第四十九話 皇帝は俺を帝国軍の総司令官に任命した
総司令官の任命状には、勝利だけでなく敗北時の責任も明記されていた。
シリウスはまず、各軍が独自に決めていた捕虜の扱いを統一する権限があるか確かめた。
皇帝アレクシスが軍議を開いたのは、祝勝のためではなかった。
戦線ごとに異なる命令が出され、捕虜の扱いにも差が生じていた。
ある部隊は降伏兵を保護し、別の部隊は武器を捨てた者を長く拘束した。
国境を守り抜いても、命令が統一されなければ次の戦いで破綻する。
皇帝はその責任を誰か一人に負わせる覚悟を決めていた。
軍議の机には、戦死者と負傷者の名簿が置かれていた。
帝国軍は国境を守り抜いたが、傷を負った兵も、家を失った住民もいる。
皇帝は名簿を閉じ、「総司令官を任せたい」と告げた。
シリウスは即答しなかった。
「権限だけでは、兵を守れません」
将軍たちの視線が集まった。
皇帝アレクシスがシリウスを呼んだのは、勝利の祝宴ではなく軍議の席だった。
帝国軍の各方面軍は、それぞれ異なる補給計画を持ち、同じ橋を奪い合っていた。
皇帝は地図を示した。
「このままでは敵と戦う前に味方同士で道を塞ぐ」
シリウスは肩書きより先に、指揮権と責任の範囲を確認した。
「シリウスを総司令官に任じる」
宣言の後、貴族の一人が立ち上がった。
「亡命者に全軍を預けるのですか」
シリウスは黙っていた。
皇帝が答える。
「出生で軍を動かすなら、戦場の地図は血筋だけで読めることになる」
場は静まったが、反対者の疑いが消えたわけではない。
だからこそシリウスは、自分に与えられる権限を細かく確かめた。
彼が求めたのは無制限の指揮権ではなかった。
補給の監査、負傷兵の後送、降伏者の保護、住民への徴発の補償。
どれも勝利の演説には似合わない項目だった。
「軍が勝った後、民が飢えるのなら、その勝利は長続きしません」
皇帝は条文を一つずつ読み、必要な予算を財務官に確認した。
任命に反対する将軍もいた。
「昨日まで王国の軍師だった男に、帝国全軍を預けるのか」
シリウスは反論を急がなかった。
「私の出自は変えられません。だからこそ、作戦命令と補給の帳簿を誰でも検証できるようにします」
彼は各方面軍の副官を集め、物資の数量と到着予定を同じ書式に統一する案を示した。
信頼を求めるより、疑いを確かめられる仕組みを作る。
シリウスが求めたのは三つだった。
軍需の支出を監査できること、撤退を敗北と決めつけないこと、降伏した敵兵の扱いを統一すること。
ガイルは苦笑した。
「任命される前から条件を出すか」
皇帝は頷いた。
「条件を聞かずに任命すれば、余はかつてお前を追放した王と同じになる」
皇女エリシアはその言葉に静かに微笑んだ。
ガイルはシリウスの前に立ち、剣を差し出した。
「私の部隊はあなたの命令に従う」
シリウスは剣を受け取らなかった。
「剣は将軍が持っていてください。私はあなたの経験が必要です」
ガイルは一瞬目を丸くし、それから笑った。
「ならば、遠慮なく反対意見も言わせてもらうぞ」
「それが欲しいんです」
二人はようやく、同じ目線で握手した。
エリシアは任命状を持つ父に尋ねた。
「シリウスに全軍を預ければ、失敗したとき責任は誰が負うのですか」
皇帝は答えた。
「命じた私だ」
その言葉を聞いて、シリウスは初めて頭を下げた。
王国では成功を王が取り、失敗を軍師が負った。
帝国が同じ道を歩まないという保証はない。
それでも、この皇帝は責任を口にした。
エリシアは任命式の後、シリウスに小さな封筒を渡した。
中には国境の避難民から届いた手紙が入っている。
『村へ戻れたら、また麦をまきます』。
シリウスは何度も読み返した。
軍旗よりも、その一行が重く感じられた。
守るべきものが具体的である限り、権力は目的にならない。
任命の宣言が終わると、兵たちは歓声を上げた。
しかしシリウスは高い壇に長く立たなかった。
負傷兵の列を訪れ、一人ひとりの所属と必要な治療を確かめた。
新しい肩書きは、昨日までより多くの命令を出せることを意味する。
同時に、昨日までより多くの失敗の責任を負うことでもあった。
