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無能と罵られ追放された天才軍師、敵国で英雄になる ~追放した王国が、今さら停戦を求めて土下座してきても遅い~  作者: レモンティー


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第四話 俺がいなくなった王国軍は、わずか三日で大敗した

三日目の朝、北部軍は軍隊としての形を失っていた。

東の渡し場の橋は流され、対岸の先鋒三千人は孤立していた。

主力は食料の一部を失い、雨でぬかるむ道に補給車を置き去りにした。

三万人が全滅したわけではない。

軍籍簿に記された三万人と、いま実際に点呼できる兵の数は違う。

戦死、負傷、行方不明、別経路で撤退した者を区別しなければ、救える兵まで死者として数えられてしまう。

だが、先鋒三千人の所在確認もできず、命令を伝える線と食料を運ぶ線が、同時に断たれていた。

マック老将は泥に膝をつき、負傷者の数を数えた。

名簿には三万人分の名前があった。

だが目の前にいる者の名前すら、泥で判別できない。

マックは名簿を閉じた。

まず生きている者を運び、そのあとで一人ずつ照合する。

書類の整合よりも、いま必要なのは息をしている人数だった。

「歩ける者は高台へ。担架が足りなければ槍を使え。旗は置いていく」

若い騎士が驚いた。

「軍旗を捨てるのですか」

「旗を担いで負傷者を置き去りにするつもりか」

騎士は槍を二本抜き、外套を結んで担架を作った。

対岸では先鋒隊長が帝国軍の斥候を見つけた。

こちらの混乱を見れば、敵は攻め寄せてくるだろう。

「高台の林まで退け。矢を撃つのは追撃されたときだけだ」

「攻撃しないのですか」

「今、勝つべき相手は敵軍ではない。飢えと寒さだ」

兵士たちは盾を背負い、負傷者を支えて坂を登った。

西の尾根では、救援隊が細い道を一列で進んでいた。

担架を二人で運ぶには道幅が足りない。

セリーナは先頭に立ち、槍の石突で土の柔らかい場所を探した。

「ここから先は馬を置きます。食料袋は半分に分けて背負って」

従軍医師が足を止めた。

「薬箱を減らせば、向こうで治療ができません」

「減らすのは箱です。瓶は布に包んで、兵の外套へ入れましょう」

兵たちは手分けして荷を詰め直した。

出発は遅れたが、崖沿いで荷車を落とす危険はなくなった。

日が傾いたころ、尾根の向こうから三人の兵が現れた。

二人が一人を支えている。

支えられた兵の唇は青かった。

「所属と名前を」と記録係が問う。

「名前は後でいい」とセリーナが遮った。

「まず毛布を」

医師は負傷兵の濡れた靴を脱がせ、焚き火から離れた場所でゆっくり身体を温めた。

急に火へ近づければ、凍えた手足を傷める。

兵の一人が、かすれた声で言った。

「対岸の隊長は、まだ林にいます。橋が落ちたあとも、負傷者を待っている」

「何人残っている」

「分かりません。数えるたびに、誰かが動けなくなる」

セリーナは地図の林に印をつけた。

兵が口にした小川の位置は、シリウスの羊飼い道と重なっている。

「この道がつながっているなら、明朝には着ける」

「シリウス殿の地図ですか」

「ええ。本人はいま、軍に命令することもできない。でも、この道を残してくれた」

救われた兵は、泥のついた手で毛布を握った。

「帰れたら、伝えてください。助かったと」

セリーナは返事をする前に、まだ暗い林を見た。

「あなたが自分で伝えなさい。私たちは、残る人を迎えに行く」

王都へ届いた最初の報告には『渡河作戦に遅延』とあった。

次は『補給線に損害』。

三通目でようやく『作戦継続不能』と記された。

ヴァルバディス三世は机を叩いた。

