝国軍の配置まで見せるのか」
「一方だけが調べる仕組みでは、王国は占領と感じるでしょう。公開する範囲は条約で定めます。帝国側の安全も守りながら、互いに違反を確かめられるようにします」
エリシアが補足した。
「学校と市場が国境をまたげば、戦争で失うものを両国の民が知ることになります」
シリウスは続ける。
「通商路を開き、関税の変更には事前通知を義務づけます。紛争が起きたとき、武力行使の前に使節が調べる道を残したいのです」
皇帝は財務官に尋ねた。
「監視所の費用は、占領軍を置くより少ないか」
「試算に一日いただきたく存じます」
アレクシスは即答せず、翌日まで判断を保留した。
翌日、財務官は二つの見積もりを提出した。
占領案の費用は、共同監視案を大きく上回っていた。
だが、財務官自身が異議を述べた。
「併合しなければ、復興費だけを帝国が負担することになりかねません」
シリウスは王国側の税収見通しを示した。
「無償にする必要はありません。ただし、返済のために農民から種麦を奪えば、来年の収穫も税収も失われます。返済額は復興の進み具合に合わせて見直すべきです」
皇帝は頷いた。
「費用だけで国を売り買いするわけにはいかん。王国の民は何を望んでいる」
「だから住民の意思も聞くべきです。王国各地の代表を使節団に加えてください」
アレクシスは使節団の構成を見直すよう命じた。
「それで再び戦争になったら、責任は誰が取る」
シリウスは目を逸らさなかった。
「私の提案として記録してください。失敗したとき、何を見落としたか検証できるように」
「褒美を求めず、責任だけ引き受けるか」
皇帝は小さく笑った。
「だが、お前一人が責任を負えば済む話ではない。帝国の民にどう説明する」
「戦費を払った人々には、領土ではなく国境の安全と交易の回復を示します。三か月ごとに交易量と国境での衝突件数を報告し、半年後に最初の実績を検証します」
「数字が悪ければ?」
「原因を公開し、監視や協議の方法を改めます。三年ごとには制度そのものを再審査します」
アレクシスは提案書を閉じた。
「反対意見も添えて議会へ出せ。共同監視団、住民の救済窓口、違反時の協議期限を条約案に盛り込んで検討させよ」
シリウスは頭を下げた。
皇帝はまだ、王国の自治を認めたわけではない。
だが、領土を分ける以外の道を、正式に検討するよう命じたのだ。
会議の後、ガイルが声をかけた。
「お前はまた、難しい道を選んだな」
「簡単な道を選んだ結果、兵を送り直すことになれば意味がありません」
窓の外には、帝国の旗が風に揺れていた。
併合しない選択は、王国を無条件に信じることではない。
約束が破られたとき、誰が知らせ、誰が調べ、どう止めるかを先に決めることだった。
シリウスは議会へ送る提案書を抱え、謁見の間を後にした。
その判断が皇帝の正式な決断になるかどうかは、まだ分からなかった。




