第五十一話 王国は二十万人の大軍を国境に集結させた
前線に集められた兵の中には、畑を離れたばかりの父親がいた。
彼は支給された槍よりも、家から届いた種麦の袋を気にしていた。
徴発の命令書には帰還の期限がない。
帝国軍の斥候はその袋を見て、敵の二十万人が一枚岩ではないと悟った。
シリウスは報告を受けると、敵兵を数字として数えるだけの作戦図を引き直した。
二十万人という数字の裏には、まだ訓練を終えていない徴募兵も含まれていた。
シリウスは敵を侮らなかったが、全員が同じ日に同じ道を進めるわけではないと考えた。
国境監視所から届いた報告には、数字が三つ並んでいた。
北街道に六万、中央街道に九万、南街道に五万。
合計二十万。
シリウスはその下に記された一文を、もう一度読んだ。
『南街道の沿道にある麦畑は、軍馬の放牧地として接収された』
「国境を越える前から、民を飢えさせているのか」
ガイルが拳を握った。
「二十万だぞ。帝国の常備軍を全部集めても、正面から受ければ勝ち目は薄い」
「正面から受けなければいい」
シリウスは三本の街道を指した。
「敵は二十万の一つの軍ではありません。別々の道を進み、別々の井戸から水を汲み、同じ日に食糧を必要とする三つの集団です」
「ならば分断して各個撃破か」
「その前に、戦場に残された住民を逃がします」
一瞬、幕舎の空気が止まった。
帝国軍の兵力が足りないと知りながら、護衛に人員を割くというのだ。
「その間に敵が進めば?」
「避難路を確保しないまま戦えば、勝っても国境の村は消えます」
シリウスは地図に赤い印を七つ付けた。
井戸、石橋、粉ひき小屋、教会。
どれも軍事施設ではない。
「この七か所を失わせないことが、第一の勝利です」
午後、国境の村から老人と少女が連れてこられた。
少女の靴は片方しかなかった。
「王国の兵が家畜を連れていきました。父は返してくれと言って……」
そこで声が途切れた。
シリウスは少女の前に膝をつき、返せない約束を口にしなかった。
「お父さんを捜す隊を出す。見つかるまで、君がどこにいるかを記録する」
少女は頷き、握っていた布切れを差し出した。
父親の上着から引きちぎった袖だった。
「これを持っていれば、分かりますか」
「分かるようにする」
シリウスは布の色と縫い目を記録係に書かせた。
大軍の数を数える手と、たった一人を捜す手は、同じでなければならない。
王国軍の前衛が近づくたび、避難誘導の鐘が鳴った。
兵は鐘の数を合図に進路を変え、村人を別の道へ送った。
シリウスは鐘を鳴らす役に最も経験のある老兵を置いた。
大きな声を出すことより、最後の一人を見届けることの方が難しいからだ。
夕刻、斥候リュカが戻った。
「中央街道の先頭部隊は速い。ただし後続の荷車は三日分遅れています」
「兵だけ先に来る?」
「はい。王都では進軍の速さを競わせているようです」
シリウスは小さく息を吐いた。
王国で軍師を務めていた頃、宰相バルザックはいつも地図上の矢印を急がせた。
矢印の後ろに人間の胃袋があることを、最後まで理解しなかった。
「敵の先頭には手を出さない。村から人が消えたことだけを確認させろ」
「敵に土地を渡すのですか」
「土地は取り返せる。避難が遅れた命は取り返せない」
避難路の調査を終えた工兵が、地図にない小橋を報告した。
「春の増水で傾いています。荷車を通せば崩れます」
シリウスは橋の修復を命じた。
「敵が来る前に壊せば、進軍を遅らせられます」
「その橋を渡って逃げる村人がまだいる」
作業の間、兵は交代で松明を掲げ、避難民を一人ずつ誘導した。
最後の荷車が通ったとき、橋の欄干が音を立てて折れた。
「間に合いました」
工兵の声は震えていた。
「ええ。間に合わせたのはあなたたちです」
翌朝、父親を捜していた少女のもとに報せが届いた。
男は別の村の避難隊に合流していたという。