「三万人もいて、なぜ川一つ渡れん!」

宰相バルザックは顔色を変えずに答えた。

「マック将軍が進軍をためらったためです」

そこへセリーナが進み出た。

鎧には救護所の泥がついている。

「違います。現地の工兵は増水を予測していました。シリウス殿も同じ警告を残しています」

「追放者の名を出すな!」

「名誉の話ではありません。対岸には、まだ救える兵がいます」

セリーナは地図を開いた。

「西の尾根から医師と食料を運べます。馬車は通れませんが、担架なら運べます。救援を認めてください」

王は宰相を見た。

「救援は出せ。ただし敗北と発表するな」

セリーナは膝を折った。

礼を尽くしたのではない。

ようやく手に入れた許可を失いたくなかった。


その日の夕方、最初の救援隊が西の尾根へ向かった。

一方、国境に近い交易都市では、避難民が役場の前に長い列を作っていた。

シリウスは町へ入るなり、配給所の混乱に気づいた。

負傷者も乳飲み子を抱えた親も、同じ列で待っている。

倉庫には食料があるのに、配る順番が決まっていない。

「列を三つに分けましょう。歩けない人、子供連れ、それ以外です」

役人が顔を上げた。

「あなたは誰です」

「旅人です。人手が足りないなら、手伝います」

シリウスは倉庫の在庫を数え、パン屋と薪商人に協力を頼んだ。

負傷者を診る順番は医師に任せ、運ぶ道と待機場所を整えた。

「軍師様」

若い兵士が声をかけた。

北部軍の生き残りだった。

片腕に包帯を巻き、靴は片方しかない。

「あなたの言った通り、橋が落ちました」

「謝る必要はない。まず座れ」

「兄が向こう岸に残っています。名前だけでも、探してもらえませんか」

シリウスは紙を取り、兵士の兄の名と所属隊を記した。

「捜索隊へ伝える。見つかるとは約束できない。でも、探すのをやめないとは約束する」

そのころセリーナも、救援隊の名簿に同じ姓を見つけていた。

行方不明者の欄に書かれた二つの名前。

そのうち一人には『負傷して西の尾根へ移動』という新しい報告が届いていた。

記録係は筆を止めた。

「王都の報告には、行方不明者を戦死者に含めるよう指示があります」

セリーナは名簿を二枚に分けた。

「一枚は確認済みの戦死者。もう一枚は所在不明者。報告の都合で名前を動かさないで」

「責任を問われます」

「私の署名を入れてください」

記録係は躊躇したが、二枚の紙を並べた。

どちらの名簿も完全ではない。

それでも、不明を死亡に書き換えるよりは誠実だった。

「生存確認が取れるまで、死亡と記すな」

記録係は頷いた。

マックは救護所で名簿を確認していた。

三万人という大きな数字を、初めて一人ずつの名前として見直していた。

「この者は」

「下流で発見。肩を脱臼していますが生きています」

「こちらは」

「捜索継続中です」

マックは名簿の端を押さえた。

「全員を『損耗』の一語で片づけるな。帰った者も、帰れない者も、名前を残せ」

交易都市の広場では、シリウスが作った配給の列がようやく短くなっていた。

幼い兄妹が温かい粥を受け取り、母親が何度も頭を下げた。

「今日だけは、眠れそうです」

シリウスは頷いた。

軍師として大きな戦を避けてきたときと、今夜の一杯の粥を配るときとで、守りたいものは変わらない。

王宮では、バルザックが北部軍の損失報告を読み、指で机を叩いていた。

「橋が落ちたのは天候のせいだ。撤退はマックの独断。そう記せ」

書記官は筆を止めた。

「現地からは、渡河の中止条件を削った命令書の写しも届いています」

「だから何だ。王の命令に疑いを向ければ、次は軍そのものが動かなくなる」

バルザックは一瞬、窓の外へ目をやった。

国境を失えば、王都の商人も貴族も自分の責任を問うだろう。

