第七話 敵国の皇帝が、追放された俺との謁見を求めた
帝国の国境砦で、シリウスは丸一日、身元を調べられた。
尋問官は王国の軍籍、追放の日付、かつて担当した戦線を一つずつ確認する。
シリウスは答えられることには答え、現役部隊の位置を尋ねられると首を振った。
「現役部隊の配置は話せません。追放されたからといって、部下を売る権利を得たわけではありません。ただし補給の欠陥を見抜く手順なら、ここで示せます」
「帝国へ来てなお祖国に忠義を立てるのか」
「兵を信じて配置した者が、その場所を敵に教えれば、次は誰も私を信じません」
尋問官は筆を止めた。
夕刻、エリシアが持参した村長の証言書と、護衛隊の報告が照合され、シリウスは武装を禁じられた客人として扱われることになった。
帝都からの早馬が到着したのは、その翌朝だった。
皇帝アレクシスの親書には、シリウスを帝都へ招くと記されていた。
砦の隊長は文面を二度読み直す。
「陛下が王国の元軍師を直接お呼びになるとは」
エリシアは肩をすくめた。
「父は、会う前から評価を決める人ではないわ」
帝都への旅は四日掛かった。
道中、シリウスは耕作されない畑と、徴兵のために男手を失った村を目にした。
帝国もまた戦争の代価を払っている。
「この国でも、畑が空いていますね」
「国境の村ほど深刻よ」とエリシアが答えた。
「和平の使節を出したこともある。でも王国の宰相に拒まれた」
シリウスは馬車の窓を閉めた。
バルザックは軍備拡張の予算を握り、停戦が長引くたびに不満を漏らしていた。
王国の政治が何を守ろうとしているのか、今なら違う形に見える。
帝都へ入る前夜、宿場で帝国軍の傷病兵と出会った。
片脚を引きずる若い兵は、シリウスが王国人と知ると食堂から出ようとした。
エリシアが止めるより早く、シリウスは席を譲った。
「俺の顔が嫌なら、離れた席へ行く」
「王国の矢で脚をやられたんだ」
「そうか」
「謝らないのか」
「誰が放った矢かも知らず、俺が代わりに謝れば、君の傷を都合よく使うことになる」
若い兵は怒りに頬を染めた。
シリウスは続ける。
「ただ、治療が足りないなら聞かせてほしい。帝国の軍師になれと言われても、傷病兵を見捨てる軍には仕えられない」
兵はしばらく黙り、やがて言った。
「冬の義足が足りない。工房の鉄が武器に回されるからだ」
エリシアは同行の書記に記録させた。
シリウスはそれ以上、彼を慰める言葉を探さなかった。
言葉より先に直すべきものがある。
宿の外へ出ると、エリシアが言った。
「父はあなたを雇いたがるでしょう。でも、帝国にもあなたが嫌うものはある」
「知っています。だから、雇われるなら条件を付けます」
「強気ね」
「条件を言えない者は、あとで兵に無理を言わせることになる」
彼女はしばらく黙って歩いた。
王国を追われた男が、次の国でも同じ理由で追われるかもしれない。
それでも言うべきことを言うのだと分かった。
宮殿に着くと、官吏が誓約書を差し出した。
帝国へ協力するに当たり、王国軍の秘密を開示するという条項がある。
シリウスは署名しなかった。
「この一文は削除してください。私の技術は提供できますが、王国の現役兵を売ることはできません」
官吏は眉をひそめた。
「それでは陛下の信用を得られない」
「信用を得る最初の行為が裏切りでは、いずれ帝国も裏切ると思われるでしょう」
官吏は無言で書類を持ち去った。
翌日の謁見で、皇帝は玉座を離れ、小さな机を挟んでシリウスと向き合った。
机には西部国境の地図が伏せられている。
「君が署名を拒んだそうだな」
「はい」
「不都合な男だ」
「承知しています」
皇帝は笑った。
「我が軍は君のために三度、大きな作戦を取りやめた。補給路を読まれ、渡河点を封じられ、陽動を見破られたからだ」
「損害を減らせたなら幸いです」
「敵の損害を減らして喜ぶのか」
「こちらの兵も失わずに済みました」
皇帝は伏せていた地図を開いた。
黒岩砦の周囲に赤い駒が置かれている。
「五千の守備兵に対し、敵の連合軍は五万と推定される。どう守る?」
シリウスは即答しなかった。
縮尺を確認し、川、丘、農地、橋の位置を順に追う。
「砦の井戸は何本ですか」
「一本だ」
