第六十四話 俺は王国の村人を守るため、帝国軍を出撃させた
水車小屋の探索に向かう前、ガイルは懐中時計をシリウスへ渡した。
「十分で切り上げるなら、俺が時間を計る」
シリウスは受け取らなかった。
「時間を守れなかった場合の責任も私が負います。時計は将軍が持っていてください」
二人は避難路の先に、救護班を一組残した。
鐘が三度、間を置かず鳴った。
村の火事を知らせる合図ではない。
助けを求める者が鐘楼に残り、力尽きるまで縄を引いているのだ。
シリウスは地図に印を付け、「門ではなく、水路から入る」と命じた。
教会の鐘が昼でもないのに鳴った。
村の広場から煙が上がり、逃げ遅れた老人たちが礼拝堂の扉を内側から押さえていた。
火を放った徴発隊は村人を反逆者と呼び、退路を塞いでいる。
シリウスは敵兵の追跡より、教会の裏にある狭い水路を確保するよう命じた。
リュカの騎兵は三隊に分かれた。
一隊が村の北口で敵を牽制し、二隊目が井戸から水桶を運び、三隊目は子供を馬の背に乗せて水路へ向かう。
ガイルは「敵を包囲できる」と叫んだが、シリウスは首を振った。
「今包囲すれば、追い詰められた兵が教会を燃やす」
勝つ順番を間違えれば救える命を失う。
扉の隙間から少女の声が聞こえた。
「お母さんが動かない」
パルラが煙の中へ入ろうとすると、帝国兵が布を濡らして口元に巻き、二人で礼拝堂に飛び込んだ。
担ぎ出された母親は息をしていた。
少女は泣きながら母の手を握った。
そのすぐ横で帝国兵が一人、火傷した腕を冷たい水に浸していた。
夕方、火をつけた徴発隊の兵が捕まった。
村人の一人が石を持ち上げる。
シリウスはその腕を止めず、ただ言った。
「この兵を裁く証言が必要です。今殺せば、命じた者は逃げます」
男は石を落とした。
シリウスは放火を命じた上官の名と証言を記録させた。
焼けた広場の真ん中で、復讐より難しい仕事が始まった。
村を襲う部隊は、民家の屋根を盾にしていた。
弓を射れば、矢は家の壁を貫く。
ガイルは正面から押す案を撤回した。
シリウスは村人に井戸の位置を尋ね、裏手の畑へ回る細い水路を見つけた。
「水路を塞げば敵の馬が進めなくなる」
「田畑まで水浸しになります」と村長が抗議した。
シリウスは地図から目を上げた。
「なら、塞がない。歩兵が通れる場所だけを教えてください」
村の若者二人が案内を申し出た。
兵は断ろうとしたが、若者は首を振った。
「俺たちの家だ。道なら知っている」
迂回した帝国兵は家屋の裏に出て、火をつけようとしていた王国兵を捕らえた。
正面の王国軍は退路が残っていると知ると撤退した。
戦闘は短かったが、家を一軒守るために多くの兵が泥だらけになった。
戦いのあと、村長が焼け焦げた梁を示した。
「ここはもう住めない」
シリウスは補給隊に材木を依頼した。
帝国軍にも不足している物資だ。
「兵舎の修理は遅れます」と補給長。
「雨をしのげる兵舎より、屋根のない子どもを先にしてくれ」
村長は礼を言わなかった。
代わりに、帰還する兵たちへ温めた水を運んできた。
出撃を決めたシリウスに、ガイルが地図を突きつけた。
「村を守るには、あの丘を取る必要がある。敵の砲兵を黙らせるなら夜襲だ」
シリウスは丘の下の水路を指した。
「夜襲では村人の避難とぶつかる。まず灯りを三つ並べ、住民が通り終えた合図を受けてから動く」
勝機を一刻遅らせる命令だった。
ガイルは苦い顔をしたが、伝令を呼んだ。
作戦の成功を何で測るか、二人はそこで一致していた。
村の井戸端で、老婆がシリウスの軍服を掴んだ。
「勝ったら、家は返ってくるのかい」
