第七十三話 王都の民衆は、敵国の大将軍に感謝し始めた
配給を受けた女性が、感謝の手紙を差し出した。
「将軍の名前を掲げれば、明日も配ってもらえますか」
シリウスは手紙を受け取らずに答えた。
「掲げなくても配ります。私を嫌う人にも同じ量を渡してください」
女性は戸惑い、やがて紙を胸元へしまった。
王都の路地に、奇妙な噂が広がった。
「帝国の将軍は井戸を奪わない」
「負傷した王国兵まで治している」
最初は誰も信じなかった。
十年にわたって敵国の恐ろしさを教えられてきたからだ。
パン職人の娘リゼは、配給所で受け取った麦袋の底に小さな紙を見つけた。
『配給は身分を問わない。
苦情は施療院長へ』
署名はシリウス。
「敵の名前が書いてある」
母は紙を燃やそうとした。
だが隣家の老女が言った。
「その名前の人は昔、北の洪水で橋を直させた軍師じゃないかい」
感謝は静かに広がった。
しかし全員が喜んだわけではない。
戦死した兄を持つ青年は配給所の前で袋を蹴った。
「帝国の飯を食えというのか!」
リゼは黙って袋を拾った。
「兄さんが生きていたら、私に飢えろって言うと思う?」
青年は答えられなかった。
翌日、彼は誰にも名を告げず、配給の列で老人の荷物を運んだ。
王宮は『敵に心を売った者を処罰する』と布告した。
配給所に石が投げ込まれ、施療院の窓が割られた。
セリーナは護衛を増やそうとしたが、シリウスは帝国兵だけで固める案を退けた。
「ここは王都の人々の場所だ。守る役目まで奪ってはいけない」
施療院長が自ら見張り役を募ると、最初に手を挙げたのは、配給所で怒鳴った青年だった。
その夜、城壁の向こうに小さな灯りがいくつも点いた。
勝利を祝う灯りではない。
明日も配給を続けてほしいと知らせる、窓辺の灯りだった。
王都の中央広場には、シリウスへの感謝を記した紙が貼られ始めた。
帝国の士官がその様子を報告すると、参謀の一人が言った。
「これは好機です。民衆の支持を得れば、王宮は自壊します」
「その紙を軍の宣伝に使うな」
シリウスの返答は早かった。
「助けられた人が礼を言うのは自由だ。だが礼を言わなければ次の食料が届かないと思わせた瞬間、私たちは王宮と同じことをする」
士官は恥じ入って頭を下げた。
シリウスは叱責を続けず、配給の手順を一つ変えた。
受領者の名前を帝国側の名簿には残さず、数量だけを記録する。
王宮に名簿を奪われれば、配給を受けた人々が処罰されるからだ。
しかし、匿名にすれば不正受給を防ぎにくくなる。
施療院長は悩んだ末、地区ごとに色の違う木札を配り、同じ日の受け取りを一度だけ確認する仕組みを考えた。
「完璧ではありません」と院長は言った。
「完璧な制度を待つ間に人が飢える。欠点が分かっているなら、直していけばいい」
その日の午後、配給所へ石を投げた青年が拘束された。
彼の兄は帝国軍との戦いで死んでいた。
青年は地面を睨み、謝罪を拒んだ。
「俺はあんたを英雄とは呼ばない」
「呼ばなくていい」
シリウスは答えた。
「ただ、配給所を壊せば、君の隣人も食べられなくなる」
「兄貴は帰ってこない」
「その通りだ。私にできるのは、これ以上帰らない人を増やさないことだけだ」
青年は拳を握り締めた。
やがて石を拾い上げ、割れた窓を直す職人のそばに置いた。
翌日、広場の掲示板に新しい紙が貼られた。
『帝国軍は善意で食料を配っているのではない。
王都を奪うためだ』
筆跡は乱れていたが、書いた者の怒りはよく伝わった。
帝国の副官は剥がそうとした。
シリウスは止めた。
「間違いだと言い切れるのか。帝国が王国との戦争に勝とうとしているのは事実だ」
「ですが、将軍は民を助けています」
「その二つは同時に成り立つ。だから、信じろと迫ってはいけない」
セリーナは掲示板の前で足を止めた。
そこには『シリウスを裏切り者と呼ぶな』という紙もあった。
彼女は十年前、自分も同じ言葉を口にしかけたことを覚えていた。
王命に逆らえず、結局何も言えなかった。
「私はあなたを守れなかった」と彼女は呟いた。
「今、守るべき人がいる。それでいい」
「それだけで、許されたことにはならないわ」
「許すために言っているんじゃない。過去を償う仕事は、まだ続く」
午後、配給所で小さな騒ぎが起きた。
王宮の密偵を疑われた女が、群衆に囲まれていた。
女の籠には、食料と王宮への通行証が入っている。
「王宮の使用人だ!」
「配給を盗みに来たんだろう!」
シリウスが到着すると、女は泣きながら訴えた。
病床の父に粥を運びたいが、王宮の台所にはもう何も残っていないという。
「王宮に勤めているだけで、食料を渡さない理由にはならない」
怒っていた青年が言い返した。
「あいつらは俺たちを飢えさせた!」
「責任のある者は調べる。だが父親を飢えさせて、その責任を取らせることはできない」
青年は歯を食いしばり、道を空けた。
女は深く頭を下げたが、誰も礼を求めなかった。
その晩、シリウスは日誌に記した。
『感謝されることを勝利の証にしてはならない。
憎まれる自由を守れない救援は、支配と同じになる』
書き終えると、掲示板を守る見張りの人数を一人増やした。
夜、セリーナは広場の紙を見上げた。
そこには感謝だけでなく、帝国軍を憎む言葉もあった。
シリウスはどちらも剥がさせなかった。
その紙を読んだ人々が皆同じ結論に至るわけではない。
だからこそ広場に掲示板を残す意味があった。
セリーナは剥がれかけた紙の端を押さえ、風に飛ばされないよう小さな釘を打った。
広場の掲示板には翌朝、誰かが小さく書き足した。
『私はまだ帝国が怖い。
でも子どもが食べられたことには礼を言う』
シリウスはその紙を読んで、しばらく動かなかった。
恐れと感謝は同時に存在する。
どちらかを消そうとすれば、書いた人の心まで踏みにじることになる。
彼は配給所の責任者へ、掲示板に貼られた苦情も毎晩写しておくよう頼んだ。
次の配給を良くする手掛かりになるからだ。
その晩、広場には新しい紙が一枚増えた。
『明日もここで話を聞いてほしい』
誰が書いたのか分からなかったが、シリウスはその願いだけは守ろうと決めた。
救援を続ける。
それだけは揺るがなかった。
配給所の前で、王国兵の未亡人がシリウスに向かって泥を投げた。
「夫は帝国との戦で死んだ。あなたに礼など言わない」
護衛が動こうとしたが、シリウスは制した。
「礼を求めに来たわけではありません」
女は泣きながら、配給の列にいる息子を指さした。
「それでも、あの子には食べさせて」
シリウスは頷いた。
女が自分を憎むことと、子どもが食事を受けることは、別の問題だった。
感謝の声が広がる一方で、家族を戦場で失った者は帝国の旗を見ただけで顔を背けた。
シリウスはその苦情も掲示させた。
救援を受けるために感謝を示さねばならない町にはしたくなかった。
その夜、感謝の手紙の隣に、女の苦情も掲示された。