任命式のあと、ガイルは苦笑した。
「俺もお前の命令で動くのか」
シリウスは答えた。
「現場の判断は将軍に任せます。地図の線だけで騎兵を動かすつもりはありません」
ガイルは腕を組み、しばらくして頷いた。
指揮権とは、すべてを自分で決める権利ではない。
現場が動けるように責任を引き受けることだ。
夕方、シリウスは総司令官の印章を受け取った。
机には早くも新しい報告書が積まれている。
任命を喜ぶ時間は短かった。
国境の向こうでは、王国が十二万人の動員を続けている。
シリウスは最初の命令として、敵軍の進路ではなく、避難民の冬支度を確認させた。
戦争を終わらせるための仕事は、ここからさらに増える。
任命の場で、皇帝アレクシスは一通の戦況報告をシリウスに示した。
北部の守備隊が、王国の追加動員を恐れて独断で村の穀倉を接収したという。
「総司令官になれば、こういう命令にも責任を負う」
皇帝の声に祝福の響きはなかった。
シリウスは報告を読み、即座に返還と代替補給の手配を命じた。
「軍の食料は必要です。しかし村の冬を奪えば、次の敵を自分で作ることになります」
各方面軍の司令官には、従来の命令系統を変えることへの不安があった。
シリウスは地図上に補給拠点と救護所を示し、作戦命令の前に報告先を一本化した。
「前線の判断を奪うつもりはありません。判断に必要な情報が、別の軍に届かない状態をなくしたいのです」
皇帝はその説明を聞き、任命状に各軍の協力義務を明記させた。
総司令官の印章を受け取ったシリウスは、最初の軍議で意外な命令を出した。
「私の作戦に異議がある者は、反対の理由を記録に残してほしい」
若い補給官が戸惑う。
「反対しても処罰されませんか」
ガイルが腕を組み、皇帝の顔を見る。
アレクシスは頷いた。
「責任を取るのは私と総司令官だ。誤りを見つけた者を罰してどうする」
補給官は地図の赤い線を指した。
「この道は春の雪解けで通れません」
予定されていた兵糧輸送路が、その場で変更された。
新しい肩書きが最初に生んだ成果は、華々しい命令ではなく、一人の部下が声を上げられる余地だった。
ガイルはその場で異議を唱えた。
「補給路の安全を確保するには、強制徴発も選択肢だ」
シリウスは頷いた。
「選択肢から消しはしません。ただし実施するなら、必要量、代価、返還期限を記録する。村の代表者にも写しを渡す」
皇帝は二人のやり取りを遮らなかった。
総司令官とは、反論する部下を黙らせる役職ではない。
反論を聞いたうえで、最後の責任を引き受ける役職だった。
任命式が終わると、エリシアが廊下で待っていた。
「嬉しくないのですか」
シリウスは少し考えた。
「嬉しいですよ。ただ、私が失敗したときに傷つく人が増えました」
エリシアは笑わなかった。
「ならば失敗を見つける人を、もっと増やしましょう」
彼女は民間の医師と商人を軍の補給会議へ招く案を差し出した。
シリウスはその紙を受け取り、初めて肩の力を抜いた。
「それは心強い」
軍議の後、シリウスは新たな指揮系統を図に描いた。
伝令が途絶えたとき、現場の軍医と補給官が独自に救護を続けられるよう、権限の範囲も書き込む。
「総司令官が倒れたら終わる軍では困ります」
ガイルは苦笑した。
「昇進したその日に、自分がいない場合を考えるのか」
シリウスは答えた。
「だからこそです」
シリウスは最初の総司令官命令として、戦死者の名簿と補給不足の報告を毎日提出させた。
勝利の報告だけを集めれば、軍は必ず現実を見失う。
エリシアは命令書を読み、静かに微笑んだ。
「あなたらしい始まりですね」
シリウスは窓の外の旗を見た。
「私が見たいのは、旗の数ではなく、帰ってくる兵の数です」
任命状が読み上げられた直後、補給担当官が冬営の不足を報告した。
祝賀の場には似つかわしくない数字だった。
廷臣が後日に回そうとすると、シリウスは任命状を閉じた。
「今日から総司令官なら、今日の不足は私の責任です」
皇帝は一瞬だけ黙り、宴の開始を遅らせた。
会場の机には祝杯より先に地図が広げられた。




