第六話 皇女は俺の名前を聞いて、顔色を変えた
帝国の護衛騎兵がリーネ村へ到着した翌朝も、皇女エリシアはすぐには出発しなかった。
自分を救った男が、なぜ敵国の軍の動きに詳しいのか。
彼女は答えを聞けずにいた。
護衛隊長は国境の追手を警戒したが、傷口を診た施療師は移動を止めた。
皇女は不満そうに唇を結んだ。
だが施療師が傷口の熱を示すと、二日間の静養を受け入れた。
急いで帝国へ戻りたい理由があっても、無理に動けば護衛を危険にさらす。
彼女はその計算を自分で行った。
その間、シリウスは村の井戸の補修を手伝った。
縄が擦り切れ、釣瓶を落としたままになっている。
騎兵の工兵が新しい滑車を取り付け、村の職人が木枠を直す。
エリシアは帳面を開いた。
「これで足りる?」
「修理代は足りる。ただ、明日からの水量を記録しなければ同じことになる」
「お金を払えば済むと思っていたわ」
「直したものを維持する人がいなければ、元に戻る」
皇女は村長を呼び、井戸番の賃金まで含めた支払いを決めた。
シリウスはその様子を見て、彼女が自分の間違いを認められる人間だと知った。
三日目の朝、護衛隊は国境へ向けて出発した。
エリシアはシリウスに同行を頼んだ。
「あなたを助けた人たちの身元が王国に知られたら、村が罰せられるかもしれない。私の護衛が見届けた事実を、帝国の公文書にも残しておきたいの」
「その文書に村人の名前は書かないでください」
シリウスの言葉に、エリシアは目を上げた。
「助けた人の名を残す方が、名誉になると思ったわ」
「帝国ではそうでも、王国では敵国への協力者の名簿になります。支払いの記録は残し、個人名は村長が保管する。公開する記録と守る記録を分けましょう」
エリシアは護衛隊長へ命じ、公文書の様式を書き直させた。
人を守るための記録が、人を危険にさらしてはならなかった。
「俺を連れていけば、帝国の兵が疑う」
「疑わせればいい。調べた上で判断してもらうわ」
シリウスは条件を付けた。
王国軍の現在の配置や暗号は話さないこと。
村への補償を護衛隊長が保証すること。
エリシアはどちらも受け入れた。
出発前、エリシアは村の子供たちに見送られた。
「お姫様なら、雨を降らせてよ」
一人の少年が無邪気に言う。
村長が慌てて叱ろうとしたが、エリシアはしゃがんで目線を合わせた。
「雨は降らせられない。でも、井戸の滑車が壊れたら、今度は誰に知らせればいいか決めておくわ」
少年は首を傾げた。
シリウスが言葉を継ぐ。
「雨は待つしかない。でも、水を無駄にしない仕組みは作れる」
護衛隊長は村への補償状に印を押した。
村長は受け取りを拒みかけたが、シリウスが帳簿を開いて、施療費、薪代、職人の賃金を一つずつ読み上げると、最後には受け取った。
「これだけの兵を連れて、村に何も取らず帰る帝国人は初めてだ」
村長の言葉に、護衛隊長は複雑な顔をした。
帝国側にも、国境の民から食糧を徴発してきた歴史がある。
「次もそうできるとは限りません」
エリシアが答えた。
「なら、次もできるように変えるのが私の仕事よ」
シリウスはその言葉を覚えておくことにした。
権力者が立派なことを言うのは簡単だ。
だが彼女は、費用を払うために自分の宝飾品を一つ外し、護衛隊長へ預けていた。
国境までの道は細く、負傷者の乗る馬車は速度を出せない。
昼過ぎ、先行した斥候が戻ってきた。
「街道の先に武装した男が四人。帝国の制服ではありません」
シリウスは地図を広げた。
「追手の残りかもしれない。だが四人で護衛騎兵には勝てない。こちらを止めて、別の隊が追いつくのを待つつもりだ」
護衛隊長は剣の柄を握った。
「蹴散らします」
「相手が四人しか見えないのが気になります」と斥候が割って入った。
「森に馬の足跡が続いています。数は分かりません」
護衛隊長は顔をしかめた。
正面の四人だけを追えば、皇女の馬車が無防備になる。
「敵の数が不明なら、こちらの目的を変えないでください」とシリウスは言った。
「皇女を帝国領へ届けることです」
「戦う前に、退路を確保してほしい。馬車が橋の上で止まれば、皇女を逃がせない」
シリウスは斥候二人に橋の状態を調べさせ、残りの騎兵を馬車の前後へ分けた。
さらに商人の通る脇道へ一人を出し、通行人が巻き込まれないよう知らせる。
追手は橋の手前で現れた。
隊長格の男が叫ぶ。
「その女を渡せ。お前たちに関係はない」
エリシアが馬車の幕を上げようとしたが、シリウスが止めた。
「あなたが名乗れば、彼らは強引に馬車へ近づくかもしれない。ここは護衛隊長に任せてください」
