第七十七話 国王は、十年間の勝利がすべて俺の功績だったと知った
王の机に、十年間の戦報が並べられた。
王宮の公式記録と、バルザックの馬車から押収した原本。
見比べると、勝利の直前に行われた準備だけが消されていた。
「北方の勝利は、私の突撃命令によるものではないのか」
ヴァルバディス三世は書記官に尋ねた。
書記官は答えず、故マック将軍の副官だったエドガーを見た。
「陛下。突撃命令の三日前、シリウスは敵の渡河点を押さえていました。敵軍が退く道と、我が軍が戻る道を分けて確保していたのです」
「では、私の命令は無意味だったというのか」
「無意味とは申しません。しかし、勝つための条件を作ったのは別の人間です」
エドガーは、マックが生前に書き残した証言を広げた。
『シリウスの助言を王へ届けられなかった責任は、私にもある。
兵の名を失わせるな』
王はその字を知っていた。
勝利の報告を受けるたび、祝杯を掲げた老将の筆跡だった。
「マックは……死ぬ前に、これを残したのか」
「はい。北部の敗戦のあと、名誉を奪われてもなお、事実を残そうとしました」
次の戦報には冬の峠での撤退路が記されていた。
さらに次には、干ばつの年に水場を確保した手順が残っていた。
どれも、王が祝宴で聞いたことのない仕事だった。
「十年の勝利が、すべてシリウス一人のものだったと言うのか」
セリーナが首を振った。
「兵が戦い、工兵が橋を直し、荷車を動かす者が食料を運びました。シリウスは、その力を無駄にしない作戦を立てたのです」
王は初めて、英雄を一人に決めることもまた、記録を歪めるのだと気づいた。
「ならば、私は何をした」
「最終命令を出しました」とセリーナは答えた。
「だから成功した命令だけでなく、失敗した命令にも責任があります」
王の指が、追放状の上で止まった。
あの日、シリウスは川の水位を測ってから兵を渡すよう求めた。
王は測定を命じず、軍師を追放した。
「知らなかった」と言えば済むと思っていた。
だが、知らないままでいることを選んだのは自分だった。
「王国の戦勝記録を、すべて調べ直せ」
書記官が顔を上げる。
「宰相の署名があるものも、ですか」
「すべてだ。功績を奪われた者の名も、失敗を押しつけられた者の名も」
セリーナは念を押した。
「陛下自身の命令書も調査の対象に含めてください」
王は長い沈黙の後、頷いた。
その日の午後、王宮の小広間に、古い戦役に関わった三人が呼ばれた。
エドガー、退役した補給長、そして当時の戦況を記録した書記官である。
三人の証言は最初から一致していたわけではなかった。
補給長は北方の敵軍が退いた理由を「食糧不足」と言い、書記官は「王軍の威圧」と記録していた。
エドガーは二人の間に、黄ばんだ輸送表を置いた。
「敵の食糧が尽きたのは事実です。しかし、偶然ではありません。シリウス殿が雪解けで通れなくなる谷を予測し、こちらの補給路を守りながら、敵の輸送路だけを監視するよう命じたのです」
「敵の荷車を焼いたのか」と王が問う。
「いいえ。逃げ道を塞がず、戦わずに退ける道を残しました。だから敵は飢えたまま突撃せずに済み、こちらも何千人もの兵を失わずに済んだのです」
王は黙った。
華々しい突撃の記録しか読んでこなかった彼には、戦わなかったことを勝利として数える発想がなかった。
書記官が別の帳簿を差し出した。
十年間の戦死者数を年ごとに並べたものだ。
初めの数年には国境での小競り合いによる死者がいた。
だが後半は、兵の配置を変え、村の避難経路を整備し、敵側との交易を保ったことで、大規模な戦闘が起きていない。
「この数字を見たことがあるか」と王が尋ねると、補給長は首を振った。
「軍議ではいつも、戦果が足りないと叱責されました。戦死者が少ないことを褒められた覚えはありません」
王の指が帳簿の上で止まった。
数字の少なさを、成果の少なさだと思い込んでいた。
だが数字の向こうには、帰郷できた兵と、夫を待たずに済んだ家族がいる。
「それでも、すべてがシリウス一人の功績とは言えまい」王はかすれた声で言った。
エドガーは頷いた。
「その通りです。橋を架けた工兵、物資を運んだ御者、退却を判断した隊長たちがいました。シリウス殿の功績は、その人々が働ける仕組みを作り、間違いを報告しても罰せられない道を開いたことです」
王は初めて、功績を一人に集める考えそのものが間違いだったと気づいた。
宰相の名前をシリウスの名前に書き換えるだけでは、また別の嘘になる。
「各戦役の記録を訂正せよ。関わった者の名も、反対意見も残せ」
書記官が筆を取ると、王はさらに言った。
「私が警告を退けた命令書も、同じ場所へ置け。都合のよい頁だけを残すな」
それは赦しを求める言葉ではなかった。
王が初めて、自分の誤りを公文書に残すと決めた瞬間だった。
「含める。追放を決めたのは私だ」
彼は勅令へ署名した。
だが、書記官はまだ動かなかった。
「陛下。この命令を実行するには、原本を王宮だけに置かないことが必要です」
王は窓の外を見た。
配給を待つ列が、城門の向こうまで伸びていた。
「写しを町の代表へ渡せ」
勅令を手渡されたセリーナは、初めて安堵した。
それでも、勅令一枚で飢えた人は救えない。
彼女はその足で穀倉へ向かった。
王の知らなかった十年間を正す仕事は、紙を並べるところからようやく始まった。
ピンと張った沈黙のなか、エドガーは故マック将軍の遺した手帳を開いた。
「この戦果はシリウスの提案による。ただし私が現場で変更した部分もある」
王は顔を上げた。
「すべて、あの男の手柄ではないのか」
エドガーは答えた。
「違います。将軍も、工兵も、撤退路を守った無名の兵も働きました。シリウス殿の功績を奪ったことと、他の者の功績まで彼一人へ集めることは、同じ誤りです」
書記官はその言葉を削らずに記した。
王は長く黙った末、軍功の再調査を命じた。
英雄を一人作るためではなく、消された名前を戻すためだった。
勝利には前線で戦った兵も、補給を支えた人々もいた。
シリウスの策だけで勝ったわけではない。
王がようやく理解したのは、そうした人々を生かすための準備を、誰が続けてきたかという事実だった。
王は最も古い戦報を手に取った。
そこには作戦立案者の欄が空白のまま残っていた。
「誰が消した」
書記官は答えた。
「当時の訂正命令に、宰相府の印があります」
王は自分の印も押されていることに気づいた。
知らなかったと主張するには、あまりに明瞭な署名だった。
エドガーは頭を下げなかった。
「陛下が読まなかった書類を、我々は読んでほしかったのです」
王は紙を伏せ、再調査の対象に自分の裁可も含めるよう命じた。