「予備の貯水槽は」
「古いものがある。使えるかは分からん」
「ならば、最初に調べるのは敵軍ではなく水です。次に穀物庫の位置と、住民が退避できる道です」
皇帝の側近が声を上げた。
「戦い方を聞いているのだぞ」
「兵が水を飲めなければ、戦い方を選ぶ前に負けます」
皇帝は側近を制した。
「では、祖国の兵を殺せるか」
シリウスは少し考えた。
「必要なら戦います。ただ、殺した人数を勝利の証しにはしません。敵を退かせられるなら、退かせる策を選びます」
「王国へ戻りたいと思わんのか」
「そこにいる人々まで憎んだわけではありません。だからこそ、無意味な戦争を止めたい」
皇帝は机の端に置いた封書を取り上げた。
「王国の宰相から密書が来ている。そなたが軍の機密を持ち出したと訴え、引き渡しを求めている」
シリウスは目を伏せた。
予想はしていたが、言葉になると胸が痛んだ。
「私が持っているのは、追放状と私物の地図だけです。地図は公開されている道と水場を書き込んだものです」
「そなたが嘘をついていないと、どう証明する」
「持ち物を調べてください。過去の命令書も照合できます。ただし、現在の王国軍の配置を証明のために明かすことはできません」
皇帝は側近を見た。
「王国が疑う男を、帝国が信用できる理由は何だ」
側近は答えに詰まった。
シリウスが口を開く。
「信用は言葉では作れません。私に任せるなら、まず小さな仕事で確かめてください。失敗すれば責任を負います」
皇帝は封書を机に伏せた。
「大言壮語する者よりは扱いやすい。だが、帝国の兵を危険にさらすなら、わしは容赦しない」
「それで構いません。ただし、失敗の報告を握り潰す者も同じ責任を負うべきです」
側近の一人が眉を上げた。
皇帝はしばらくシリウスを見据え、それから記録官へ向き直った。
「今の言葉も書き留めよ。余が気に入った答えだけを残すな」
シリウスは初めて、この皇帝のもとなら意見の違いを口にできるかもしれないと思った。
「承知しています」
皇帝は地図を畳んだ。
「明日の軍議へ来い。将軍たちの前で同じことを言ってみせよ」
「ひとつ、申し上げてもよろしいでしょうか」
「申せ」
「将軍たちには、私を疑う理由があります。疑問を口にした者を罰しないでください。疑いを押し殺した軍議は、間違いを見つけられません」
皇帝は答えず、記録官にその言葉も書き取らせた。
シリウスが退出すると、エリシアが廊下で待っていた。
「どうだった?」
「皇帝陛下は、答えより質問を聞く人だ」
「気に入ったでしょう?」
「まだ分かりません。明日、将軍たちに嫌われることだけは分かります」
エリシアは声を立てて笑った。
その夜、皇帝は官吏に命じた。
誓約書の条項を削り、シリウスが拒んだ理由を軍議の記録に添えるように、と。
皇帝はさらに、補給帳簿と現地の工兵報告を軍議へ持参させるよう命じた。
「地図だけで語る男なら、そこで分かる」
皇帝はさらに、会議室の入口に護衛を増やすよう命じた。
シリウスを威圧するためではない。
王国出身の男を採用すると噂が広がれば、帝国軍の内部にも反発が起こる。
反対する将軍が発言できる場を守り、密室での暗殺や拘束を防ぐ。
その両方が必要だった。
側近は深く頭を下げた。
皇帝は卓上の報告書を裏返した。
国境の村で支払われた薬代と、シリウスが拒んだ機密開示の条項。
どちらも軍功にはならない。
「この男が本当に有能なら、帝国の不都合も報告するだろう」と皇帝は言った。
「そのとき我々が聞けるかどうかも、試される」
皇帝は補給将校にも発言権を与えるよう命じた。
「数字を隠して勝利を語る将軍がいれば、その場で止めよ」
側近は驚いたが、命令を書き留めた。
皇帝との謁見が終わると、アレクシスは近衛長に小さな封筒を渡した。
「王国から届いた密書だ。あの男の過去を調べろと書いてある」
近衛長は開封を求めたが、皇帝は首を振った。
「先に本人へ見せる。密告だけで処遇を決めれば、王国と同じ過ちを犯す」
呼び戻されたシリウスは、封筒に宰相バルザックの印を見つけた。
「私が補給物資を横領した、と」
「反証できるか」
「帳簿の写しはありません。ですが、輸送を担当した兵と村の受領印なら確認できます」
皇帝は近衛長へ命じた。