彼にとって報告書は、真実を残すためではなく、責任の行き先を決めるための紙だった。

「生存者の名簿は別に保管しろ。公表するのは転進の成功だけだ」

書記官は命令に従いながら、破棄を命じられていない名簿の写しを二通作った。

片方は軍務局へ、もう片方は救護班へ。

死者を数字に変える命令だけは、書き写さなかった。


翌朝、町に届いた王都の布告は『北部軍、戦略的転進に成功』と告げていた。

シリウスは紙を見つめた。

「生き残った兵の働きまで、嘘で覆うな」

彼は布告を畳み、救援隊へ送る物資の一覧を書き始めた。

北部軍の敗北は取り消せない。

だが、誰かの帰りを待つ家族がいる限り、まだ終わりではなかった。

その夕刻、街道を南へ向かう旅人から、国境の村で武装した男たちが女性を捜しているという噂が届いた。

シリウスは物資の一覧に最後の署名を入れた。

救援隊へ渡す薬と乾パンは、翌朝の便に間に合う。

そのうえで旅人に、武装した男たちが向かった道を尋ねた。

「リーネ村の方だ。若い女を捜しているらしい」

「村には施療所が?」

「小さいのが一つだけ」

彼は救援物資の送り状をもう一度確かめた。

薬箱は六つ、乾パンは二十袋。

受領者はセリーナの救護隊とし、村への寄付と混同されないよう封を分ける。

自分がいなくても荷が届くようにするのが、最後の軍師としての仕事だった。


翌朝、救援物資を積んだ荷車が北へ発った。

シリウスは荷役長から割符の半片を受け取り、セリーナ宛ての封筒に入れた。

受領の照合は彼女に任せる。

追放者が軍を動かしたと宰相に口実を与えぬためだ。

彼自身はリーネ村へ向かった。

噂の真偽は分からない。

教会の壁に貼られた生存者名簿を、ひとりの老女が何度も読み返していた。

息子の名前がない。

セリーナは「戦死」と書き足しかけた書記の手を止めた。

「まだ確認されていません」。

希望を与える言葉ではなかった。

それでも確かでない死を確かなものにするより、待つ苦しさを一緒に引き受けるほうを選んだ。

生存者を収容した礼拝堂には、乾いた靴が一足もなかった。

伝令を務めた少年が、毛布の下から尋ねた。

「軍師様は、橋が落ちると知っていたんですか」

シリウスは答えを急がなかった。

知っていたと言えば、自分が正しかった証明になる。

だが、目の前の少年には何の慰めにもならない。

「危険だとは伝えた。それでも、止められなかった」

少年は唇を噛んだ。

「じゃあ、次は止めてください」

その言葉は叱責より重かった。

シリウスは少年の手を握り、「次は、命令が届く前に逃げ道を作る」と答えた。

リーネ村へ向かう前、シリウスは救護班から届いた短い返書を読んだ。

『兄弟のうち一名、生存確認。

もう一名は捜索継続』

喜びと恐怖が同じ紙に並んでいる。

彼はその紙を折らず、伝令へ返した。

「見つかっていない者の欄を、空白にしないでくれ」

武装した男たちが一人の女性を捜しているという。

村の施療所にも手当ての備えが必要だ。

捜索隊の前に、濡れた軍旗を抱えた兵が現れた。

「三千人は全員死んだと聞いた。俺は、どこへ戻ればいい」

セリーナは名簿を開いた。

「所属と、最後に見た仲間の名前を教えて」

兵は三人の名を挙げ、一人については「流されたと思う」と言った。

「見たの?」

「……見ていない」

セリーナはその名を戦死欄へ書かなかった。

兵は声を詰まらせた。

「まだ、探してくれるのか」

「生きていると約束はできない。でも、確かめずに終わりにはしない」

敗戦報告には書かれない約束が、泥に汚れた帳面の一頁に残った。

敗残兵を数えた衛生兵は、名簿にない少年兵を見つけた。

少年は濡れた軍靴を抱え「兄の靴です」と言った。

指揮官は死亡者の欄に安易に印を付けず、渡河地点ごとに行方不明者を分けて記録させた。

