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無能と罵られ追放された天才軍師、敵国で英雄になる ~追放した王国が、今さら停戦を求めて土下座してきても遅い~  作者: レモンティー


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第五話 国境の村で、負傷した敵国の皇女を助けた

シリウスが国境の村リーネへ着いたのは、追放されて七日目の夕方だった。

北部軍の敗報を聞いた交易都市から、国境沿いの道を歩き通してきた。

救援物資はセリーナの隊へ送り、シリウス自身は軍の指揮系統に戻らないと決めていた。

宿を探す前に、井戸の前で騒ぎが起きた。

荷車の陰に若い女が倒れている。

外套は泥だらけで、左脇腹に血が滲んでいた。

「役場へ運ぶ。担架になる板を貸してくれ」

村人たちは動かなかった。

女の袖口に、アルディア帝国の紋章が縫い込まれていたからだ。

「帝国人だぞ。王国の兵に見つかったら、俺たちまで疑われる」

シリウスは膝をつき、女の呼吸を確かめた。

「見捨てれば、この人は死ぬ。手伝った者の名前は出さない。王国の役人に問われたら、俺が助けたと証言する。村に責任を押し付けない」

「待て。村に子供がいる」

村長の言葉に、シリウスは手を止めた。

「追手がここへ来れば、全員を危険にさらす」

「その通りです。だから私一人で決めるべきではありません」

彼は村の集会所を指した。

「施療所の裏口から運べますか。見張りを置く場所も、避難できる家も、村の人に決めてもらいたい」

村長はしばらく黙り、若い農夫二人を呼んだ。

「東の納屋を空けろ。子供は日が落ちる前に高台へ移す。こいつの言うことを信じたわけじゃない。村の命を守るためだ」

シリウスは深く頭を下げた。

誰かを助けるために、別の誰かへ危険を押しつけてはいけない。

村長が舌打ちして戸板を運ばせた。

シリウスは村の施療師に傷を診てもらい、煮沸した布を用意する。

幸い刃は深く入っていないが、失血と疲労が激しい。

女が目を開けた。

「……追手が来る」

「何人だ」

「六人。黒い腕章をしている」

「名前は?」

「まだ、言えない」

「なら聞かない。まず生き延びろ」

施療師が水桶を見て眉をひそめた。

この谷筋では春の雨が少なく、井戸の水位が下がっていた。

北の山では雪解け水が川を荒らしていても、尾根を隔てた村の地下水は増えない。

村では飲み水を量って配っている。

「傷を洗うのに、貴重な井戸水を使えない」

「川の水を運び、煮沸しよう。井戸水は飲用に残す。薪代と人足代は俺が払う」

シリウスは追放の際に残った銀貨を卓上へ置いた。

村長は硬貨を見つめたまま尋ねる。

「そこまでする義理があるのか」

「義理はない。目の前で人が死ぬのを放っておけないだけだ」

追手が来るまでの短い時間に、村の意見は割れた。

「女を渡せば、俺たちは助かる」

粉屋の男が言った。

彼の娘は熱を出して寝込んでいる。

帝国の者をかくまった疑いで村を焼かれれば、薬も家も失う。

「渡したあと、あの連中が黙って帰る保証は?」

シリウスの問いに、男は口を閉ざした。

村長は古い戸籍帳を持ってきた。

国境の小村では、王国の徴税官も帝国の巡察隊も、気まぐれに人を数える。

名前が残ること自体が危険になる場合があった。

「女の名は書かない。だが、村の金を使ったことは残せ」

シリウスは自分の名と銀貨の額を帳面に書いた。

「俺が支払った。後日誰かが問いただすなら、この筆跡を見せてくれ」

「旅人の名一つで村が守れると思うのか」

「思わない。だから子供を逃がす道も用意する」

水車小屋の裏には、麦畑を抜ける細道があった。

老人が昔の洪水のときに使った道だという。

シリウスは若者二人に、途中の倒木を片づけてもらった。

逃げ道は戦うためではなく、戦わずに済ませるためにある。

女の包帯を替えるとき、彼女はかすれた声で尋ねた。

「あなたが捕まったら?」

