第五十七話 二十万人の王国軍が、三万人の帝国軍に敗れた
「敵二十万人を撃破」という速報を見た記録係は、数字の下に小さく書き加えた。
「二十万人全員を殺傷・捕縛した意味ではない」
シリウスはその注記を消させなかった。
二十万人の王国軍が敗れた。
その報せは、ひとつの大決戦の結果ではなかった。
北軍は補給拠点を失い、中央軍は予定の城塞に敵を見つけられず、南軍の騎兵は水路で足を止められた。
三軍を結ぶ伝令路は、互いの進軍予定がずれたために機能しなくなっていた。
「敵はまだ十万以上の兵を残しています」
参謀が慎重に報告した。
シリウスは頷く。
「戦える人数と、戦いを続けられる人数は違う」
王国軍の中央幕営では、三つの命令書が机に置かれていた。
北軍からは『糧秣不足につき停止』。
南軍からは『騎兵隊再編のため撤退』。
王都からは『直ちに総攻撃を敢行せよ』。
どれも同じ日に届いた。
指揮官は紙を握りつぶした。
「攻撃する兵も、食わせる麦もない!」
参謀エドガーは静かに言った。
「ここで退かねば、次は兵が王命より飢えを恐れる」
「撤退すれば反逆者だ」
「進めば兵を殺す」
二人はしばらく黙っていた。
その沈黙が、敗北を認める最初の時間になった。
帝国側では、ガイルが戦果を読み上げた。
「敵軍は三つの街道から撤収。国境への侵攻は停止した。帝国軍は主要拠点を保持」
士官たちが歓声を上げる。
だがシリウスは、報告書の最後の欄を見ていた。
帝国軍の戦死者、行方不明者、重傷者。
数は決してゼロではない。
「名簿を家族に送る前に、誤記がないか確かめてください」
「勝利の祝宴は?」
「帰還できなかった者の名を読み上げてからにしましょう」
王国軍が退いた土地では、村人が踏み荒らされた畑を起こし始めた。
シリウスは工兵を手伝いに出したが、村長は首を振った。
「ここからは私たちがやります。道だけ直してください」
彼は頷き、復興の主役を奪わないことも指揮官の仕事だと知った。
広場で、兵たちが一人ずつ名を読んだ。
若い工兵の名前が呼ばれたとき、同じ班の男が声を詰まらせた。
その工兵は、避難民の荷車を通すため壊れた橋板を直していた。
敵の矢ではなく、崩れた木材の下敷きになったのだ。
「戦場で死んだわけじゃない」
男は涙を拭った。
「なのに、もう帰ってこない」
シリウスは答えを探したが、言葉が見つからなかった。
勝利の理屈では、その死を軽くできない。
翌朝、王国軍の撤退を確認したリュカが戻った。
「敵は街道に穀物を残していきました。焼却命令が出ていたようですが、実行されていません」
「誰が止めた?」
「分かりません。倉庫の鍵だけ、村長の家の前に置かれていました」
シリウスは微笑みかけ、すぐに表情を戻した。
敵軍の中にも、命令に抗った者がいる。
その小さな事実を、勝利の報告書に書き加えた。
帝国の新聞は『三万、二十万を撃破』と大きく書いた。
だがシリウスは見出しを訂正させた。
『二十万の侵攻を阻止』。
「違いがあるのですか」
記者が尋ねる。
「二十万を殺したわけではありません。大半は故郷へ戻ります」
「華々しい見出しの方が売れます」
「売れる言葉で、次の戦争を呼びたくない」
記者は渋い顔で書き直した。
その日の夕刻、帝国の村から礼状が届いた。
『畑が残りました。
冬を越せます』
シリウスはその短い文を、勲章の授与状より先に机に置いた。
軍事的な勝利は一日で決まる。
だが冬を越せるかどうかは、これから何か月もかけて確かめなければならない。
彼は補給長を呼び、軍用倉庫から村への返還物資を確認した。
戦況を集計する会議で、ガイルは勝利を宣言しようとした。
「中央軍は撤退、南軍は補給を失い、北軍は合流できない。二十万はもう一つの軍として動けない」
