第七十一話 王都の城壁には、最後の五万人が立っていた
「五万人を、一つの意思を持つ軍と考えるな」
王都を望む丘で、シリウスは斥候長にそう命じた。
城壁の上には兵の列が続いている。
だが「五万人」は王都防衛に動員された人数の概数であり、城壁に五万人全員が並んでいるわけではない。
その内訳を記した報告書も一様ではなかった。
正規兵は一万八千。
残りには地方から集められた農民、職人、少年兵、城壁修理に駆り出された者まで含まれている。
「攻城槌を出せば、門は破れます」とガイル。
「門の内側には市場と施療院がある。突入すれば、武器を持たない者まで巻き込む」
シリウスは地図に三本の線を引いた。
包囲線、負傷者を受け入れる中立地帯、城門から施療院へ続く搬送路。
どれも突入のための線ではない。
「ただし包囲を続ければ、こちらの兵糧も減ります」
補給官の指摘に、シリウスは頷いた。
「三日を目安に交渉する。補給路を分け、徴発に頼らない。長引くなら作戦そのものを見直す」
昼、シリウスは五万人の数字をもう一度確認させた。
正規兵一万八千人のほか、臨時徴募兵、城門の荷役、工事に動員された者が混じる。
斥候の報告には同じ人間が守備隊と労役隊の双方に記された例もあった。
「実数は確定できません」と補給官。
「だからこそ五万人を全員、戦闘員として数えて攻撃してはならない」
シリウスは投降者を受け入れる場所と、戦闘を続ける者を監視する場所を分けた。
交渉が失敗した場合の退却線も地図に残した。
夕刻、城壁から白い布が振られた。
降伏旗ではない。
負傷者を診てほしいという合図だった。
城門の小門から現れた使者は、まだ幼さの残る少年兵だった。
「母が熱を出しています。門を開ければ父が反逆者にされる。けれど、このままでは……」
シリウスは少年に降伏を求めなかった。
「施療院の医師を通すため、小門を一刻だけ開く。王国側の立会人を置き、帝国兵は入らない。条件を読んで、守備隊長に伝えてくれ」
少年は書面を二度読んだ。
「どうして敵の母親を助けるのですか」
「君の母親は、私の敵ではないからだ」
その夜、王国の医師が城内を往復した。
少年の母親は診察を受けたが、熱の原因はすぐには分からない。
さらに施療院の井戸水が濁っていることも判明した。
「薬だけでは足りません。清潔な水が必要です」
シリウスは工兵長を呼び、濾過槽と水桶の修理図面を作らせた。
城内に帝国の工兵を入れれば偵察を疑われる。
そこで図面と道具だけを小門に届け、作業は王国の職人組合へ委ねた。
「攻城のために集めた木材を使うのですか」と工兵長。
「城を壊すためにしか使えない木ではない」
王国の職人組合は図面を受け取ると、帝国の印章が付いた道具の搬入を拒んだ。
「これを使えば、後で内通者だと言われる」
シリウスは道具を押しつけず、王国内にある材料で代用できる箇所を工兵に書き直させた。
井戸の水質は施療院の医師が記録し、修理の結果も王国側が確かめる。
助ける側の都合だけで作業を進めないためだった。
翌朝、城壁の鐘が三度鳴った。
若い副官は攻撃の合図かと身構えたが、望遠鏡の先では兵が倒れた仲間を担架に移していた。
「隊列が崩れています。今なら攻められます」
「負傷者を運ぶ時間だ。投石機は下げろ。ただし見張りは減らすな」
攻めないという決断には、夜襲から味方を守る準備も必要だった。
シリウスは交代制を組み直し、兵の休息を確保した。
夜、少年兵が再び現れた。
「母はまだ熱があります。でも、煮沸した水を飲めました」
少年は礼を言いかけ、口を閉じた。
「あなたは敵の将軍です」
「そうだ。だから私の言葉を無条件に信じなくていい。書いた条件が守られたかを確かめてくれ」
少年は頷き、剣を腰に差したまま城内へ戻った。
彼はまだ降伏していない。
それでも、敵将と交わした約束を自分の目で確かめられた。
シリウスは城壁を見上げた。
五万人という数字の向こうに、五万人分の事情がある。
その事実を忘れた瞬間、命令書は人を殺すだけの紙になる。