勝敗の報告は一行で済む。

だが一人を失った家族への返事は、一行では済まなかった。

避難所の入口で、名を呼ばれた老兵が手を上げた。

片腕を吊り、泥だらけの靴を履いている。

「戦死者にされたと聞いた。まだ生きているぞ」。

セリーナは名簿の一行に訂正線を引き、本人の声を聞いた時刻を書き添えた。

マック老将の最後の命令を、若い兵が口伝えで繰り返していた。

『軍旗より担架を優先せよ』

負傷兵の母親は、その言葉を聞いて初めて泣いた。

「息子は、旗を守れなかったと気にしていたんです」

セリーナは、泥のついた軍旗を広げなかった。

「守るべきものを間違えなかった。それを、私が証言します」

王都へ戻れば、その証言は不都合なものになる。

それでも彼女は、亡くなった者が自分の行動を説明できないことを知っていた。

セリーナは生存者の名簿を二通作った。

一通は王都へ、一通は村の教会へ。

『行方不明は死亡ではありません』と使者に念を押す。

国王が敗戦を誰の責任にするかは、まだ分からない。

だが、戻るかもしれない人を勝手に死者にしないことだけは、今の自分にもできた。

夜になっても、王都の軍務局には正確な死傷者数が届かなかった。

「三万人が壊滅したと発表すれば、援軍を出す理由がなくなります」

書記官が声を潜めると、バルザックは机を叩いた。

「敗北の責任は現地の指揮官にある。そう記せ」

「ですが、渡河を命じたのは王命です」

「王命は進軍を命じた。橋を落とせとは命じておらぬ」

書記官は返事をしなかった。

命令の文言と、その命令を実行した結果を切り離せば、責任はいつでも現場に押しつけられる。

彼は報告の清書を終えると、破棄を命じられた水位表を袖に隠した。

そのころセリーナは、村の納屋に集まった生存者から、最後に仲間を見た場所を聞き取っていた。

「橋の北側に、まだ二十人ほどいた」

「いつですか」

「昨日の夕刻だ。いや、鐘が鳴る前だったかもしれない」

「曖昧でも構いません。曖昧だと書きます」

誰かの記憶を都合のよい確定情報に変えれば、捜索隊は誤った場所へ向かう。

セリーナは地図に三種類の印を付けた。

生存確認、目撃情報、未確認。

「王都へは敗戦の知らせだけが届くでしょう」

隣にいた衛生兵が呟く。

泥の斜面に取り残された兵たちは、王の命令で渡った者も、反対した者も同じように震えていた。

救助隊長は所属を尋ねるのをやめ、まず息のある者に印を付けた。

「敵味方を確かめなくていいのですか」と若い兵が聞く。

「今は水が敵だ」。

流木が動き、救助の縄が一度切れた。

全員が後退したが、次の結び目は誰も手を抜かなかった。

命令書には書かれていない共同作業が、生存者を増やした。

「なら、私たちは名前を届ける。まだ探せる人の名前を」

彼女は明朝の捜索班を組み直した。

王国軍の敗北を覆すことはできない。

だが、その敗北の下敷きになった人間を、一人でも引き上げることはできた。

救助隊が三日目に発見したのは、崩れた橋の下に挟まれた軍旗だった。

兵士たちは旗を引き上げようとしたが、セリーナは先に瓦礫の隙間を覗いた。

「声がする。旗ではなく、こっちを」

泥の中から返ったのは、かすかな三度の打音だった。

工兵が支柱を組み、衛生兵が冷えた手を握る。

日没前、ひとりの若い伝令が救い出された。

彼の第一声は「命令書を持っています」だった。

セリーナは首を振った。

「まず水を飲んで。証言は、生きてからでいい」

救われた青年の胸には、濡れた命令書が残っていた。

だがセリーナがその日記録した最初の一行は、書類の発見ではなく『生存者一名』だった。


挿絵(By みてみん)

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