第八十四話 俺は謝罪よりも、故郷へ帰ることを命じた
復員の名簿を前に、シリウスは一つの空欄で手を止めた。
帰還先の住所がない兵が百人以上いる。
戦火で村を焼かれた者、家族の消息を失った者、そもそも家族のいない者。
彼らに「故郷へ帰れ」と命じても、帰る場所がない。
昨日まで謝罪の列に並んでいた兵たちは、今朝は復員証を受け取るために集まっていた。
だが、一人の若い兵が証書を受け取らずに立っていた。
「俺は敵国の将軍に謝るために来ました。許しをもらうまで帰れません」
シリウスは証書を差し出した。
「君の母親は待っているか」
兵は頷いた。
「なら、まず帰って顔を見せなさい。私に頭を下げるために、母親をもう一日待たせる必要はない」
若者の喉が動いた。
ようやく証書を受け取った手は、剣を握っていたときより震えていた。
シリウスは全員に帰還を命じた。
ただし、帰る場所のない者にまで出発を強制するつもりはなかった。
「行き先を選べない者には、選べる場所を用意する」
軍需官に空き兵舎を一時宿泊所へ転用させる。
セリーナは王国側の役所と交渉し、仮住まいと職業の斡旋を求めた。
パルラは傷の後遺症が残る兵のため、重い荷を運ばずに済む仕事を探した。
片足を失った兵が静かに尋ねる。
「帰れと言われても、帰る場所がありません」
「決まるまで、ここにいていい。治療も続けられるようにする」
書記は復員証とは別に、宿泊、治療、家族捜索の希望を記す紙を用意した。
帰郷できる者には道中の食料を。
帰郷できない者には宿と治療を。
家族の消息が分からない者には、両国の記録を照合する窓口を。
「命令を一つ出せば済むと思っていた」
シリウスが言うと、パルラは首を振った。
「一人ずつ事情が違うんです。戦場で傷つくのは同じでも、帰り方は同じじゃありません」
手続きが始まると、別の問題も見つかった。
復員証を持たない兵が数十人いた。
部隊の記録が焼失し、所属を証明できないのだ。
「証明がなければ食料も旅費も渡せません」
役人の言葉に、シリウスは尋ねた。
「その人たちが昨夜どこで眠ったか、確かめましたか」
役人は答えられなかった。
「同僚二人の証言で仮の帰還証を出そう。後日、残った記録と照合する」
「不正受給の恐れがあります」
「あります。だから照合する。ただし、証書を失った人間に今夜の寝床まで失わせる理由にはなりません」
役人は仮証の欄と翌日の確認窓口を設けた。
宿泊所の入口には、帰還兵と避難民の名簿が別々に置かれていた。
同じ家族でも片方が兵、片方が避難民なら、互いの居場所が分からない。
セリーナは出身村と親族の呼び名を記す欄を作らせた。
「同じ名前の者もいます」と書記官が言う。
「だから、一つの記録だけで家族だと決めない」
その日の夕方、兄を捜す少女に、別の村の同名者が見つかった。
少女にぬか喜びをさせず確認を続け、その翌朝、別の記録との照合で本当の兄の居場所が判明した。
兄妹が再会すると、名簿を作っていた兵士たちは静かに道を空けた。
出発の日、復員兵の列が門へ向かった。
帰還路では帝国軍と王国軍の護衛が同じ隊列に入った。
互いを睨んでいた兵たちも、荷車の車輪が泥にはまると無言で肩を貸した。
「戦場で組ませるのは難しかった連中が、荷車一台で協力するとはな」
ガイルが苦笑する。
「目的が同じなら、命令の言葉も変わります」
シリウスは答えた。
しかし、帰還する者に同じ額の路銀を渡すだけでは足りなかった。
歩けない兵には馬車が必要だ。
財務官が予算不足を訴えると、シリウスは凱旋式に予定されていた飾り旗の費用を削るよう求めた。
兵たちは歓声を上げなかった。
ただ、一台目の馬車が出発したとき、杖をついた兵が窓から故郷の方角を指した。
門前で一人の兵が振り返る。
「将軍、俺はまだ行き先が決まっていません」
シリウスは宿泊所の空きを確認し、頷いた。
「なら、決まるまでここにいていい。家族が見つかるとは約束できない。でも、探す道を閉ざしはしない」
出発前、名簿の最後に一行が加えられた。
『帰還先不明者については、本人の希望を聞き、住まいと職を斡旋する』
故郷のない兵を労役へ回す案は退けた。
シリウスはそこに署名した。
帰郷を命じるより、帰る場所を作る方が難しかった。
戦争が終わったと言えるのは、武器を置いた日だけではない。
兵士が自分の明日を選べるようになった日なのだ。
その夕刻、帝都から急使が到着した。
戦勝の報奨として、帝国の貴族たちが王国領の分配を求めているという。
ようやく帰路についた兵士たちの背を見送りながら、シリウスは報告書を閉じた。
彼らが戻る故郷を、今度は戦勝国が奪おうとしていた。