「逃げる。村人を巻き込まないためにね」

「英雄らしくない答え」

「英雄を演じて死ねば、残された人が後始末をする」

女は笑いかけたが、痛みに顔をしかめた。

シリウスは水を一口ずつ飲ませ、戸口の外へ出た。

広場では粉屋の男が、誰に言われるでもなく娘を背負って避難路へ向かっていた。

夜の帳が下りる前、六人の男が村へ入った。

商人を名乗っているが、馬の鞍は軍用で、視線は出入口ばかり追っていた。

シリウスは村長に二つ頼んだ。

子供を広場から遠ざけること。

女を施療所の裏から水車小屋へ移すこと。

武器を取って村を戦場にするつもりはなかった。

男たちは役場へ来た。

「銀髪の女を捜している。引き渡せ」

「ここは国境の村だ。身元を示さず人を連れていく権限はない」

「邪魔をすれば、お前も同罪だ」

「何の罪だ?」

答えがない。

男の一人が腰の短剣に手を掛けた。

そのとき、広場で荷車の車輪が外れ、積み荷が道を塞いだ。

村の商人が合図どおり車軸の留め具を抜いたのだ。

馬が暴れ、追手はそちらへ目を向ける。

シリウスは役場の窓を閉めた。

「村人を傷つければ、ここで騒ぎを起こした記録が残る。誰に雇われたか知らないが、雇い主は喜ばないぞ」

男たちは互いの顔を見た。

だが隊長格は、逃げ道へ続く麦畑を見て唇を歪めた。

「娘を背負った男がいたな。あいつを捕まえれば、女の居場所を吐くかもしれん」

シリウスの背筋に冷たいものが走った。

追手は自分だけでなく、村の弱い者を人質にする気だ。

「その娘は高熱だ。馬で追えば、逃げる途中で死ぬかもしれない。お前たちが欲しいのは証人の死体か?」

「何を知っている」

「お前たちが商人でないことと、ここで騒ぎを起こせば帝国側の巡察記録にも残ることだ。女を見つけたという成果もないまま、国境の村を襲った報告だけが残る」

追手の一人が戸口へ進んだ。

シリウスは身を引かなかった。

ここで剣を抜けば、村人が巻き込まれる。

喉の渇きを飲み込み、相手が最も恐れる失敗の形を言葉にした。

男たちは互いの顔を見た。


やがて隊長格が低く言う。

「お前の名を聞いておこう」

「シリウスだ」

「姓は」

「追いかける相手を間違えるな。ここにいるのは俺だけだ」

追手が去ったあと、シリウスは水車小屋へ向かった。

女は包帯を押さえながら立ち上がろうとする。

「あなたまで危険に巻き込んだ」

「俺はもう王国の軍師ではない。危険を避ける理由も、命令を待つ理由もない」

「それでも、敵国の人間を助けたのね」

「傷を見たとき、国境線は見えなかった」

女はうつむいた。

少しして顔を上げる。

「東へ行きたい。帝国領まで」

「歩けるか」

「歩かなければならない」

シリウスは彼女の包帯を見た。

今夜出れば傷が開く。

追手が街道を見張っているなら、なおさら急ぐべきではない。

「夜明けまで休もう。追手の馬には餌が要る。村の北に宿場が一つしかないなら、向こうの動きも読める」

女は初めて笑った。

「変わった人ね。追われているのに、馬の食事を気にするなんて」

「追う側も食べなければ動けない。追われる側も同じだ」

夜の見張りを決めるとき、村の若者が反発した。

「なぜ帝国の人間のために、俺たちが危険を冒すんだ」

シリウスは否定しなかった。

「その通りだ。見張りは俺が引き受ける。村の者は普段どおり寝てくれ」

「一人で見張れるものか」

「敵を倒すためではない。近づく馬の数と方向を確かめて、村に知らせるためだ」

若者はしばらく黙り、納屋から古い鐘を持ってきた。

「北の畑なら俺の家から見える。鐘を鳴らすだけならできる」

「ありがとう。危険を感じたら、鐘より先に逃げてくれ」

シリウスは村の道を歩いて、荷車がすれ違える場所を二か所選んだ。

追手が来たときに村人が避難する道と、負傷した女を運ぶ道を分けるためだ。

皇女かどうかは、まだ知らない。

それでも村を巻き込んだ責任は自分にある。

施療所へ戻ると、女が目を覚ましていた。

「あなた、眠っていないでしょう」

