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無能と罵られ追放された天才軍師、敵国で英雄になる ~追放した王国が、今さら停戦を求めて土下座してきても遅い~  作者: レモンティー


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第五十六話 俺は敵軍の退路を一つだけ残した

退路を一つ残す決定には、帝国側の遺族からも反発が出た。

「あの兵たちを帰せば、また攻めてくる」

シリウスはその可能性を否定せず、停戦監視と負傷者の交換を条件に加えた。

「完全包囲ができます」

ガイルは谷を囲む三つの高地を指した。

「敵中央軍の退路をすべて閉ざせば、戦争は今日で終わるかもしれん」

シリウスはしばらく地図を見つめた。

「南の道を開けてください」

「逃がすのか?」

「逃げ道のない兵は、最後まで戦います」

「逃げた兵が再び戻ってきたら?」

「その可能性はあります。それでも、谷を死体で埋めるよりはましです」

ガイルは唇を引き結んだ。

「帝国の兵にも、死んだ仲間の仇を取りたい者がいる」

「分かっています。だからこそ、彼らに復讐を命じるわけにはいきません」

谷の北側には負傷兵を収容する小さな寺院があった。

王国軍の軍医が白旗を掲げている。

「敵の罠かもしれません」

衛生隊長パルラが言った。

「罠なら、近づいた部隊だけが被害を受けるよう配置を変えます。それでも軍医の申し出は聞く」

シリウスは通訳と護衛を付け、武器を持たない交渉役を送った。

軍医の要求は水と包帯だった。

「薬は渡せます。ただしこちらの負傷者も運ばせてください」

交渉が成立し、寺院の前で敵味方の担架がすれ違った。

若い王国兵が帝国兵に頭を下げた。

「さっきまで、あんたを殺そうとしていた」

「俺もだ」

それ以上の言葉はなかった。

王国軍の指揮官は南の道が開いていると知り、退却を疑った。

「追撃してくるはずだ。狭い道で殺す気だろう」

副官が答える。

「先行した斥候は戻りました。道に伏兵はありません」

「なぜだ」

誰も答えられない。

指揮官はしばらく迷い、ついに命令した。

「負傷者と荷車を先に通せ。武器を捨てる必要はない。ただし帝国軍へ向けるな」

王国軍の列が南へ流れ始めた。

帝国の弓兵は弦を張ったまま、矢を放たなかった。

南の道を通る王国兵の列は、日が暮れても途切れなかった。

帝国の見張りは交代で立ち、誤射を防ぐため火矢を禁じられた。

誰も眠れない夜だったが、谷に響いたのは剣の音ではなく荷車の車輪の音だった。

夜、ガイルはシリウスの幕舎を訪れた。

「今日の判断を、全員が正しいと思っているわけではない」

「承知しています」

「部下の一人が言った。弟を殺した敵を見逃した、と」

シリウスは目を閉じた。

「その兵に会わせてください」


翌朝、シリウスはその兵の前に立った。

「あなたの弟を返すことはできない」

兵は顔を上げなかった。

「でも、今日あの谷で敵を皆殺しにしても、弟は戻らない」

「分かっています。分かっているから、悔しいんです」

「その悔しさを消せとは言いません。私が引き受けるべき判断は、私の名で記録します」

兵は泣きながら敬礼した。

シリウスは敬礼を返したが、許されたとは思わなかった。

撤退路の安全を確認するため、シリウスは自軍の斥候を先に南へ走らせた。

道の先には崩れた土砂があり、荷車が通れない区間があった。

「敵を逃がすために道を直すのですか」

工兵は呆れた。

「通れなければ谷に戻り、戦闘が再開する。直してください」

工兵たちは黙って鍬を握った。

夕方、王国の負傷兵を乗せた荷車が、修復された道をゆっくり進んだ。

車輪が石に乗り上げるたび、帝国の工兵が肩を貸した。

王国の御者は何度も礼を言いかけ、結局何も言えなかった。

ガイルはその光景を見て、剣を鞘に収めた。

「勝利の形が、少し分からなくなってきた」

