第五十四話 俺は十年前の自分なら絶対に使わない作戦を立てた
城塞を捨てる命令を聞いた工兵長は、修理に費やした三年を思った。
「私たちの仕事は無駄だったのですか」
シリウスは答えた。
「人が逃げる時間を稼いだ。だからこそ、ここを守って死ぬ必要はありません」
シリウスが提示した作戦には、かつて彼自身が禁じた偽装撤退が含まれていた。
ガイルは理由を問うた。
「以前は民間人が逃げる道を塞いだからだ。今回は先に全員を避難させる。条件が違う」
シリウスは作戦書の冒頭に変更理由を書いた。
過去の自分の言葉を、無条件の命令にはしなかった。
「東の城塞線を放棄します」
シリウスの宣言に、軍議が凍りついた。
東の城塞は、十年前に彼自身が設計した防衛の要だった。
「そこを守れば敵の中央軍を三日は止められるはずだ」
ガイルが言う。
「三日は止められます。ただし、その三日間に敵の北軍が避難民の道を塞ぐ」
「ならば城塞を増援する」
「敵は我々がそうすると思っている」
シリウスは自分の古い戦術書を机に置いた。
「昔の私は、強い拠点を守ることが戦場を支配する方法だと考えていました」
「今は違うのか」
「拠点を守るために人を犠牲にするなら、何を守ったのか分からなくなる」
城塞の守備隊長は納得しなかった。
「ここは父の代から守ってきた砦です。敵に渡せと?」
シリウスは城壁の上で隊長と並んだ。
石には古い戦傷が残っている。
「砦を失うのが怖いのではないでしょう。ここで死んだ人たちを裏切る気がするのですね」
隊長は返事をしなかった。
「その人たちは、次の世代にもここで死んでほしかったのでしょうか」
風が旗を鳴らした。
隊長は長い沈黙のあと、門を開く命令書に署名した。
撤収は一晩で終わらなかった。
倉庫の穀物は避難民の町へ運び、井戸には蓋をして位置を記録した。
橋は壊さず、渡し板だけを取り外した。
病人は最後の荷車で運んだ。
「敵に食糧を残すのですか」
工兵が問う。
「村の食糧は村のものです。奪う者が現れたら、その責任は敵にある。こちらが先に焼く理由にはならない」
城塞の旗が降ろされると、若い守備兵が泣いた。
シリウスはその肩に手を置かなかった。
涙を止める権利は、自分にはないと思った。
敵が占領した城塞では、食糧庫が空になっていた。
王国軍の指揮官は激怒したが、井戸は壊されていない。
兵は水を得たものの、攻城戦に使うはずだった資材を運び続けるしかなかった。
城塞の勝利は、次の一歩を重くした。
翌朝、王国軍の先遣隊が無人の城塞へ入った。
「敵は逃げた!」
伝令が叫び、中央軍の指揮官は前進を命じた。
だが城塞から先の街道には、兵も補給所もなかった。
王国軍は守備隊を討つために用意した攻城具を抱え、予定外の距離を進むことになった。
さらに北軍との連絡は、移動した補給拠点の位置をめぐって混乱した。
シリウスが狙ったのは、砦ではなく時間だった。
撤退した守備隊は、城塞の西に新しい防衛線を作った。
ただしそこに石壁はない。
避難路を守る見張り台と、傷病者を収容する天幕だけだった。
「これで城と呼べるのですか」
若い兵が尋ねる。
「呼ぶ必要はない。人が安全なら、それでいい」
その夜、城塞隊長はシリウスに古い鍵を差し出した。
「門の鍵です。いつか取り返す日のために」
シリウスは受け取らなかった。
「あなたが持っていてください。私が取り返すと約束するより、あなたが生きて戻ることの方が大事だ」
隊長は鍵を握り直した。
「ならば、部下を全員連れて戻ります」
シリウスは頷いた。
敵が城を占領したという知らせが届いたとき、守備隊の兵は初めて笑った。
