第七十九話 国王は王冠を外し、一人で城門を出た
夜明け前、ヴァルバディス三世は王冠を机へ置いた。
金の輪が木に触れ、小さな音を立てた。
「護衛をお付けします」
侍従が申し出る。
「城門の外まででよい。会見の場へは、私一人で行く」
近衛騎士団長オルフェンは首を横に振った。
「陛下。王国軍は降伏しましたが、誰もが武器を捨てたとは限りません」
「分かっている」
王はしばらく考えた。
「ならば城門まで護衛せよ。そこから先は双方の代表が安全を確かめた道を歩く。私のために誰かが死ぬことは、もう望まぬ」
オルフェンは敬礼した。
王の身を守ることと、王の命令に無条件で従うことが同じではないと、ようやく二人は認め合えた。
廊下には、かつての勝利を描いた絵が並んでいた。
絵の中央にはいつも王がいた。
橋を直した工兵も、補給を守った兵も、地図を描いたシリウスもいない。
「この絵を下ろせと命じれば、過去が消えるのだろうか」
王が呟く。
セリーナは答えた。
「消えません。だから記録を残すのです」
城門の内側には、配給を待つ人々がいた。
王を見つけた男が声を上げた。
「うちの息子は、どこへ行った!」
王は立ち止まった。
男の手には、戦場から戻らなかった兵の識別札が握られている。
「今すぐ答えられぬ」と王は言った。
男が唇を噛む。
「だが、探す。名簿を開き、分かることを伝える。私の命令で起きたことから逃げない」
男は道を空けなかった。
王は遠回りをした。
門外では、シリウスとガイルが会見の場所を確認していた。
「罠ではないと言い切れるか」とガイル。
「言い切れません。だから護衛は見える位置に置きます。王にもこちらにも、武器を隠す理由を与えない」
シリウスは武装した兵を遠ざけ、双方の書記官と医師を会見の証人に選んだ。
王が城門を抜けた。
かつて玉座からシリウスを見下ろした男は、今は一人の人間として石畳を歩いてくる。
「シリウス。話を聞いてほしい」
「聞きます。ただし、私一人への謝罪で終わらせないでください」
城門へ向かう廊下で、王は壁に掛けられた歴代の肖像画を見上げた。
どの王も王冠をかぶり、剣か勅書を手にしている。
幼いころ、父王はその列を指さし「王は弱さを見せてはならぬ」と教えた。
王はその言葉を守ろうとし、弱さを隠すために忠告を退け、敗北を隠すために人を罰した。
いま廊下の先に待つのは、弱さを見せたからではなく、弱さを認めなかったために失った国だった。
侍従が外套を持ってきた。
「民衆の前です。せめて紋章のついたものを」
王は首を振った。
「今日は、誰が頭を下げるのか分かればよい」
「陛下が一人で行かれるなら、私は職を失います」と侍従は訴えた。
「ならば私の命令として記録せよ。お前の責任にはしない」
王はそこで言葉を止めた。
かつて同じ言い方で、どれだけの部下に無理な命令を押しつけただろう。
書面に責任を取ると書いても、死んだ兵は戻らない。
「いや、違う。護衛を頼む。お前たちを私の見栄のために危険へさらすべきではない」
近衛騎士団長オルフェンは驚いたように顔を上げ、やがて静かに礼をした。
城門の内側には、王を罵る声だけでなく、引き止める声もあった。
「帝国の前で膝を折れば、王国の誇りが失われる」と叫ぶ貴族もいる。
王は足を止めた。
「誇りとは何だ。王冠を守るために、村の子供を飢えさせることか」
貴族は言葉に詰まった。
「陛下は帝国に利用されます」
「その危険はある。だから会見の記録を双方に残す。私の謝罪と、民の生活を守る条件を、別々に書くのだ」
王は書記官へ命じ、会見場に王国側と帝国側の記録係を一人ずつ置かせた。
謝罪の言葉が後から戦勝の宣伝に変えられないようにするためだった。
門が開く。
石畳には戦で傷ついた兵が並び、端には食糧配給を待つ人々がいた。
王は一人の少年と目が合った。
少年は頭を下げなかった。
ただ空の器を胸に抱えていた。
「名は」と王が尋ねると、少年は答えた。
「名前を言えば、パンが増えますか」
王は何も言えなかった。
王の名を知らなくても腹は減る。
王の謝罪を聞いても、明日の食事は届かない。
その事実を胸に刻み、彼は会見場へ歩いた。
王は頷いた。
彼は広場の端に集まる人々を見た。
戦場から戻った兵、戻らなかった家族を待つ者、配給を求める子供たち。
王冠を外すだけでは、何一つ償えない。
城門を出る前、オルフェンは王に一枚の報告を見せた。
会見場には武器を隠しているかもしれない者が数人いるという。
「危険があれば私が前へ出ます」
王は答えた。
「お前が傷つけば、また私のために誰かが犠牲になる」
オルフェンは首を振った。
「私は王冠ではなく、会見に集まった人々を守ります。警備をなくせば、民も危険にさらされる」
王はその言葉を受け入れた。
自分が責任を取ることと、周囲に危険を強いることは違う。
会見場には武器を預かる場所が設けられ、帝国側の警備兵も同じ規則に従った。
王は初めて、敵味方を分けない安全のために頭を下げるのだと思った。
それでも、頭を下げる相手の顔を見なければ、始められないことがある。
王はシリウスの前で足を止めた。
「あの日、私はお前を無能と呼んだ」
声が震えた。
シリウスは答えず、次の言葉を待った。
王は深く息を吸った。
「私が奪ったのは、お前の地位だけではない。警告を聞く機会を兵から奪った。その責任を、いまさら許してくれとは言えん」
シリウスは王の顔を見た。
かつての謁見の間では、最後まで目を合わせてもらえなかった。
「謝罪を聞くのは私一人ではありません。渡し場で家族を失った人々にも、事実を知らせてください」
王は頷いた。
王冠のない頭が、初めて一人の人間の重さで下がった。
「明日、すべての記録を公開する。私自身の命令も含めて」
「その約束を、ここにいる書記官に残してください」
書記官が紙を差し出すと、王は震える手で署名した。
シリウスはまだ許したとは言わなかった。
だが、王が逃げずに話し始めたことだけは見届けた。
城門の外には、膝をつく王を見物しようとする群衆もいた。
王は衛兵に彼らを退かせるよう命じかけ、手を止めた。
「今日は命令で黙らせる日ではない」
列の端にいた女性が進み出る。
「夫は東の渡し場で死にました。陛下の謝罪で帰ってきますか」
王は答えられなかった。
シリウスも代わりには答えなかった。
女性は王の署名した記録公開の誓約を見て、静かに言った。
「なら、せめて夫がどう死んだのか、嘘のない記録をください」
王は書記官に、遺族が閲覧できる場所と期日を追記させた。
群衆は歓声を上げなかった。
だがその沈黙は、王が初めて逃げずに受け取った声だった。
王は護衛を城門に残し、会見の場所まで歩いた。
帝国側も護衛を離れた場所に待機させた。
互いに無防備を演じるのではなく、会談の場で刃が抜かれないよう距離を決めていた。
会見の席で、近衛騎士団長オルフェンは王の背後に立たなかった。
剣を外し、遺族の列の端に立った。
かつて王命を伝えた者として、彼も質問を受けるつもりだった。
ある父親が「誰の命令で息子は渡し場へ送られた」と問う。
オルフェンは日付と命令番号を答え、写しを差し出した。
王はその紙を受け取り、自分の署名を確かめた。
謝罪を重ねる代わりに、遺族の閲覧を拒まないと約束した。




