第六十九話 国王は最後の近衛軍を率いて出撃した
ガイルは王の近衛軍を包囲する案を出した。
「包囲できれば、短時間で勝てる」
「包囲の外へ逃げる道も一つ残してください」とシリウス。
「逃がすのか」
「武器を捨てた兵が生きて戻れる道です。最後まで戦う理由を、こちらが作らないために」
最後の近衛軍が王都の門を出た。
国王の鎧だけが朝日に輝き、兵たちの外套は雨と泥で色を失っている。
シリウスは敵の隊列を見つめ、勝てるかどうかではなく、何人を生きて帰せるかを数え始めた。
王都の城門が開き、近衛軍がゆっくり進み出た。
先頭には国王ヴァルバディス三世。
鎧は磨かれていたが、後ろに続く兵の靴は泥だらけだった。
近衛隊長は勝算がないと進言した。
「城内の食糧は三日分です」
国王は馬上で言い放った。
「王が出れば兵は奮い立つ」
誰も声を上げなかった。
丘の上でシリウスは王国軍の隊列を見た。
槍の長さは揃っていても、兵の間隔が不自然に広い。
徴兵されたばかりの者が多いのだ。
ガイルは側面を突けば短時間で崩せると進言した。
シリウスは首を横に振った。
「崩れた兵は王都へ逃げる。城門で民衆を踏みつぶす」
彼は戦列の前方に退却路を残すよう指示した。
近衛軍の一角で、若い兵が膝をついた。
空腹と疲労だった。
隊長は立たせようとしたが、兵は「母が城内で待っています」と呟いた。
王はその声を聞かず、突撃の号令を求めた。
隊長は旗を上げかけて止めた。
王を守るために剣を取ったはずなのに、今は王の命令が守るべき人を殺そうとしている。
シリウスは白旗を掲げた使者を送った。
要求は三つ。
民衆の避難路を開くこと、負傷兵の収容を認めること、王都への食糧搬入を妨げないこと。
降伏の文言は最後に置いた。
国王は使者の手紙を握り潰したが、近衛隊長は書き写して兵に伝えた。
剣を抜く前に、王国軍の内側で静かな亀裂が広がっていた。
近衛兵の列は整っていたが、鎧の下の顔色は悪かった。
国王は馬上から兵を見下ろし、かつて勝利のたびに上がった歓声を待った。
返ってきたのは、馬具の擦れる音だけだった。
先頭の隊長が進軍の合図を求める。
「陛下、敵は平地に布陣しています。罠の可能性があります」
「余を恐れているのだ」
そう言いかけて、国王はシリウスの名を思い出した。
あの男は勝てる戦いでも、兵が死ぬなら別の道を探した。
自分はそれを臆病と呼んで追放した。
平地の向こうに白旗が上がった。
帝国軍は退路を塞いでいない。
王国兵の一人が「帰れる」と呟いた。
国王は聞こえないふりをした。
伝令がシリウスの書面を持ってきた。
内容は王の身柄の引き渡しではなく、近衛兵と負傷者の安全な撤収だった。
国王は紙を握り潰した。
「余を侮辱する気か」
隊長は答えなかった。
彼の背後で若い兵が震えている。
国王は初めて、自分の命令に従う者の顔を一人ずつ見た。
出撃の角笛を吹かせるまで、長い沈黙があった。
その後、近衛隊長は勝算がないと進言したが、国王は退くことを拒んだという動きが生まれた。
彼はその違いを部下に何度も教えた。
国王ヴァルバディス三世は、近衛兵の前で自ら兜をかぶった。
若い兵たちは拍手しなかった。
王宮の窓からは、炊き出しを待つ民の列が見える。
「王のために死ね」
その言葉を口にしかけ、国王は唇を閉じた。
以前なら歓声が返っただろう。
今、兵たちが見ているのは王冠ではなく、家へ帰れる道だった。