「見張りを代わってくれる人が現れました。少しは眠れます」

「どうしてそこまで」

「あなたを助けると決めたからです。ただし、村の人まで危険にさらす権利はありません」

女は包帯の上に手を置いた。

「私のために誰かが傷つくのは嫌」

「なら、あなたにも仕事があります。無理に動かず、傷を治してください」

シリウスが水差しを置くと、女は小さく頷いた。


翌朝、村長が施療所の戸を叩いた。

帝国の紋章を掲げた騎兵が村の外に来ているという。

シリウスは女を隠し、まず隊長に武器を預けさせた。

騎兵隊長は女を見るなり膝をついた。

「殿下。ご無事で」

村長の顔から血の気が引いた。

女はシリウスに向き直る。

「隠していて、ごめんなさい。私はアルディア帝国の皇女です」

「皇女なら、追手を動かしたのは誰です」

シリウスは声を低くした。

相手が皇女だと分かった瞬間、追手の目的も、村が巻き込まれる危険も変わった。

捕らえた者を拷問して名を吐かせれば、都合のいい答えだけが残る。

必要なのは断罪より先に事実を分けることだった。

シリウスの問いに、護衛隊長は答えかけて口を閉じた。

皇女は首を振る。

「まだ確かめられていない。推測で名前を挙げれば、その人の部下まで敵にしてしまう」

「なら、捕まえた者の証言と足跡を残してください。推測では村を守れません」

皇女は頷き、追手の装備と目撃時刻を書き取るよう命じた。

シリウスは驚いたが、先に村長を振り返った。

「騎兵を村へ入れるなら、井戸を使う人数を決めてください。ここの水は余っていません」

エリシアはすぐ隊長へ命じた。

「水と食料は持参した分を使いなさい。施療費と井戸の補修費は私の名で支払う。追手の調査は国境守備隊に引き継ぎ、村人を尋問しないこと。村の人たちには迷惑を掛けたわ」

騎兵隊長が謝礼の金貨を差し出すと、シリウスは受け取らず、村長へ渡すよう頼んだ。

「施療所で使った布と薬、それに井戸の修理代です。私の旅費ではありません」

粉屋の男が、金貨の置かれた卓へ歩み寄った。

「俺は、あの人を追手に渡せと言った」

村長は何も言わない。

シリウスは首を振った。

「娘さんが病気なら、恐れるのは当然です。次に同じことが起きたとき、誰か一人が決めなくて済むよう、村で逃げ道と合図を決めてください」

男は硬い表情のまま頷いた。

エリシアは村長に受領証を渡した。

宛名は「リーネ村共同井戸修繕費」

個人名を残せば、追手が協力者を割り出す。

村長は筆を取り、壊れた滑車を見上げた。

「明日からも水が汲めるなら、それで十分です」

村を出る直前、エリシアは助けられた少年に頭を下げた。

「あなたたちを危険に巻き込んだことは、消えません」。

少年は答えず、修理された荷車を指した。

「なら、あれを持っていって。隣の村にも怪我人がいる」。

エリシアは護衛に命じて荷車を先に出した。

シリウスは、その命令が皇女自身の判断だったことを覚えていた。

村長は共同井戸の修繕証を手に、避難から戻った子供たちを見た。

「皇女を助けたから、村が助かったのか」

「いいえ」とシリウスは答えた。

「皆が、自分の隣にいる人を見捨てなかったからです」

粉屋の男は熱の下がった娘を抱き直し、何も言わず頭を下げた。

シリウスは静かに頷いた。

エリシアは担架に乗る前、村長に尋ねた。

「ここに残る人はいますか」。

村長は首を振らず、避難を拒む老人の家を指した。

シリウスは護衛に馬を一頭借り、老人を説得しに向かった。

救出が成功したかどうかは、皇女一人の無事だけでは決められなかった。

夜半、村の見張りが戻った。

「追手の火が三つ。こちらへ向かっています」

護衛長は皇女だけを先に逃がすよう求めた。

エリシアは首を振る。

「村人の荷車が動くまで待ちます」

「殿下、捕まれば交渉の材料にされます」

「ならば私を囮にしてください」

シリウスは即座に否定した。

「皇女の命を賭ける策は、最後の手段です」

彼は見張り火を谷の反対側に移し、追手が村を通らず空の街道へ向かうよう誘導した。

