第七十二話 俺は城を攻めず、王都へ食料を届け始めた
王国側の門番は、配給の袋に帝国の印があることを恐れた。
「受け取れば裏切り者にされる」
シリウスは印を消すよう命じなかった。
代わりに王国の施療院長にも袋数を確認してもらい、双方の控えを作った。
「誰が何を渡したかを隠せば、あとで毒だと疑われても反論できません」
最初の荷車が城門に近づいたとき、城壁の弓兵が一斉に弦を引いた。
「止まれ! 敵国の物資は受け取れぬ!」
門番の声はかすれていた。
その背後で、小さな手が格子の隙間から伸びている。
シリウスは荷車を止め、穀袋を一つ地面に置かせた。
袋の口を開き、粉にした麦をひとつまみ口に運ぶ。
毒を疑われることを見越しての行動だった。
「王国軍に渡す兵糧ではない。施療院の病人と、子どものための食料だ」
門番は答えなかった。
背後の子どもが「お母さんに食べさせたい」と呟いたときだけ、肩が動いた。
問題は受け渡し後だった。
王宮の倉庫へ運ばれれば、民には届かない。
シリウスは施療院長、城内の商人代表、帝国の補給官の三者で数量を記録し、受領印のある札を各袋に縫いつける方法を提案した。
「敵国の将軍の署名がついた食料など、誰が受け取る」
商人代表の老人は厳しい顔をした。
「だから私一人の署名にはしません。あなた方の名前も残す。もし届かなければ、どこで消えたか追えるように」
翌朝、荷車の列は城門ではなく、城壁脇の施療院へ向かった。
兵士の目を盗んで運ぶのではない。
双方の立会人の前で一袋ずつ数えた。
ガイルは遠くからその様子を眺めていた。
「食料を渡せば、敵はもう少し戦えるぞ」
「飢えた子を盾にした勝利なら、必要ありません」
夕方、施療院から返ってきた札には、子ども三百二十一人、病人九十四人に配ったと書かれていた。
シリウスは数を確かめ、明日の荷車を一台増やした。
配給が始まって三日目、帳簿の数字が合わなくなった。
施療院に届けたはずの小麦十袋が消えている。
補給官は王国兵による横領を疑い、護衛を増やすよう進言した。
「兵を増やせば、今度は食料が占領軍の管理下にあると見られる」
シリウスは城内の商人代表と施療院長を呼び、受領票を一枚ずつ突き合わせた。
紛失した十袋は、倉庫へ入る前に記録から消えていた。
「袋を運んだ人間を責める前に、道を見ましょう」
運搬路の端には、荷車の車輪が深く沈むぬかるみがあった。
雨のあとで橋板が外れ、運び手が迂回していたという。
迂回先には王宮の徴収所がある。
セリーナは唇を噛んだ。
「徴収官が施療院の食料まで取り上げたのね」
「証拠が揃うまで断定はしない。ただ、次の荷車にはあなたも同乗してほしい」
翌日、徴収所の役人はいつものように荷を止めた。
だが王国の騎士であるセリーナが受領票を示すと、役人の顔色が変わった。
「これは陛下の命令で――」
「では命令書を見せて。病人の食料を奪う権限がどこにあるのか、私も確かめたい」
役人は答えられなかった。
十袋は奥の倉庫から見つかったが、シリウスは役人をその場で処刑させなかった。
記録を封印し、王都の自治会へ引き渡した。
誰が裁くかまで帝国が決めれば、救援は支配へ変わる。
施療院では、一人の母親が薄い麦粥を冷ましながら娘の口へ運んでいた。
少女は半分だけ食べ、残りを母親へ押し返す。
「お母さんも」
配給の四日目、施療院長から別の報告が届いた。
穀袋は届いているのに、粥を炊く薪が尽きかけている。
井戸の水を煮沸する分まで含めれば、あと二日しか持たないという。
「食料だけ積めば救援になると思っていたな」
シリウスは自分の見落としを認め、補給官と地図を囲んだ。
近くの森を切り尽くせば冬を越す住民が困る。
そこで帝国軍の野営地で余った薪を集め、倒木を運ぶ許可を周辺の村長から得た。
村へは代金を支払う。
無償で提供させれば、王国軍の徴発と何も変わらない。
補給官は帳簿を閉じた。
「このままでは遠征費が足りません」
「皇帝へ追加予算を請う。認められなければ、私の指揮方針そのものを問い直してもらう」
「大将軍の地位を賭けるのですか」
「子どもに粥を渡すと約束して、鍋に火がつかないのを見過ごす方が怖い」
しかし城内では別の問題が起きていた。
配給の列に並べない老人や障害のある者が取り残されていたのだ。
商人代表は戸別配達を提案したが、帝国軍の兵が路地へ入ることに住民は反発した。
「運ぶのは私たちがやります」
リゼというパン職人の娘が手を挙げた。
彼女は路地の家々を知っていた。
セリーナは護衛を申し出たが、リゼは首を振る。
「騎士様が一緒だと、扉を開けてくれない家もあります」
セリーナは剣帯を外した。
「それなら荷車を引く係でいい。あなたが先頭を歩いて」
配達の途中、扉の奥から「敵の麦はいらない」と怒鳴られた。
リゼは反論せず、袋を戸口に置こうともしなかった。
代わりに、いつでも受け取れるよう施療院に取り置くと伝えた。
選ぶ権利まで奪わないためだった。
夕暮れ、施療院の鍋に再び火がともった。
シリウスは配給表に『薪』『水』『運搬人員』の欄を増やした。
救援とは、食べ物を届けた瞬間ではなく、食べられる状態になるまで続く仕事なのだ。
シリウスはその光景を見て、補給官に告げた。
「明日の数量は変えない。だが乳児用と病人用を分けよう。袋の数だけで、救えた命を数えたつもりになってはいけない」
配給袋の数は帝国側と王国側で別々に記録した。
どちらかの帳面が消えても、誰に渡したかを確かめられるようにするためだ。
シリウスは「食料を受け取った者に忠誠を求めない」と繰り返した。
翌朝、リゼは荷車の車輪を拭きながら言った。
「明日も来てくれるの?」
補給官は約束をためらったが、シリウスは予定表を見せた。
「天候で遅れることはある。そのときは理由も知らせる」
曖昧な希望ではなく、守れる予定を渡したかった。
初めて薪が届いた日、施療院の炊事係は袋の麦を量り直した。
昨日より少ないと騒ぐ者がいたからだ。
調べると、水分の抜けた麦の重さが変わっていた。
シリウスは重量だけでなく、炊き上がった粥の杯数も記録させた。
帳簿が正しくても腹が満たされなければ意味がない。
炊事係は『数字だけ見ていたら、私も間違えた』と笑った。
その笑顔は久しぶりだった。
施療院長は配給を受けた人々の体調を記録し始めた。
粥を飲めるようになった老人の名前の横に、小さな丸が増えていく。
シリウスは数字を見て、ようやく肩の力を抜いた。
配給開始から二日目、鍋の前で老人が倒れた。
食料が足りないのではない。
空腹が長すぎて、急に食べると身体が受けつけない者がいたのだ。
パルラは粥を薄め、一度に渡す量を減らすよう炊事係に頼んだ。
「少なく見えて、文句を言われます」と係は戸惑う。
「理由も一緒に説明しましょう」
シリウスは配給の掲示に、量だけでなく医師の注意書きを加えさせた。
救援は荷車を城門に通せば終わるものではなかった。




