第六十一話 王国の農民たちは、戦争のために種麦まで奪われていた
農家の老女は、種麦を取り上げた兵士の顔を覚えていた。
しかしその兵士も、手を震わせながら命令書を読んでいたという。
「悪いのはあの子一人じゃないよ」
シリウスは徴発量と命令系統を調べるよう指示した。
食料を返すだけでは、来年また同じ命令が下る。
畑に種をまける春を取り戻すには、紙に書かれた権限まで変えなければならなかった。
村長は種麦を守る封印を見て、すぐには喜ばなかった。
「帝国軍が去ったあと、王国の徴発官が来たらどうする」
シリウスは封印の隣へ、村人が持つ控えの番号を書いた。
「私たちが守り続けられるとは約束できません。ですが、奪われた量を後から確かめる証拠は残せます」
村長は頷いた。
「なら、その控えは三軒に分けて預けよう」
徴発命令の写しには、農民が春に播く種麦まで「軍用食料」と記されていた。
シリウスはその一行を指で押さえた。
「これを食べれば、来年は誰が軍を養う?」
補給長は答えず、袋の封印を見つめた。
村の代表は空の麻袋を差し出した。
袋の底に残る麦粒は七つ。
老人はそれを指で数え、「食べれば今日を越せる。播けば来年まで生きられる」と言った。
幼い娘が老人の袖を引いた。
「おじいちゃん、明日は?」
誰も答えなかった。
シリウスは麦袋を見つめた。
敵国の土地でも、飢えた子の問いは同じだった。
補給長は救援用の麦を配り切れば帝国兵の食事が薄くなると訴えた。
シリウスは軍用の予備食と種麦を混同しないよう命じた。
村ごとに畑の面積と必要な播種量を調べ、食用分は別の印で封じる。
種麦の袋には村人と帝国兵、双方の封印を押すことにした。
「我々が帰ったあとに誰が守る?」とガイル。
「村人自身が数を知っていれば、奪う者の嘘を暴けます」
翌朝、徴発官が戻ってきた。
兵を従え、帝国の印が押された袋を指さして「敵に与した証拠だ」と叫ぶ。
シリウスは護衛兵を前に出さず、村長に帳面を開かせた。
前年の収穫、奪われた量、残された種の数。
徴発官は数を読み上げられず、兵たちの視線を避けた。
誰も剣を抜かなかった。
それでも、村人たちは初めて役人を見返した。
帰り際、少女がシリウスの手に麦粒を一つ置いた。
「これ、来年の分」
彼は返そうとしてやめた。
「預かる。来年、返しに来るよ」
少女は頷いたが、その約束がどれほど重いかを知っているのは大人たちだけだった。
シリウスは手の中の一粒を握り、兵糧ではなく未来を運ぶ作戦が始まったのだと思った。
村の畑を調べると、徴発されたのは種麦だけではなかった。
鋤の鉄まで軍需品として持ち去られている。
シリウスは荷駄隊の鍛冶職人を呼んだ。
職人は「兵の蹄鉄も足りません」と難色を示したが、村人が差し出した壊れた鎌を手にすると黙った。
刃の摩耗は、持ち主が最後まで畑を諦めなかった証拠だった。
「一日だけ炉を貸してくれ。私も炭を運ぶ」
将軍が炭籠を担いだため、護衛たちは慌てて後を追った。
修理できた鋤は五本。
村全体には足りない。
それでも老人は柄を握り、土に刃を立てた。
夕方、シリウスは村の代表を集め、種麦の保管場所を一つにしないよう提案した。
徴発官が再び来ても、全量を一度に奪われないためだ。
ただし隠した場所を知る者が少なすぎれば、火事で失われる。
三人ずつが別々の場所を管理し、記録だけは共同で残す。
少女は昼間の麦粒を思い出したように尋ねた。
「一粒で、何本になるの?」
「必ず芽が出るとは限らない。だから、みんなで守るんだ」
奇跡を約束しない答えに少女は少し不満そうだった。
それでも翌朝、最初に畑へ出たのは彼女だった。
村の納屋で、パルラは痩せた少年の手を取った。
熱はない。
ただ、指先に力が入らない。
「食べさせれば治るの?」と母親が尋ねる。
パルラは一度だけ言葉を探した。
「今日の粥で倒れなくなる。でも、来月の種まで食べたら、同じことが起きます」
