第七十五話 王国の近衛騎士団長が、国王の命令を拒否した
オルフェンは部下へ命じた。
「王を守る誓いを捨てたわけではない。王が取り返しのつかない命令を出すのを止めるのも、我々の責務だ」
若い騎士が尋ねる。
「それでも反逆と呼ばれたら」
「私の署名を先に記せ。お前たちを言い逃れの盾にはしない」
夜明け、オルフェンは近衛騎士団を中庭に集めた。
全員が鎧を着けていたが、誰も剣を抜いていない。
「陛下から命令が届いた。施療院の医師を拘束し、シリウス将軍を誘い出せ、と」
若い騎士が息を呑んだ。
病院で妹の薬を受け取ったばかりの男だった。
「命令に従わなければ、反逆罪です」
「そうだ」とオルフェンは答えた。
「だが従えば、何の罪もない医師を人質にすることになる」
彼は剣帯を外し、石畳の上に置いた。
「私はその命令を拒否する。お前たちに同じ選択を強いない。私を拘束して王宮へ連れていっても構わん」
沈黙の後、一人の騎士が剣帯を外した。
次に二人、三人。
最後まで迷っていた若い騎士は、病床の妹の顔を思い出し、震える手で留め金を外した。
王宮から派遣された監察官は激怒した。
「騎士団長、これは謀反だ!」
「違う。城門を開いて敵を招くつもりはない。王宮を襲うつもりもない。ただ、民を人質にする命令には従わない」
オルフェンは自分の印章を監察官に差し出した。
逃亡しない証しだった。
セリーナはその日のうちにシリウスへ書状を届けた。
『近衛は施療院への襲撃命令を拒否した。
だが王都はまだ危険だ』
シリウスは返書に短く記した。
『勇気を見た。
こちらも兵を進めない』
城壁の上にはまだ五万人がいる。
だが、そこに立つ者のすべてが王の命令に従うわけではなくなった。
近衛騎士団長オルフェンは民衆への発砲命令を拒んだ。
王宮ではオルフェンを反逆者として捕らえようとする動きが始まった。
オルフェンの拒否は、勇ましい演説から始まったわけではなかった。
彼は命令書を机に置き、騎士たちに一人ずつ読ませた。
誰もが、施療院の医師を拘束せよという一行で手を止めた。
「命令を拒むなら、家族も罰せられます」
副長が言った。
「だから全員に従えとは言わない。ここで去る者を私は責めない」
中庭の端で若い騎士が手を挙げた。
妹が施療院で治療を受けている男だった。
「団長。俺は逃げません。でも、王宮から妹を人質に取られたらどうすれば」
「妹さんを安全な場所へ移そう。君だけでなく、命令を拒む者の家族全員について手配する」
口にしてから、オルフェンはその難しさを悟った。
家族は王都のあちこちに住み、王宮の役人が戸籍を握っている。
騎士団の馬だけでは運び切れない。
そこへセリーナが戻ってきた。
彼女はシリウスから預かった避難路の地図を広げ、施療院と自治会の協力を提案した。
「帝国兵に家族を預けるのか」と副長は疑った。
「違う。王都の人々に守ってもらうの。私たちはその時間を稼ぐ」
翌朝、オルフェンは王宮へ赴き、命令に従えないと正式に申し立てた。
国王の側近は剣に手を掛けた。
「貴様、陛下への忠誠を忘れたか」
「忠誠とは、陛下の命令を何でも実行することではありません。国を守ると誓った以上、病人を盾にすることはできない」
その場で逮捕される覚悟だった。
だが王宮の廊下には、騎士団の若者たちが無言で立っていた。
誰も武器を抜かない。
だからこそ、近衛兵も剣を抜けなかった。
城門へ戻ったオルフェンは、部下に告げた。
「今日、我々は敵に勝ったのではない。守るべきものを間違えずに済んだだけだ」
オルフェンが王命を拒んだ夜、近衛騎士団の詰所では誰も鎧を脱がなかった。
国王の命令を拒絶した者は、翌朝には反逆者として捕らえられるかもしれない。
「団長、我々は何に忠誠を誓ったのですか」
