第五十三話 王国の将軍たちは、俺の戦術を研究していた
研究会では、帝国軍の陣形だけを模写した案が提出された。
エドガーは図面を見て尋ねた。
「この線の外にいる村人は、どこへ逃げる」
担当士官は答えに詰まった。
図には兵の移動路しかなかった。
「シリウス殿の策は、敵を止める線と民を逃がす線が必ず対になっていた。片方だけ真似ても、同じ策にはならない」
若い士官が反論した。
「戦争で民を優先すれば、勝機を失います」
エドガーはかつてマック将軍から渡された野戦記録を開いた。
そこには、避難を一刻早めたことで補給車列が渋滞を免れた事例が記されていた。
「守るための準備は、勝つための準備にもなる。都合のよい結果だけを借りるな」
会議の終わりに、図面へ避難路が一本追加された。
だがエドガーは満足しなかった。
その道を実際に歩いて確かめる者の名が、まだ空欄だったからだ。
王国軍の中央幕営に、古い冊子が配られた。
『シリウス戦術集成』。
著者欄は空白だった。
追放した軍師の名を消し、勝利の手順だけを残した本だ。
「これを読めば、帝国軍の次の一手が分かる」
若い将軍が言った。
参謀エドガーは冊子を閉じた。
「分かるのは、昔のシリウスが何を考えたかだけです」
「故マック将軍の副官だったから、敵を庇うのか」
「いいえ。あの方なら、書かれた通りに敵が動くと決めつけるな、と言うでしょう」
エドガーは古い作戦図を広げた。
マックの遺品から見つかったもので、余白にシリウスの注意書きが残る。
『退却路を確保せずに実行してはならない』。
だが配布された冊子には、その一文がなかった。
「誰が消した」
「宰相府で編纂したそうです」
エドガーはため息をついた。
「作戦の条件を消せば、同じ形を真似ても同じ結果にはならん」
若い将軍は地図の谷を指した。
「帝国軍がここへ誘えば、こちらは谷の両端から攻める」
「谷の水位は」
「旧図には浅いとあります」
「では今朝、測った者は?」
答えはなかった。
エドガーは偵察を命じた。
戦術書を暗記するより、現在の地形を知る方が先だった。
一方、帝国軍の幕舎にも同じ冊子が届いていた。
「将軍の昔の手口が、敵の教科書になっています」
リュカが苦笑する。
シリウスは頁をめくり、消された注記を見つけた。
「補給路を守る条件も、避難民を逃がす条件も抜けている」
「ならば、古い作戦と違う動きを見せればよいのでは」
「それだけでは足りません。向こうも私が変えると予想しているはずです」
シリウスは敵の斥候が三度調べた谷を示した。
王国軍の若い参謀は、シリウスの過去の作戦図を暗記していた。
エドガーはその図を裏返した。
「同じ道を同じ時刻に通るとは限らない。彼が最初に見るのは、ここに住む人間だ」。
参謀は地図の空白に村と井戸を書き込んだ。
戦術の模倣から、状況を考える訓練が始まった。
「谷には伏兵を置かない。彼らが警戒している間に、南の村の避難を終わらせます」
「戦術書を逆手に取るのですね」
「一度しか通じない手です。次は向こうも学ぶ」
翌朝、王国の斥候が戻った。
「谷には敵兵がいません。代わりに、民間の荷車が南へ抜けた跡があります」
「逃げたのか」
エドガーは首を振る。
「逃げたのではない。先に人を逃がしたのです」
エドガーは帝国軍の過去の戦闘図を三枚重ねた。
どれにも同じ撤退路が残されている。
「敵将は必ず逃げ道を作る。ならば、その道を塞げば勝てる」
若い将校が言った。
エドガーは首を振った。
「塞いだ先で敵が降伏するとは限らない。退路を失った兵は、最後まで戦う」
彼は地図に新しい橋を書き足した。
十年前にはなかった橋だ。
「敵は古い作戦を捨てたのではない。守る対象を変えた」
若い将軍はようやく冊子を閉じた。
「では、こちらはどう戦えば」
「自分の目で地形を見て、自分の兵の腹を満たす。相手の答えを暗記するのは、その後だ」
夜、シリウスは同じ地図の前で呟いた。
「エドガーなら、明日には橋を見つけるだろう」
ガイルが尋ねる。
「かつての仲間を、そこまで信じるのか」
「彼は故マック将軍から、分からないことを分からないと言う勇気を学びました」
シリウスは新しい偵察命令に署名した。
「だから私たちも、明日は別の方法を考えなければなりません」
二つの軍は、同じ古い本を閉じた。
戦場にいるのは、十年前の軍師でも、十年前の王国軍でもなかった。
王国の作戦会議では、シリウスの古い戦術書が机いっぱいに広げられた。
若い将軍が言う。
「この谷に誘い込めば、帝国軍は必ず後退します」。
エドガーは頁の余白を示した。
十年前、シリウス自身が書き込んだ注意書きがある。
『地形は同じでも、住民と季節は変わる』。
谷には今、避難してきた家族が暮らしていた。
「敵の考えを真似るなら、敵が何を守ろうとしているかまで考えろ」。
エドガーは村へ使者を出すよう求めた。
将軍たちは時間の浪費だと反対したが、翌朝届いた報告には、橋の下で雨を避ける子供たちの人数が記されていた。
戦術書の余白が、地図にない命を見つけた。
王国側の軍議が終わったあと、エドガーは古い戦術書の余白を見つめていた。
そこには故マック将軍の筆跡で、「橋を守るな。橋を渡る者を守れ」とある。
若い将校はその一文を指さした。
「ならば明日は橋を捨てますか」
エドガーは首を振った。
「捨てるかどうかを決める前に、渡った先の住民を数える」。
偵察隊が持ち帰った報告には、村の家屋が三十七戸、井戸が二つとあった。
戦術書には載っていない数字だった。
エドガーはそれを地図に書き込む。
「敵の作戦を知ったつもりになるな。ここに住む人を知らなければ、我々もまた同じ過ちを犯す」
翌朝、彼は橋の奪取ではなく住民の避難路の確保を第一命令にした。
偵察兵が戻ったのは日暮れだった。
避難を呼びかけた村で、村長に門を閉ざされたという。
王国軍が来れば帝国軍に疑われ、帝国軍が来れば王国軍に疑われる。
村人はどちらの旗も信用していなかった。
エドガーは白紙の通行証を差し出した。
「私の署名を入れる。これを持つ者には、どちらの軍も食糧を徴発しないと約束させたい」
若い将軍が鼻で笑った。
「敵が守るものか」
「ならば敵へ使者を送る。守らせる方法を考えるのが、戦術を学ぶということです」
その夜、エドガーはシリウスの古い戦術集を開かなかった。
代わりに村人の名前と、家畜を逃がすのに必要な時間を書き留めた。
エドガーは戦術集の余白に、かつてシリウスが書いた小さな注記を見つけた。
『相手が退く理由を、地図の外に探せ』
将軍たちは陣形だけを写していた。
彼は村人に聞き、川沿いの道が家畜の移動にも使われると知った。
そこを塞げば、敵の退路を断つ前に民の暮らしを断つ。
エドガーは進軍案に赤線を引いたが、上官は「敵の教えに従うのか」と笑った。
彼は答えた。
「従うのは現地で見た事実です」