帝国騎兵は盾を前に出し、道幅いっぱいに並んだ。
追手は突撃を試みたものの、横へ回る場所がない。
短い衝突で護衛の一人が肩を切られた。
シリウスは負傷者を馬車の後方へ下がらせ、橋の向こうに配置した二騎へ合図を送った。
護衛騎兵が前へ出ると、追手は勝ち目がないと悟って森へ退いた。
追撃を命じかけた隊長に、シリウスは首を振った。
森の奥に何人いるか分からない。
「肩の傷を先に見てください。敵を一人捕らえるために、護衛を失うわけにはいきません」
「追わないの?」とエリシアが尋ねた。
「護衛の目的は敵を捕まえることではなく、あなたを無事に運ぶことです」
橋を越えた夕刻、二人は焚き火のそばで食事を取った。
エリシアは乾燥豆の煮込みを口にしながら言う。
「そういえば、シリウス。あなたの姓を聞いていなかった」
「アルヴェルトです」
木匙が椀に当たり、乾いた音を立てた。
「シリウス・アルヴェルト?」
「はい」
「ヴァルバディス王国の軍師……あの、シリウス・アルヴェルト?」
「元軍師です。つい先日、無能という理由で追放されました」
エリシアはしばらく言葉を失った。
「帝国の軍学校では、あなたの作戦を教材にしているの。三年前の北境撤退も、五年前の補給路の切り替えも」
「王国の記録では、宰相バルザックの功績でしょう」
「帝国の斥候は現場を見ていたわ。指示を出したのが誰かも」
シリウスは火を見つめた。
敵国の記録にだけ、自分の仕事が残っている。
笑うべきか、怒るべきか分からなかった。
「あなたは、帝国軍を何度も退かせた。でも村を焼かず、敗残兵を追わなかった。なぜ?」
「追撃で百人倒しても、次の冬に千人が飢えたら意味がない。戦争の後にも人は生きるからです」
エリシアは長く黙った。
エリシアは鞄から小さな帳面を出した。
帝国側で記録された、五年前の国境の出来事だった。
「この年、帝国の村から避難した百二十人が、雪の中で王国軍に遭遇した。王国の記録では敵の補給隊を見逃したことになっている」
「補給隊ではありませんでした。老人と子供ばかりで、馬も一頭しかいなかった」
「あなたは道を空け、兵に毛布を配らせた」
「毛布を渡したのは兵たちです。私は止めなかっただけです」
エリシアは帳面の端を指で押さえた。
「そのとき助かった子供の一人が、今は帝国の医師見習いよ。昨日、この村へ薬を運んでくれた」
シリウスは思わず顔を上げた。
過去の判断が、目の前の負傷者を救う薬になって戻ってきた。
「私は国境の向こうに、顔の見えない敵がいると思っていた」とエリシアは言った。
「でも、昨日助けてくれた村人も、あなたも、顔が見える人だった」
「顔が見えれば戦争がなくなるわけではありません」
「分かっているわ。だからこそ、決める立場の人に顔を見せたいの」
シリウスは彼女の言葉を軽く扱わなかった。
皇女が命じれば兵は動く。
だから一つの命令で失われる暮らしの数も、知っていなければならない。
「父はあなたを『戦わずに国境を守る男』と呼んでいた。会わせたいわ」
「帝国の皇帝に?」
「ええ。ただし、あなたが望むなら」
シリウスは答えを急がなかった。
自分を捨てた祖国を憎んでいるわけではない。
そこに暮らす兵や農民の顔を、まだ覚えている。
「会うだけなら。ただし、王国を売るためには行きません」
「それに、リーネ村の名を功績として公表しないでください。村人は帝国のために働いたのではなく、目の前の負傷者を助けただけです」
エリシアは頷いた。
「村の人が望まない限り、名前は出さない。補償は施療所と井戸の修理という名目で届けるわ」
「それでいい。父が知りたいのは、あなたが何を守る人なのかよ」
翌朝、帝国側の関門が見えた。
門番は皇女に跪き、その背後の王国人に槍を向けた。
シリウスは抵抗せず、小刀を差し出した。
門番は通行記録にシリウスの名を書き、護衛を二人つけた。
「皇女殿下の客人でも、王国軍にいた方を無条件で通すわけにはいきません」
「その判断でいい」とシリウスは答えた。
エリシアは門番を咎めなかった。
自分が命を救われたことと、帝国が国境を守ることは別だと理解していたからだ。
門の内側で、エリシアはシリウスに一枚の控えを渡した。
リーネ村への支払額と、村人の名を伏せた理由が記されている。
「父に問われたら、私が決めたと答えるわ」
シリウスは控えを折り畳んだ。
責任を負うと言う人間が、本当に自分の署名を残す。
その重さを、彼は王宮で何度も見失ってきた。
護衛隊長が渡した通行証には、シリウスの姓が記されていなかった。
