第四十八話 国王は手紙を読み、初めて自分の判断を疑った
王は手紙の署名を疑い、近衛隊長に筆跡の照合を命じた。
偽物なら安心できる。
しかし本物だった場合に何をすべきか、王は命令を出せずにいた。
国王が手紙を受け取ったのは、夜の軍議が終わった後だった。
宰相のいない部屋で封を切る。
そこには謝罪の要求も、王位を脅かす言葉もない。
代わりに、解放された兵士の名と、故郷へ戻るために必要だった食料の量が書かれていた。
王は最初、数字の多さに腹を立てた。
自分の失敗を数えられているようだったからだ。
国王の前に差し出された封筒には、帝国軍の印章と王国側の受領印が並んでいた。
国王は宰相を下がらせ、独りで封を切った。
シリウスの筆跡を見た瞬間、十年前の軍議が蘇る。
『兵糧が足りません。
進軍を止めてください』。
あのとき王は、勝利を疑う者は臆病者だと叱りつけた。
手紙を受け取った国王は、まず封印を確かめた。
帝国の印章が押され、添付された押収品の目録には王国の通行証が載っている。
王はバルザックを呼びつけた。
「これは何だ」
宰相は一瞬だけ目を逸らし、「帝国の捏造です」と答えた。
その一瞬を、王は見逃さなかった。
十年前の記憶が戻ってきた。
大雨で橋が落ちた戦場で、シリウスは撤退を求めた。
王は勝利を急ぎ、前進を命じた。
翌朝、橋の手前に取り残された兵たちを救ったのは、シリウスが密かに準備していた渡し舟だった。
王はその功績を宰相のものとして報告させた。
自分に都合のよい記憶だけを残していたことに、いま初めて気づいた。
「陛下、何をお考えです」
側近が尋ねた。
王は答えなかった。
手紙の一節が目に残る。
『私は王国の民を敵だと思ったことはありません』
それなら、敵は誰なのか。
帝国の軍師か。
王国の兵を飢えさせる補給の失敗か。
自分が出した命令か。
問いを立てるだけで、王の胸は苦しくなった。
王はかつての追放裁判の記録を取り寄せた。
そこにはシリウスが提出した補給計算が残っていた。
『現行の徴募計画では、冬まで糧食が持たない』。
当時の王は敗北を恐れる臆病な意見だと笑った。
だが今、十二万人の追加動員を前に、兵站官が同じ警告をしている。
数字は十年経っても、王の都合に合わせて変わってはくれなかった。
手紙には赦しを求める言葉も、復讐の宣言もなかった。
代わりに捕虜解放の記録、戦死者の名前、徴募された農民の家族への連絡先が添えられていた。
国王は最初、敵の宣伝だと思った。
だが一覧の中に、幼い頃から王宮に仕えた厩番の息子の名を見つける。
王国の戦争は、遠い国境の数字ではなかった。
自分の城で働く者の暮らしまで奪っていた。
翌朝、王は財務官を密かに呼んだ。
「十二万人を動かすには、どれだけの麦がいる」
財務官は恐る恐る帳簿を開き、馬の飼葉と荷車の数まで説明した。
王は途中で遮らなかった。
最後に財務官は言った。
「種麦まで徴発しても、冬を越せません」
王は椅子の背にもたれ、長く目を閉じた。
若い侍従が恐る恐る尋ねた。
「陛下は、シリウス殿に何を望んでおられたのですか」
王は答えかけて言葉を失った。
勝利を、忠誠を、失敗しない策を。
自分は軍師に何もかも求めながら、失敗の責任だけを押しつけたのではないか。
問いは単純だったが、答えは玉座の下から王を揺さぶった。
バルザックは軍議で強硬論を繰り返した。
「敵に弱みを見せてはなりません」
国王はうなずきかけ、手を止めた。
昨日までなら、その言葉で十分だった。
だが今は、弱みを見せないために何人が飢えるのかを知っている。
「補給計画を先に出せ」
短い命令だった。
宰相の笑みが初めて消えた。
夜明け前、国王は初めて財務官を一人で呼んだ。
「十二万人の糧食は、足りるのか」
財務官は長く沈黙した後、「足りません」と答えた。
王は怒鳴らなかった。
その答えを聞くことから、ようやく何かが始まる気がした。
だが疑うことと、命令を撤回することは違う。
王はまだ、取り返しのつかない決断の入口に立ったばかりだった。
しかし後悔が生まれたからといって、命令がすぐに変わるわけではない。