若い騎士の問いに、オルフェンは古びた宣誓書を取り出した。
そこには『王国とその民を守る』と記されている。
王個人への盲従を誓う文言はなかった。
「私は長年、都合のいいところだけ読んでいた」
騎士たちは沈黙した。
団長が弱さを認める姿を見るのは初めてだった。
そこへ王宮の監察官が兵を連れて現れた。
命令は、オルフェンを拘束し、指揮権を副団長へ移すというものだった。
副団長は書面を読み終えると、静かに剣を床へ置いた。
「私は指揮権を受けません」
「お前まで逆らうのか!」
「民を焼く命令のために、部下を使いたくありません」
監察官は周囲を見回した。
騎士たちは剣を抜かなかった。
ただ一歩も退かなかった。
武力で抵抗すれば、国王に反逆の口実を与える。
彼らは拘束される覚悟で、書面による抗議を差し出した。
やがて監察官は引き揚げた。
兵の半数が近衛騎士の家族を王都に残していた。
ここで流血すれば、誰が責任を取るのか分からなかったからだ。
オルフェンは息を吐いた。
「勝ったと思うな。命令はまだ撤回されていない」
彼はすぐに城内の施療院へ伝令を走らせた。
処刑命令が生きている間は、危険にさらされる者の避難が必要だった。
夜明け前、若い騎士の妹が施療院から戻った。
小さな手には薬包が握られていた。
「団長さんも、これを飲んで」
「私は病気ではないよ」
「でも、ずっと怖い顔をしてる」
オルフェンは初めて笑った。
命令を拒む勇気は恐れがないことではない。
恐れていても、守るべき相手を見失わないことなのだと、彼はその子から教わった。
若い騎士は妹の手紙を握っていた。
『薬を飲めたよ』と、たどたどしい文字で書かれていた。
その日、騎士団の台帳には「命令不履行」と記された。
オルフェンは消させなかった。
いつか誰かがこの日を調べるなら、拒否した事実と理由の両方が必要になるからだ。
翌日の巡回で、オルフェンは市場の焼け残った店を見た。
店主は騎士団の馬に飼葉を分けていた老人だった。
『国を守ってくれるんだろう』と昔言われた言葉が胸に残る。
王宮に忠実であることと、国を守ることが一致しなくなった今、彼は初めて宣誓の重さを知った。
騎士団の若者たちにも、自分の判断を押しつけず、拒否の理由を一人ずつ説明した。
オルフェンが命令を拒んだと知り、若い近衛兵が「ならば王宮を制圧しましょう」と進言した。
団長は首を横に振った。
「剣で王を黙らせれば、明日は別の剣が我々を黙らせる」
彼は施療院と穀倉の警備だけを優先し、宮門の兵には攻撃を仕掛けないよう命じた。
部下は歯がゆそうだったが、やがて命令書の末尾に自分の署名を加えた。
拒否を団長一人の反乱にせず、守るべきものを明確にするためだった。
オルフェンは命令を拒んだ騎士の名を隠さなかった。
その代わり、判断を下したのは団長である自分だと記録した。
若い騎士に責任を押しつけて生き残るつもりはなかった。
その夜、近衛騎士団の詰所に一枚の退去命令が届いた。
王都の施療院を閉鎖し、負傷した反乱兵を引き渡せという。
若い騎士が顔を上げた。
「団長、今度も拒むのですか。私たちの家族まで捕まります」
オルフェンはすぐには答えなかった。
家族を危険にさらす決断を、勇気という一言で片づけたくなかった。
「拒否を命じはしない。各自が判断し、その理由を書いて残せ。だが私は施療院の門を開けておく」
副団長は一歩進み出て、命令書の余白に署名した。
「私も残ります。ただし、王宮へ使者を送り、傷病者を引き渡せない理由を正式に伝えます」
夜明け、施療院の前に騎士が立った。
剣は鞘に収めたままだった。
王命に逆らった事実も、そのために誰の命が守られたかも、記録から消さないために。