「噂ではなく、受領印を集めろ」
謁見の途中、皇帝アレクシスは突然、卓上の王国軍の配置図を裏返した。
「余に忠誠を誓うなら、祖国の秘密を一つ話せ」
衛兵の甲冑が鳴り、室内が静まった。
「それはできません」とシリウスは答えた。
「私は王国から追われましたが、そこで暮らす民まで売るつもりはありません」
「では帝国に何を差し出せる?」
「帝国の兵を無駄に死なせない方法です。こちらの街道、糧食、川幅を調べる許可をいただければ、敵国の秘密がなくても守備計画は作れます」
皇帝は図を元に戻した。
「断れば首が飛ぶと考えなかったか」
「考えました。それでも、ここで秘密を売る男を陛下が信用できるとは思えません」
長い沈黙のあと、アレクシスは衛兵を下がらせた。
「面白い。では、余が与える情報だけで余を納得させてみよ」
その試験に失敗すれば、居場所は失われる。
だがシリウスには、ようやく正面から実力を問われる機会が与えられた。
謁見を終えたエリシアは、廊下で父に追いついた。
「あの人を信じるのですか」。
皇帝は首を振った。
「まだ信じてはいない。だが、間違いを指摘する者を試す機会まで奪えば、余も隣国の王と同じになる」。
皇女はその答えを胸に刻んだ。
退室の前、シリウスは一つだけ願い出た。
「明日の軍議に、補給将校と工兵長も呼んでください。将軍の判断を支える数字が必要です」
皇帝は側近を見た。
側近は困惑していたが、アレクシスは頷いた。
「よかろう。ただし、余に都合の悪い報告でも聞く覚悟をしておけ」
「そのために来ました」
王国では、警告した者が追い出された。
帝国では、警告を聞く席が一つ増えた。
その違いが本物かどうか、試されるのは明日だった。
その夜、砦の記録室で、尋問官がもう一度シリウスを呼び止めた。
「皇帝陛下に会えば、王国軍の弱点を聞かれる。答えなければ疑われるぞ」
「答えられることと、答えてはならないことを分けます」
「その線は誰が決める」
「まず私が決めます。そして、その判断をあなた方が検証してください」
尋問官は机の上に二枚の紙を置いた。
一枚は帝国が公開している街道図、もう一枚は王国軍の内部資料と思われる写しだった。
「後者を使えば、帝国軍の損害を減らせるかもしれない」
シリウスは内部資料に触れなかった。
代わりに公開地図の川沿いを指す。
「街道の幅は、村の荷車が通れるかを調べれば分かります。秘密を盗むより遅い。しかし、誤った情報を信じて兵を死なせるより確実です」
「お前は勝つ気がないのか」
「勝つために、味方に嘘を教えたくないのです」
尋問官は紙を裏返した。
そこには彼自身の署名があった。
内部資料は、シリウスの反応を見るために用意した偽物だった。
「罠だと分かっていたのか」
「分かりませんでした。だから触れませんでした」
その返答を聞いて、尋問官は初めて小さく笑った。
翌朝の報告書には『機密の開示を拒否。
ただし公開情報による代替案を提示』と記された。
疑いは消えていない。
けれど、疑う理由だけでなく、彼がどう行動したかも記録に残った。
謁見の後、監督官はシリウスの地図に赤い印を付けた。
「ここは王国軍の退路ではないか」。
シリウスは筆を置いた。
「現在の部隊配置は示していません。川が氾濫した場合に使える高台です」。
監督官は地形図を取り寄せ、二つの情報を照合した。
翌朝、皇帝へ届いた報告には「機密の提供を拒否。ただし地形分析は再現可能」とあった。
皇帝はその一文に線を引いた。
「拒否できる者に、どこまで任せられるか試そう」。
皇帝は報告書を読み終えると、密偵の提出した地図を火にくべた。
将軍たちが息をのむ。
「陛下、貴重な情報です」
「偽物だと分かっている情報ほど、危険なものはない」
皇帝はシリウスを見た。
「余が王国の村を焼けと命じたら、お前は従うか」
「軍事上の目的と、民を害する必要性を問います。それが答えられない命令なら、撤回を進言します」
「それでも命じたら?」
「私の名を残して異議を申し立てます。責任を誰にも渡さぬために」
皇帝はしばらく沈黙し、やがて側近へ告げた。
「この者に地図を渡せ。だが監督官も付けろ。信頼は試験の終わりではなく、始まりだ」。




