第八十五話 帝国の貴族たちが、王国の領土を要求し始めた
帝都の議会には、戦勝を祝う金色の垂れ幕が掛かっていた。
だが机上の地図には、王国の村々が色分けされ、帝国貴族の名が書き込まれている。
領地の分配案だった。
「我々は金を出し、兵を出した。何も得ずに帰れというのか」
一人の伯爵が声を上げた。
貴族たちが求めたのは肥沃な土地だけではない。
橋の通行税、塩の専売権、国境市場の徴収権。
戦費の回収という名目で、新たな負担を住民に課そうとしていた。
シリウスは地図の上の村を指した。
「この村には去年の冬、食料を送っています。住民の半分が戻ったばかりです」
「だからこそ管理者が必要なのだ」
「住民の意思を聞く前に、所有者を決めるのですか」
議場に不満の声が広がった。
「祖国をかばうのか」
シリウスは逃げずに答えた。
「私は帝国の将軍です。帝国の兵が、勝った後の占領地で無駄に死ぬことを防ぎたい。王国の民を守ることと矛盾しません」
彼は兵站官の帳簿を開いた。
駐屯兵一万人の食料、警備費、反乱が起きた場合の増派費。
さらに焼かれた村の復旧費、負傷兵の治療費、国境の橋の修理費を並べる。
「土地を取れば穀物も手に入るとお考えですか。耕す人々が逃げれば、畑はただの土です」
伯爵は鼻を鳴らした。
「勝者が復旧費を負担する筋合いはない」
「では敗者が支払える額はいくらです」
財務官は答えた。
「今の収穫では、要求額を払えば冬を越せません」
数字は拍手を生まなかった。
だが、議場のざわめきは変わった。
シリウスは貴族たちを責めなかった。
戦費を出した者にも、戦死者を出した家にも、説明が必要だ。
「占領の維持費を含めて比較してください。得られる税収より、失うものが大きい可能性があります」
若い官吏が発言した。
「戦費の帳簿には、占領後の治安費が入っていません。私の父も領地を広げろと言っていますが、この数字は無視できません」
シリウスはその指摘を議事録に載せるよう求めた。
反対者の顔を潰すためではない。
数字を残し、後から確かめられるようにするためだった。
休憩時間、エリシアが水を差し出した。
「あなたはいつも、勝利の祝宴で難しい話をしますね」
シリウスは小さく笑った。
「祝宴の後に払う代金の話です」
窓の下では、戦争から戻った兵士が家族と抱き合っていた。
彼らを再び国境へ送り返す勝利なら、何のために戦ったのか分からない。
議会は領土分配案の採決を延期し、現地の実情を確かめることを認めた。
シリウスは分配案に印をつけられた国境の村へ向かった。
家々の半分は焼け、畑には兵の馬蹄の跡が残っていた。
村長は地図を見て言った。
「新しい領主が来るなら、まず井戸を直してほしい。誰の旗が立つかより、水が出るかどうかです」
同行した若い書記は記録を取った。
「議場では、村が空白の土地に見えました」
「地図の白い部分にも、人は暮らしています」
村長は水路も示した。
収穫期には帝国側と王国側の村が同じ水門を使っている。
境界を引き直せば、一本の水路に二つの軍が立つことになる。
現地調査を終えて帝都へ戻ると、シリウスは村長の証言と、井戸・橋・種麦の不足を記した表を議会に提出した。
「民の感情で国策を決めるのか」
議員が問う。
「感情だけではありません。ここで暮らす人々の生活費です」
シリウスは領土の分配に代わる案も示した。
段階的な通商税の配分と復興債。
利益が出るまでの損失も、隠さずに記した。
「今すぐ手に入る土地より、十年後も荷車が通る道を選んでください」
そのとき、一人の貴族が戦死した息子たちの肖像を机へ置いた。
「我が家は二人の跡継ぎを失った。それでも戦利品を求めるなと?」
シリウスは肖像から目を逸らさなかった。
「犠牲を軽んじるつもりはありません。だからこそ、その土地で暮らす別の家族を罰してよい理由にはできません」
「ならば我が家への償いはどうなる」
「遺族への補償は別に議論すべきです。領地を分ければ補償が届くとは限りません」
貴族は賛成しなかった。
だが、復旧費と遺族補償を分けて再計算するため、分配案の採決延期には同意した。
議場は初めて、奪う土地の広さではなく、戦争の費用と復興に必要な年数を議論した。
会議を終えたシリウスは、領土の地図ではなく交易路の一覧を財務官に渡した。
貴族たちの要求が消えたわけではない。
最終判断には皇帝の裁可が要る。
シリウスはその足で、皇帝への謁見を願い出た。