シリウスは近衛軍の進路を読み、狭い谷で包囲する案を退けた。
「逃げ道のない王は、最後の一兵まで戦わせる」
リュカは馬を下りて地図を覗いた。
「ではどうする」
シリウスは広い平地を示した。
「退ける道を見せる。こちらからは最初の矢を放たない」
軍議には不満も出た。
だが彼は譲らなかった。
国王を討つことと、王国を救うことは同じではなかった。
王国の近衛隊長は突撃命令を受けたが、先頭に立つ新兵の顔を見て躊躇した。
少年は槍の柄を握り直し、「本当に王都へ戻れますか」と尋ねる。
隊長は答えられなかった。
丘の向こうから帝国軍の使者が現れ、退路を示す白布を掲げる。
国王は罠だと叫んだ。
だが隊長は、罠かもしれない道と確実に死ぬ突撃を見比べていた。
国王の近衛隊長は、出撃前に妻へ宛てた手紙を懐に入れていた。
国王が全軍突撃を命じた瞬間、彼は手紙の重みを思い出した。
敵の陣には槍の壁がない。
退く道もある。
これは罠か、それとも降伏を促す布陣か。
隊長は前列の兵に命じた。
「命令があるまで走るな。負傷者を踏むな」
王命への反抗ではなく、無意味な死を減らすための命令だった。
国王はその声を聞き、怒鳴りかけた。
しかし隊長の後ろにいる兵たちの顔を見て、言葉が止まった。
忠誠だけでは空腹も恐怖も消せない。
その事実が、初めて王の喉を塞いだ。
隊長は手紙を一度だけ読み返し、鎧の奥へ戻した。
妻には帰ると書けなかった。
代わりに「最後まで部下を見捨てない」と記してある。
目の前の平地を見渡すと、退路が確かに残されていた。
彼はその道を、兵たちにも見えるよう指さした。
帝国軍の陣に、近衛兵の使者が一人現れた。
手には降伏の白旗ではなく、負傷者の搬送を求める布があった。
シリウスは医療隊を向かわせる代わりに武装解除を要求しなかった。
「負傷者は交渉の担保ではない」
使者は驚き、何度も振り返りながら戻った。
ガイルは国王が時間稼ぎに使うと懸念した。
シリウスもその可能性は承知していた。
それでも救護を止めれば、敵の兵に国王のために死ねと言うのと同じになる。
彼は斥候を増やし、警戒だけは緩めなかった。
近衛軍の列の後方では、負傷した兵が仲間の肩を借りていた。
国王の号令は先頭に届いても、最後尾には届かない。
シリウスはそれを見て、突撃を受けるより先に伝令を出した。
「負傷者を運ぶ道は塞がない」
戦術上の隙だと知りながら、命令を変えなかった。
近衛軍の前列で、老兵が旗を支えながら膝をついた。
王の突撃命令は三度目だったが、後列にはまだ最初の号令すら届いていない。
シリウスは敵の乱れを見抜いた。
今なら包囲できる。
しかし彼は弓兵に弦を緩めさせ、使者を白旗とともに出した。
「負傷者の搬送を許す。攻撃をやめれば追わない」
王国の若い副官はその文面を読み、旗を持つ老兵を振り返った。
勝敗が決まる瞬間は、必ずしも剣が交わる瞬間ではなかった。
降伏を促す使者には、白旗と通行を求める文書を持たせた。
近衛軍が返答しない限り、使者を射程内へ進ませない。
王の意地に兵の命を差し出させないことが、最初の命令だった。
最後の近衛軍には、国王の命令に従うしかない徴募兵が多く混じっていた。
帝国の偵察兵はその隊列を見て、正面からの突撃を避けるべきだと報告した。
シリウスは投降を促す文面を自ら確認した。
「武器を置いた者を追わない」
その一文を繰り返し伝えるため、使者は危険な城門前へ向かった。