「私もです」

シリウスは答えた。

「ただ、これを間違いだと思う日が来ないようにしたい」

退路を一本だけ残すと聞き、参謀の一人が異を唱えた。

「包囲を完成させれば、敵は降伏するはずです」

「包囲された兵が必ず降伏するとは限りません」

シリウスは負傷者の搬送路を示した。

「逃げ道がなければ、傷ついた者まで最後の一撃を選ぶ。こちらの損害も増える」

「逃がした兵はまた戻ってくる」

「戻ってくる可能性はある。それでも、ここで全員を殺すことを勝利とは呼べない」

帝国軍は退路の入口に白い布を結んだ柱を立てた。

王国語で『武器を収めた者は通行を妨げない』と記してある。

最初に現れた王国兵は、その文字を読んでも動かなかった。

「罠だ」

後ろの兵が囁いた。

そこでシリウスは、捕虜から希望者を募って柱の脇に立たせた。

彼らには武器を持たせず、帝国兵も一定の距離を取った。

「通れたぞ!」

最初の兵が無事に丘を越えたとき、後続がようやく動き始めた。

撤退路を残すだけでは、敵は罠を疑って進まない。

シリウスは捕虜を通じて、橋を通る者には追撃しないという条件を伝えた。

その代わり、武器を捨てて負傷者を優先させることを求める。

「約束を破れば、次に降伏を呼びかけても誰も信じない」

彼は味方の騎兵にも、橋を越えて追わないよう命じた。

残した退路の橋に兵が押し寄せたとき、ガイルは封鎖を進言した。

「ここを守れば敵の主力を捕らえられる」

シリウスは橋脚を見た。

荷車一台が通るたびに木が軋む。

「今閉じれば、橋のこちら側で押し合いが起きる。負傷者から渡す」

王国の将校は帝国兵を信用せず、先に武器を捨てることを拒んだ。

シリウスは自軍の槍を下げさせ、通行順を両軍の書記官に読み上げさせた。

橋が崩れかけた瞬間、王国の工兵も支柱を押さえた。

昨日まで撃ち合っていた者が、同じ板を支える。

退路を一つ残した判断は、敵を逃がす甘さではなく、命令が届く場所を最後まで確保する戦術だった。

だが、すべてが命令どおりにはいかなかった。

王国の後衛が味方の撤退を脱走と誤認し、矢を放ったのだ。

退路の列が乱れ、老人のように足を引きずる負傷兵が倒れた。

「敵の矢です!」

帝国の若い弓兵が反撃しようとする。

ガイルがその弓を押し下げた。

「射線の先に逃げている者がいる」

代わりに盾兵を前へ出し、負傷兵を引きずり戻した。

夜になり、退路を通った人数が報告された。

数は不確かで、重複した記録もあった。

シリウスは正確な戦果として発表することを禁じた。

「生き延びた人間を、手柄の数字にするな」

記録係は帳簿の見出しを『敵軍損耗』から『退路通過確認』に書き換えた。

そこには戦勝の華やかさがなかった。

しかし、夜明けまで続いた松明の列は、確かに一つの戦いを終わらせていた。


翌日の報告には、王国軍の撤退成功と、帝国軍の追撃禁止が並んだ。

勝利と呼ぶには苦い結果だった。

だが谷に残された寺院の扉は開き、負傷兵は敵味方の区別なく運び出された。

シリウスはその光景を、地図のどんな矢印よりも長く見つめていた。

残した退路に敵兵が殺到し、橋が壊れかけた。

ガイルは閉鎖を提案した。

シリウスは橋を守る工兵に退避を命じ、先に負傷者を渡すよう両軍へ伝えた。

橋は最後の荷車が通った直後に崩れた。

戦術上の逃げ道は、実際に人が渡れなければ意味がないと全員が知った。

残した一本の橋へ王国兵が殺到した時、先頭の将校が負傷者を押しのけようとした。

帝国の工兵長は怒鳴った。

「順番を守れ。橋が落ちる」

敵味方の兵が一瞬ためらったが、担架を先に通す列ができた。

川の水位は刻々と上がっていた。

シリウスは橋を守るための兵を増やし、退避の合図を工兵長自身に任せた。

命令書に描いた一本の線は、現場の判断がなければ誰も渡れない道だった。

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