「身元を伏せれば、関所での騒ぎを避けられます」と隊長は言った。
「それでは、後で私が名を偽ったことになる。追放された身でも、名前まで捨てるつもりはありません」
エリシアは書記を呼び、正式な姓名と、皇女の保護下にあることを書き加えさせた。
「疑うなら、帝都で正しく調べてもらうわ。隠して通すのは違う」
護衛隊長は渋い顔で署名した。
シリウスはその文面を確かめてから、門へ向かった。
門番は通行証の控えを差し出した。
「帝都へ着くまで、護衛二名が同行します」
「監視でもあるのでしょう」
「はい」
シリウスは頷いた。
信用は与えられるものではなく、積み重ねるものだ。
門が開く。
帝国へ向かう道で、エリシアはシリウスに尋ねた。
「あなたを追放した王が助けを求めたら、戻る?」
シリウスはしばらく答えなかった。
「王に仕えるためには戻りません。けれど、兵や村人が助けを求めるなら、できることは考えます」
「それは帝国への忠誠と矛盾しない?」
「矛盾する日が来るかもしれません。そのときに黙って従わないことを、先に伝えておきます」
エリシアは護衛隊長を呼び、契約書の末尾に一文を加えた。
『民間人の救護を妨げる命令について、異議を述べる権利を認める』。
エリシアはシリウスの名を聞いて、王国の戦報を思い出した。
そこには「戦わずに退いた臆病な軍師」とあった。
だが目の前の男は、自分の安全より村人の避難路を確かめている。
「報告書と、あなたは違いますね」「報告書には書いた人の都合が混じります。だから、今ここで起きたことを見てください」皇女は初めて、その言葉を疑う理由を見つけられなかった。
国境の検問所で、帝国兵はシリウスの名を聞くと筆を止めた。
「王国の軍師なら、我が軍の秘密を探るつもりでは」。
シリウスは持参した地図を机に置いた。
「疑うなら、まずこの地図を預かってください。私が書き加えたのは村の避難路だけです」。
エリシアは口を挟まなかった。
自分の信用を貸す前に、彼自身が疑いに向き合う必要があった。
門をくぐる直前、皇女エリシアが尋ねた。
「あなたを捨てた国と、これから仕えるかもしれない国。どちらが大切?」
「国の名では決められません」
シリウスは通行証を見た。
「私が間違ったとき、止めてくれる人がいる国で働きたい」
エリシアは、その答えを忘れまいとした。
かつて敵と呼んだ国へ、彼は丸腰で踏み入れた。
帝国側の検問所を抜けた後、護衛隊長はシリウスに一枚の誓約書を差し出した。
『帝国軍の作戦に協力し、王国の軍事情報を提供すること』
シリウスは最後まで読み、筆を置いた。
「署名できません」
「王国に追放された身で、なお忠義を尽くすのか」
「忠義ではありません。私が知る配置には、まだ生きている兵士の退路が含まれています」
護衛隊長の目が細くなった。
「では、皇女殿下を救ったのも帝国に取り入るためではないと?」
「そう証明する方法はありません。ただ、命を助けたことと、命を売ることは別です」
二人の間に沈黙が落ちた。
エリシアは誓約書を受け取ると、条文の一部を線で消した。
「王国の軍事機密を求めない。帝国の民を守るための知識と判断については、本人の意思で協力を求める」
「殿下、それでは我々に利益がありません」
「秘密を渡す者は、いつかこちらの秘密も渡すわ。信用したいなら、断る権利を残すべきよ」
護衛隊長は渋々、新しい書面に署名した。
シリウスは筆を取り、今度は自分の名を書いた。
皇女の護衛隊長はシリウスの出自を知ると、剣の柄に手を掛けた。
「王国の軍師を帝都へ連れていく危険を、殿下はご存じか」。
エリシアは護衛を責めず、村で使った補償帳を見せた。
「この人は私に都合のよい数字を書かなかった」。
シリウスも言った。
「疑いが残るなら、私の行動を記録してください」。
隊長は監視役を二人付けた。
信頼とは、疑問を隠して成立するものではなかった。
彼が初めて帝国に差し出したのは、敵国の弱点ではなかった。
自分の判断に責任を負うという約束だった。
エリシアは誓約書を封じたあと、シリウスに尋ねた。
「あなたは王国を憎んでいないの?」
「王の決定は許せません。ですが、王国の村に住む人々まで憎めば、私は王と同じ間違いをします」
「帝国の兵が、その村へ進む日が来たら?」
答えは簡単ではなかった。
シリウスは少し考えてから言った。
「戦う必要があるなら戦います。ただし、守るべき者と攻撃すべき者を取り違えないための計画を立てます」
エリシアは小さく頷いた。
「その答えを、父にも聞かせて」。
その言葉は招待ではなく、試練の予告だった。