危険は消えなかった。

だが夜明けまでの数刻を、村人は避難に使えた。

エリシアを乗せた荷車が出発する直前、村の少女が駆け寄った。

手には、負傷した皇女が使った血の付いた布がある。

「これ、捨てていい?」

護衛が顔をしかめたが、エリシアは荷車から降りた。

「洗う水を使わせてしまったわね。井戸の修理代も払わせて」

少女は首を振る。

「お金より、次に怪我した人が来たとき、みんなが逃げないようにして」

エリシアは返事に詰まった。

シリウスが代わりに言った。

「逃げないで済む仕組みを作ろう。村の負担が一人に集まらないように」

皇女は少女の目線までしゃがみ、今度ははっきりと約束した。

村の女主人は皇女の手当てを認めたあと、ためらいながら尋ねた。

「この人を助けたせいで、村が焼かれることはないでしょうね」エリシアは身分を明かす前に、焼けた納屋と踏み荒らされた畑を見た。

「私の護衛が通った道なら、私が償います」シリウスはその言葉を帳面に書かせた。

善意を約束だけで終わらせないためだった。

夜が明け、帝国の護衛が村へ着いた。

護衛長は皇女だけを連れ出そうとしたが、エリシアは首を振った。

『負傷した村人も運びます』。

シリウスは、彼女を助けたことが帝国の政治に巻き込まれる始まりだと悟った。

それでも、見捨てなかった判断を後悔しなかった。

帝国の護衛隊が撤収の支度を始めたとき、村長がシリウスを呼び止めた。

「皇女を助けたことは後悔していない。だが、この村に残る者はどうなる」

「王国の巡察が来る可能性があります」

「可能性では困る。子供たちはここで暮らすんだ」

シリウスは地面に膝をつき、街道と水路の位置を枝で描いた。

「巡察隊が来たら、村人が嘘を重ねる必要はありません。負傷者を救護したことだけを話してください。誰の指示で助けたかと問われれば、私の名を伝えてください」

「お前はもう村を出るのだろう」

「だからこそ、書面を残します」

彼は救護の経緯と、村に強制した命令はなかったことを書き、署名した。

村長はその紙を見つめた。

「こんな紙一枚で、役人が引き下がると思うか」

「思いません。ただ、村が自分の言葉を持つための最初の一枚です」


しばらくして村長は、別の紙を差し出した。

そこには避難を手伝った村人たちの人数と、使った食料の量が記されていた。

「名前は書かん。だが費用は残す。後で誰かが英雄談に仕立てても、村の倉庫が空になった事実は消えない」

エリシアは二枚の紙を見比べ、護衛隊長に命じた。

「帝国の名で補償を約束して。支払いの期日も書いて」

「殿下、国境の村への支払いは前例がありません」

エリシアは村長から畑の被害図を受け取ると、皇女の印章を押す前に一軒ずつ数を読み上げた。

「ここは納屋一棟ではなく、屋根と冬の飼葉です」。

村長は驚いた顔で訂正した。

シリウスは横から口を挟まなかった。

彼女が自分で確かめなければ、帝都に戻ってから約束は紙切れになる。

最後の一軒は、皇女を匿ったために戸を壊された家だった。

エリシアはその名を一番上に書いた。

「なら前例を作るわ。命を救われた礼が、村の負担になってはいけない」

シリウスは初めて、彼女が単に救われるだけの皇女ではないと感じた。

補償の約束を聞いても、村長はすぐには笑わなかった。

「金が届く前に冬が来る。畑を荒らされた家は、明日の種を買えん」

エリシアは護衛隊の荷から保存食を出すよう命じたが、シリウスが止めた。

「兵の食料を勝手に渡せば、今度は護衛の命を危険にさらします。数を確かめましょう」

二人は村長と帳簿を囲み、負傷者の食事と護衛の帰路に必要な分を分けた。

余剰はわずかだった。

それでも、誰かの犠牲を隠して贈り物にするより正しかった。

エリシアは自分の装飾品を外し、村長に預けた。

「支払いが遅れたら、これを担保にして」。

村長はようやく、皇女の目をまっすぐ見た。


挿絵(By みてみん)

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