自分たちの帰還を喜ぶことを、誰にも恥じなくてよくなったからだ。
作戦を聞いたガイルは、地図を指で叩いた。
「城塞を捨て、敵に道を選ばせる。だが城塞には我々の兵がいる。撤収が遅れたら置き去りになるぞ」
「撤収の期限は日没ではなく、最後の負傷兵が出た時刻にします」
「敵の先鋒が早ければ?」
「門の内側に残るのは工兵ではなく、撤収を確認する士官一人だけです。その士官の帰還路も別に用意する」
シリウスは予備の伝令を二組置いた。
片方が捕まっても、もう片方が退却命令を届けるためだ。
城塞の守備隊長は、命令書を受け取って唇を結んだ。
「この城は祖父の代から守ってきました」
「石は残る。あなたの兵を失えば、守る者がいなくなる」
「敵が我々を臆病者と呼ぶでしょう」
シリウスは古い戦術書の余白に、自分が十年前に書いた一文を見つけた。
『城を失えば国境が崩れる』。
当時は正しい判断だった。
だが今は、城を守るために住民の避難路を塞ぐ方が危険だった。
「昔の私の答えに、今の兵を従わせるつもりはない」
彼は城塞の放棄と避難経路の確保を同じ命令書に記した。
撤収を命じられた工兵長は、城塞の門に手を置いた。
「三年かけて直した門です。敵に渡すのですか」
シリウスは城壁を見上げた。
「この城を守って、避難が遅れた家族を失うほうが、私には耐えられない」
工兵長は黙っていたが、やがて門の蝶番を外す作業を始めた。
壊すためではない。
最後の荷車が通れる幅を確保するためだった。
城に残す水は井戸に蓋をして守り、兵糧はすべて持ち出す。
敵に渡るのは石壁だけ。
住民の暮らしと兵の命は、城の外へ運ぶ。
十年前のシリウスなら『撤退』と書いたであろう命令を、彼は『避難完了後に離脱』と書き直した。
「呼ばせてください。死んだ兵には反論できません」
守備隊長は城壁を一度だけ振り返り、旗を畳んだ。
撤収は予定より二時間遅れた。
地下倉庫に取り残された薬箱を衛生兵が取りに戻り、出口で崩れた石に足を挟まれたのだ。
「箱は捨てろ!」
守備隊長が叫ぶと、衛生兵は首を振った。
「ここには熱病の薬が……」
シリウスは工兵に石を支えさせ、衛生兵と薬箱を両方運び出した。
最後の扉が閉まったのは、敵の旗が遠い丘に見えてからだった。
王国軍が城塞に入ったとき、食糧倉庫は空だった。
井戸には蓋があり、扉には『住民の飲用水。
汚染を禁ず』と王国語で書かれていた。
「挑発か?」
王国軍の将軍が怒鳴る。
老兵は首を横に振った。
「いいえ。あの軍師なら、敵にもこれを読ませるでしょう」
城を手に入れた王国軍は、そこで何日休むべきかという新しい問題を抱えた。
「十年前のあなたなら、城を捨てなかったでしょうね」
エリシアの書簡に、そんな一文があった。
シリウスは返事を書いた。
『十年前の私は、地図に描いた線を守ることを誇りに思っていました。
今は、その線の外にいる人々の顔が見えます』
そして最後に一行を足した。
『間違いを認めるのは、敵に負けるより怖いことです』
夕暮れ、無人の城塞に王国旗が上がった。
だがその旗の下で、王国軍は何を追うべきか分からなくなっていた。
城塞を放棄する命令を聞いた守備隊長は、十年守った旗を畳むことを拒んだ。
シリウスは城壁の傷を見上げた。
「ここで戦えば旗は残るかもしれない。だが中の人間は残らない」
隊長は鍵束を机へ置き、撤退する住民の最後尾を自分が守ると申し出た。
夜明け、空になった城塞には旗だけが揺れた。
敵はそれを勝利の証しと受け取ったが、シリウスには誰も取り残さなかったことのほうが重かった。