シリウスは頷いたが、報告書の最後に赤線を引いた。
「『二十万人を殲滅』という表現は削除してください」
「誰もそんなことは言っていない」
「王都へ伝わるまでに、そう書き換わる可能性があります」
参謀たちは顔を見合わせた。
「我々が成し遂げたのは、敵の攻勢を止めたことです。死傷者の数も、行方不明者の数もまだ確定していない」
戦場の外れでは、王国兵と帝国兵が同じ井戸の修復を手伝っていた。
戦闘中に壊れた滑車を取り替えるためだ。
「昨日まで殺し合っていた相手と、よく働けるな」
リュカが言うと、王国の工兵は肩をすくめた。
「井戸が壊れたままじゃ、どちらも飲めません」
帝国の工兵が笑い、工具を渡した。
その光景を見たシリウスは、停戦監視のため双方から二人ずつ立会人を出すよう命じた。
善意だけに頼らず、疑いが生じたときに確かめられる仕組みを作るためだった。
戦後の報告書では『二十万人を撃破』という見出しの下に、部隊ごとの結果が記された。
戦死者、負傷者、捕虜、撤退した部隊、命令系統を失って解散した部隊。
すべてを一つの数字にまとめれば勝利は大きく見える。
シリウスは項目を分けたまま皇帝へ提出した。
「軍が戦えなくなったことと、二十万人が死んだことは違います」
帝都へ送る勝利報告に『二十万を撃破』と記されると、シリウスは筆を止めた。
「この言葉では、二十万人を殺したように読める」
記録官は困惑する。
「では、どう書きますか」
「王国軍二十万は作戦継続を断念し撤退。帝国軍三万は防衛目的を達成」
地味な文章だった。
だが捕虜の家族にとって、撤退と全滅の違いは生死の違いだ。
ガイルはその書き直しを見て笑った。
「英雄譚にならんぞ」
シリウスは答えた。
「英雄譚は後で誰かが書く。今は、生きている者を探すための報告が必要だ」
その夜、両軍の行方不明者名簿が初めて照合された。
夕方、負傷した王国の将校がシリウスのもとを訪ねた。
「あなたは我々を見逃した。だからといって、王国が降伏したわけではありません」
「分かっています」
「また命令が出れば、私は戦います」
「ならば次は、戦う前に話す機会を作りたい」
将校は返事をせず去った。
夜、勝利の祝宴が開かれた。
シリウスは杯を取ったが、飲まなかった。
衛生兵の報告に、帰還しない伝令の名前があったからだ。
「味方の三万人のうち、一人でも行方が分からなければ捜す」
ガイルが隣に立った。
「勝った夜くらい休め」
「捜索隊を出したら休みます」
ガイルはため息をつき、自分も捜索の名簿を手に取った。
帝都には勝利の鐘が鳴った。
皇帝アレクシスは謁見の間で報告を受けると、玉座から立ち上がった。
「三万で二十万を退けた。歴史に残る勝利だ」
「陛下、敵は滅びていません。撤退しただけです」
「分かっている。だからお前に次の仕事を頼む」
皇帝は一歩近づいた。
「この勝利を、次の戦争の口実にさせるな」
シリウスは深く頭を下げた。
二十万の敗北を、二十万の恨みに変えないこと。
本当の戦いは、そこから始まるのだと知っていた。
敗れた王国軍の野営地では、武器を捨てた兵が味方の将校から臆病者と罵られていた。
シリウスは捕虜の扱いを監督する兵に、降伏時刻と負傷状況を個別に記録させた。
その名簿は、帰郷する兵士が行方不明者として処理されないための最初の手掛かりになった。
勝利の報告が届いた夜、陣営では二十万という数字だけが繰り返された。
シリウスは書記官に尋ねた。
「帰還を確認できた者は何人だ」
答えはまだ出なかった。
降伏者、逃走者、負傷者の名簿が別々に作られていたからだ。
彼は三つを照合する係を置いた。
敵の敗北を数字にするのは簡単だった。
生き残った一人ひとりを家族へ返すには、戦いより長い仕事が必要だった。