その説明に母親は顔を伏せた。
シリウスは補給長に命じ、救援の配分表を村人の前で読み上げさせた。
兵士が持ち帰る袋と、村に残す袋を別々に数える。
見える場所で決めなければ、善意もまた疑われると知っていた。
「来年の収穫まで、帝国軍はここにいるのですか」
村長の問いに、シリウスは安易な約束をしなかった。
「私たちが去っても種を奪われない仕組みを残します。村の代表と、王国側の記録係にも写しを渡しましょう」
徴発の命令を受けた若い兵が俯いた。
「命令に背けば家族が罰を受ける」
シリウスはその兵の名を聞き、彼を責める前に命令を出した者の署名を確かめるよう告げた。
奪う手を止めるには、握らせた者の責任も明らかにしなければならなかった。
その夜、村の少年がシリウスの幕舎へ駆け込んだ。
「隣村の畑にも、まだ種が隠してあります」
少年は密告を恐れ、声を落とした。
シリウスは隠し場所を尋ねなかった。
「その種を守る人が何人いるか、それだけ教えてくれ」
少年は三本の指を立てた。
シリウスは見張りを置く案を取り消した。
帝国兵が立てば、かえって目印になる。
代わりに壊れた橋の修理を優先し、村人が自分の畑へ行ける道を戻すことにした。
数日後、帝国の補給長が不足分を数字で示した。
兵糧は予定より二日早く尽きる。
シリウスは自軍の食事を削る案をそのまま通さず、近隣の倉庫を調べ直した。
余っていたのは食料ではなく、輸送用の空樽だった。
水を運ぶ樽を村に貸し、井戸から遠い畑の水汲みを減らす。
農民が働ける時間を増やす方が、無理な増配より長く効く。
「将軍、麦を増やす魔法はないんですね」と補給長が笑う。
「ない。だから一粒を失う理由を減らす」
村長は樽の返却日を帳面に記した。
援助を受けるだけでなく、責任を持って返せることが彼の誇りだった。
シリウスは最後に、村人の名簿を軍の命令書から切り離した。
帝国軍が撤収したあと、名簿が報復の道具になることを恐れたからだ。
村長は紙を胸にしまい、「来年の麦が実ったら知らせる」と言った。
シリウスは返事の代わりに頷いた。
翌日、鍛冶職人が修理した鋤を受け取った農民は、すぐに畑へ向かわなかった。
土が乾きすぎているという。
シリウスは畑の端まで歩き、割れた土を手で崩した。
「種があっても、水がなければ育たない」
村長は古い用水路が戦時の土塁で塞がれたと説明した。
土塁を壊せば軍の防衛線が薄くなる。
ガイルは難色を示したが、シリウスは代わりの防御位置を地図に引いた。
兵を二十人動かし、石を取り除く。
夕暮れ、水路に細い流れが戻った。
老人は水に手を浸し、「麦を返してもらうより、こっちの方が難しかった」と呟いた。
シリウスは頷いた。
奪われたものを返すだけでは、暮らしは元に戻らない。
村の娘は、直った水路を見て「もう麦を食べてもいい?」と尋ねた。
祖父は首を振った。
「食べる分は別の袋だ」
娘は納得できず頬を膨らませたが、やがて袋に付いた二色の紐を結び直した。
シリウスはその小さな手つきを見つめた。
制度は紙の上だけでは守れない。
使う人が理解できて初めて、奪われない仕組みになる。
種麦の帳面に最後の署名を求められた若い徴発兵は、筆を握ったまま動かなかった。
「これを書けば、私は王都で裏切り者になります」
シリウスは署名欄を指で隠した。
「ならば証人の名は伏せる。必要なのは、何袋奪われたかという事実だ」
村長は初めてその兵の顔を見た。
奪われた側と奪った側が同じ帳面を守ることになる。
容易には信じ合えない。
それでも、村長は予備の鍵を兵へ渡した。
「来年、返しに来い」
兵は鍵を受け取り、深く頷いた。
種麦の袋には、返還先の畑と必要量を記した札が結ばれた。
返せない分は翌年の収穫を待つのではなく、近隣の備蓄から融通する。
シリウスは補給官に、返還が終わるまで受領票を保管するよう命じた。




