第六十八話 宰相は国王を見捨て、財宝を持って逃亡した
王都の配給所では、パン一つを巡って母親たちが言い争っていた。
その朝、王宮の裏門から出た馬車には、麦も薬も積まれていなかった。
金貨、宝石、そして軍議録の原本。
宰相バルザックは窓を閉めた。
「国庫を守るための疎開だ。陛下の命令である」
護衛隊長は積荷の封印を見た。
王室の印が押されているが、日付は昨日。
退去命令が出る前から準備されていた。
「命令書の原本を拝見したい」
「私を疑うのか」
「疑われないためにも、見せてください」
宰相は答えず、御者へ出発を命じた。
北門で馬車が止められた。
門番は通行証を確かめ、重い車輪の跡を見た。
「救援物資と聞いていますが」
「国の財産だ。貴様の知ることではない」
バルザックは金貨を一枚投げた。
門番は拾わず、通行時刻と護衛の人数を記録した。
武装兵を相手に門を閉ざせば、避難民を巻き込む。
通したうえで、三つの宿場へ伝令を走らせた。
街道では、老女の荷車が倒れていた。
箱の中には病気の孫の薬がある。
「どけ!」
宰相の護衛が怒鳴る。
隊長は剣を抜こうとした部下を制し、老女の荷車を起こさせた。
「この数分が惜しいのか!」
馬車の窓からバルザックが叫ぶ。
「数分を惜しんで民を斬れば、護衛ではなく略奪です」
その返答を聞いた宰相は、隊長を置いて別の道へ逃れようとした。
だが大型馬車は細道の泥にはまり、車軸が軋んだ。
隊長が追いつくと、宰相は偽造した食料引換証を突きつけた。
「この倉庫で馬を替える。従わなければ反逆罪だ」
隊長は証書を裏返した。
決裁者の欄には、前年に死んだ役人の名があった。
「死人が許可を出す国になったのですか」
バルザックは短剣を抜いた。
護衛の兵たちは動かなかった。
彼らの家族も、王都の配給所に並んでいる。
「私を売るつもりか」
「あなたを裁くのは私ではありません」
隊長は部下へ命じた。
「馬車を出せ。ただし民を人質に取るな。村に火を放つな」
宰相をここで斬れば、軍議録も横領の証拠も、闇に消える。
隊長は自分の印章を押した目撃記録を宿の主人へ預けた。
一方、王宮ではセリーナが持ち出された書類の目録を読んでいた。
「北部敗戦の原本、徴発命令、国庫の支出帳……」
若い騎士が拳を握る。
「すぐ追撃を!」
「追う。だが王都の食糧庫の警備を減らしてはならない」
「逃がしてしまいます!」
「追手を増やしても、奪われた記録は戻らない。写しを守る者も必要だ」
セリーナは各関所へ命じた。
車輪の寸法、替え馬の購入記録、偽名の通行証を照合すること。
商人や避難民の通行は止めないこと。
追跡隊は最初の宿場で、王室名義の修理代領収書を見つけた。
次の宿場では、同じ寸法の車輪を持つ馬車が西の脇道へ入ったと分かった。
「逃亡経路が見えました」
追跡の報告を受けたセリーナは、北の峠へ全兵力を向ける案を退けた。
「逃げる者は追手の思い込みを使う。財宝を積んだ重い馬車が峠を越えるとは限らない」
宿場の帳簿には、同じ夜に二組の旅人が泊まった記録があった。
ひと組は北へ向かう高価な馬車。
もうひと組は西へ向かう荷運びの一団。
荷運びの者は、金貨で水代を払っていた。
「普通の荷運びなら銅貨で払うわ」
セリーナは帳簿を閉じた。
北へ向かった馬車は目くらましかもしれない。
しかし証拠が足りない。
彼女は追跡隊を分け、両方の宿場に確認を命じた。
一方、バルザックは農家の納屋で外套を脱いでいた。
豪華な馬車を捨て、財宝の一部だけを荷馬に積み替えたのだ。
「全部は運べません」
御者が訴える。
「ならば記録を優先しろ。金貨は後で取り戻せる」
彼が最も恐れていたのは財産の喪失ではなかった。
軍議録が公開され、追放した軍師の名が戻ることだった。
護衛隊長は馬の手綱を握ったまま、宰相に尋ねた。
「我々の家族はどうなるのです」
「国を救うための犠牲だ」
「国とは誰のことです」
返事はなかった。
その夜、隊長は部下を集めた。
逃亡者の護衛を続ければ、いずれ避難民を押しのけることになる。
命令を破れば反逆罪になる。
彼は両方の危険を伝えたうえで、民家への押し入りを禁じた。
「我々が守るべきものは、金箱ではない」
数人は隊長に従い、数人は宰相の側に残った。
兵たちの決裂を見たバルザックは、笑みを消した。
翌朝、宿場の娘が西へ向かった荷馬の蹄鉄を覚えていると証言した。
片方だけ形が違い、石畳に特徴的な跡を残していたという。
セリーナはその情報を記録したが、すぐに追撃命令を出さなかった。
「道を塞げば、商人も薬も止まる。関所では荷を調べ、逃亡者の特徴を伝える。無関係の旅人は通しなさい」
その判断は時間がかかった。
けれども、宰相を捕らえるために民を苦しめれば、彼のやり方を繰り返すことになる。
西の街道には、荷馬の足跡が続いていた。
まだ捕まらない。
だからこそ、セリーナは次の一手を急がなかった。
「まだ見えたのは通った道だけよ。次にどこへ向かうかは、決めつけないで」
セリーナは地図に二本の線を引いた。
北の峠と、西の港。
どちらにも追跡の目を残した。
その夜、バルザックは馬車の底に隠した軍議録を撫でた。
シリウスの名を削った訂正跡。
国王の承認印。
自分の横領を示す数字。
セリーナは追跡隊に、奪われた帳簿の写しを携帯させた。
金箱だけを追えば、逃亡者は国庫の守護者を装える。
しかし軍議録の改ざん箇所を照合すれば、彼がなぜ逃げたのかを示せる。
若い隊員が尋ねた。
「見つけたら、その場で斬りますか」
セリーナは首を振った。
「生きて法廷に立たせる。死んだ男にすべての罪を押しつけるのは、あの国が繰り返してきたことよ」
隊員は剣の柄から手を離した。
追跡の目的が、ようやくはっきりした。
追跡隊は慎重に進んだ。
追跡隊は慎重に進んだ。
「これさえあれば、まだ交渉できる」
彼は金貨の箱を抱き寄せた。
王都では同じ時刻、配給の鍋が空になっていた。
逃亡者はまだ捕まっていない。
だが彼が消そうとした証拠は、すでに別々の手で記録され始めていた。
逃亡を知った書記官は、宰相府の印が押された帳簿を一人で持ち出さなかった。
二人の立会人とともに頁数を数え、封印した。
後から都合の悪い頁を差し込んだと言われないためだった。