再会した二人を見て、ガイルが呟いた。
「二十万の敵を前にして、これが一番の戦果か」
「少なくとも、あの子にとっては」
シリウスは答えた。
その夜、避難所に指定した修道院で、配給の列が止まった。
修道女が持つ名簿には百六十二人とある。
しかし中庭には百六十三人いた。
「一人、多いのです」
若い記録兵は声を潜めた。
敵の密偵を疑っているのだ。
シリウスは人数を数え直させた。
最後尾には、王国軍の制服を脱いだ少年が座っていた。
右手の指に縄の跡がある。
「脱走兵か」
ガイルが問うと、少年は震えながら首を振った。
「徴発隊に入れられました。麦を取り上げろと言われて、断ったら縛られて……逃げたんです」
「武器は?」
「ありません」
シリウスは衛生兵に傷を見せるよう命じた。
少年を尋問する前に、食事を与えた。
「王国兵を匿うのか」
「ここは避難所です。軍の情報が必要なら、回復してから本人の意思を確かめます」
ガイルはしばらく黙り、名簿の末尾に自分で一行書き足した。
二十万人という数字は、王宮の地図では一つの大きな矢印になった。
だが前線の補給官が見ていたのは、日ごとの食料と飼料の消費量だった。
「集められた兵と、動かせる兵は同じではありません」
その進言は軍議の末席で止まった。
王は矢印の長さだけを確かめ、進軍開始の日付を決めた。
王国の徴兵所では、年老いた農夫が息子の代わりに出征しようとしていた。
息子は収穫前の畑を守らねば、家族が冬を越せない。
徴兵官は規則を示して追い返す。
そこへエドガーが通りかかった。
「二十万人の名簿は揃っても、食料を作る人間がいなくなればどうする」
徴兵官は上官の印を指した。
「私に変える権限はありません」
エドガーはその印を写し、異議を書き添えた。
軍の数を増やす命令が、軍を飢えさせる。
彼の報告は本営で握りつぶされたが、写しは炊事隊へ渡った。
戦いが始まる前から、敗北の条件は積み上がっていた。
『身元未確認、一名。
食糧配給の対象とする』
その一行が、敵と味方を分ける線より先に引かれた。
翌朝、南街道の偵察隊が帰還した。
王国軍の先頭部隊が空になった村で炊事を始めているという。
シリウスは井戸に毒が投げ込まれていないかを確認させた。
「使わせるのですか。敵の水になります」
「井戸を潰せば、戻ってくる村人も水を失います」
「敵がその水で進軍したら?」
「進軍の速さは水だけでは決まらない。彼らの荷車が遅れている以上、私たちが守るべきものを壊す理由にはなりません」
記録係が地図の井戸に小さな青い印をつけた。
守る対象は軍旗の位置ではない。
帰る家を持つ人間の暮らしだった。
夜、皇帝アレクシスから勅書が届いた。
『帝国の防衛を総司令官シリウスに一任する。
ただし帝都への侵攻を許さぬこと』
ガイルが読み上げると、士官たちは姿勢を正した。
シリウスは署名の下に、自分の命令を一行だけ書き加えた。
『民間人の避難完了まで、追撃を禁ず』
勝ち方を決める前に、守る順番を決める。
その夜、帝国軍の最初の荷車が運んだのは矢でも槍でもなく、避難民のための毛布だった。
二十万の軍勢の先頭には、戦闘用の槍より多くの徴発荷車が並んでいた。
エドガーは食料の不足を進言したが、王国の上官は兵の数だけを指でなぞった。
「多ければ勝てる」
エドガーは補給記録を二通作った。
一通は本営へ、もう一通は前線の炊事隊へ。
兵を飢えさせないための抵抗だった。
二十万の兵を数える帳面には、徴発された荷車の持ち主が記されていなかった。
エドガーは村の代表を呼び、返却予定日を尋ねた。
「予定など聞かされていません」
王国の参謀は兵数に関係ないと退けたが、エドガーは帳面の余白に村名を書いた。
荷車が戻らなければ、次の収穫を運ぶ者がいない。
兵の腹を満たす計画が、民の腹を空かせる計画になっていた。