彼は返事に詰まった。
焼けた家を戻すことはできない。
「建て直す木材を運びます。冬までに屋根を作る手伝いもします」
老婆は怒ったように手を放した。
「なら、生きて帰ってきな」
出撃の前、シリウスはその言葉を全隊に伝えた。
村を守るという命令は、敵を追うことよりも、帰還する責任を負うことだった。
避難の最後に残ったのは、鐘を鳴らしていた老人だった。
階段を降りる脚が動かず、二人の兵が肩を貸す。
火が鐘楼の梁へ移ると、リュカは馬を捨てて階段を駆け上がった。
老人は鐘の縄を離さない。
「まだ外に人がいる」
シリウスは広場を見渡し、残っていた犬と、その犬を追う子供を見つけた。
全員が水路へ入ったのを確かめてから、ようやく撤収の合図を出した。
出撃から戻った兵の中に、村の納屋から食料を持ち出した者がいた。
空腹の若い兵は「守ったのだから少しくらい」と弁解した。
シリウスは食料を返させ、軍の配給不足を調べさせた。
兵だけを罰して終われば、同じ盗みは繰り返される。
炊事係は行軍中の配給が一食分遅れていたと認めた。
シリウスは自分の命令にも誤りがあったと公言し、補給経路を修正した。
村の納屋の主人は返された麦袋を見て言った。
「守ってくれたことは忘れない。でも、盗られたことも忘れない」
シリウスは頷いた。
感謝を要求する軍は、いつか略奪を正当化する。
夜の点呼では、戦果より先に帰還者の人数が報告された。
一人だけ姿がないと聞き、シリウスの顔が強張る。
遅れて現れた兵は、村の壊れた門を直していた。
ガイルが呆れた声を上げると、兵は「明日の朝、子どもが外へ出られます」と答えた。
避難先の水路で、母親が娘を見失ったと叫んだ。
兵たちは敵が近いと知りながら足を止める。
リュカが戻ろうとすると、シリウスは二人の斥候を同行させた。
無理に全隊を引き返せば、避難民まで危険にさらす。
娘は教会裏の小屋で、歩けない犬を抱いていた。
斥候が娘を背負い、リュカが犬を抱える。
ようやく合流したとき、母親は娘を叱ろうとして声を失った。
シリウスは救出人数を一人増やして報告させた。
誰かの大切なものを救うための遅れを、単なる作戦の失敗にしてはならない。
救出された老人は、鐘を鳴らした手のひらに血豆を作っていた。
パルラが包帯を巻くと、「音は聞こえたか」と尋ねた。
シリウスは「聞こえました」と答えた。
老人はそれだけで目を閉じた。
戦場の報告書には鐘の音の大きさなど記さない。
それでも、あの音がなければ助からなかった命があった。
鐘を鳴らした老人の孫が、救出された人々の中にいなかった。
シリウスは撤収命令を一度止め、点呼表を調べ直した。
孫は隣村へ水を汲みに出たまま戻っていないという。
捜索隊を分ければ護衛が薄くなる。
ガイルは険しい顔で兵数を計算した。
「十分だけです」とシリウスは言った。
「十分で見つからなければ、避難民を先に出す」
結局、少女は崩れた水車小屋の陰で見つかった。
老人は抱き締めたまま声を出せなかった。
シリウスは時計を見た。
十一分。
命令違反の一分を、彼は自分の報告書に書き込んだ。
「救出の合図がなければ、決めた時刻で退く」シリウスはガイルに確認した。
「私が命令を変えるときも、理由を全隊へ伝える」村人を守るための出撃で、兵の命を無制限に賭けるつもりはなかった。
避難命令を出した後、村の鐘楼から一度だけ鐘が鳴った。
まだ人が残っている合図だった。
シリウスは攻撃予定時刻を変更し、偵察兵を二人だけ送り込んだ。
救い出されたのは足の悪い老人と、彼を置いて行けなかった孫だった。
作戦の遅れは報告書に隠さず記した。