王は停戦を口にしようとしたが、廷臣たちの視線が集まると「調査を命じる」とだけ告げた。
勇気のない言葉だった。
それでも、これまで一度も命じなかった調査である。
近衛隊長は命令書を受け取り、王が翻意する前に記録へ残した。
国王はまだ、シリウスを追放したことを公に謝れなかった。
軍を止める命令さえ出していない。
それでも、今まで問わなかった数字を問うた。
窓の外では新兵の足音が続いている。
王は手紙を引き出しにしまわず、机の上へ置いた。
見たくない事実を、見える場所に残すためだった。
王は手紙を読み終えたあと、古い軍議録を取り寄せた。
かつての追放裁定の記録には、シリウスの反論が一行しか残っていなかった。
『本人、判断に不服を申し立てる』
その下に、証拠を再検討した形跡はない。
王は書記官を呼んだ。
「この日の議事録を作った者は」
書記官は震える声で答えた。
「当時の宰相府の記録官です。すでに退官しています」
王は「呼び戻せ」と命じかけ、言い直した。
「まず記録の原本を保全せよ」
誰かを叱る前に、事実を確かめなければならなかった。
翌朝の軍議で、バルザックはいつものように進軍を進言した。
「敵将の慈悲は弱さの証拠です」
王は手紙を机に置いた。
王は書面の末尾にある一文を何度も読んだ。
『私は王国の兵を敵として数えても、命を捨ててよい者としては数えません』。
怒りを向けるべき相手の言葉とは思えなかった。
だが、その一文を信じるには、これまで自分が聞かなかった報告を読み直さねばならない。
王は初めて、宰相を通さずに原本を持ってくるよう命じた。
国王は手紙の末尾にある避難民の人数を疑った。
敵将の慈悲を誇る宣伝だと思いたかった。
そこで王国の国境守備隊が送った月報を取り寄せる。
日付、村の名前、移送された子供の数。
数字は帝国から届いた手紙と一致していた。
「では、なぜ私はこれを知らなかった」
書記官は月報の表紙を開く。
『王の閲覧不要』と赤い印が押されていた。
国王はその印を見つめた。
自分の知らないところで事実が隠されていたのか。
それとも、都合の悪い報告を嫌った自分の態度が、隠す仕組みを育てたのか。
答えを部下に押しつけることだけは、もうできなかった。
「慈悲を弱さと呼ぶなら、我が軍が敗れた理由は何だ」
宰相は即答できなかった。
周囲の将軍たちも目を伏せる。
王はなお撤兵を宣言しなかった。
十二万の動員命令を撤回すれば、自らの誤りを全国に示すことになる。
その恐怖が、まだ玉座に絡みついていた。
軍議の後、王は窓辺に立ち、訓練場を見下ろした。
木剣を握る新兵の中に、明らかに年若い少年がいる。
王は近衛隊長に命じた。
「年齢と家族の状況を確認し、規定に満たぬ者を戻せ」
それだけで戦争は止まらない。
しかし少年の一人が今日、家へ帰れるかもしれない。
王はその小ささを恥じながらも、命令を取り消さなかった。
国王は一度だけ、宰相を呼ぶための鈴に手を伸ばした。
しかし鳴らさなかった。
今まで難しい判断は、すべてバルザックの説明に従ってきた。
自分の目で証拠を確かめるなら、まずその習慣を断たねばならない。
王は十年前の軍議録を持ってくるよう、別の書記官に命じた。
夜更け、王は手紙の最後の一文を読んだ。
『私は王国の民を敵とは思っていません』。
国王はその行を指でなぞった。
自分が追放した男は、いまだ王国の民を守ろうとしている。
ならば、自分は誰を守るために戦争を続けているのか。
答えはまだ出なかった。
だが初めて、王はその問いから目を逸らせなくなった。
手紙には戦死者の数だけでなく、避難させた王国の子供の人数まで書かれていた。
国王は側近に問うた。
「これは敵の宣伝か」
側近は答えず、国境の村から届いた同じ日付の報告を差し出した。
二つの文書に記された人数は一致していた。
王は初めて、信じたくない事実を自分の手で照合した。
国王は二つの報告の数字を指で追った。
避難した村人の数は一致するのに、王国軍の公式戦果にはその村が焼き払われたと記されていた。
「どちらが間違いだ」
侍従は黙ったまま、村から届いた焼け残りの戸籍簿を差し出した。
王は勝利の報告だけを集めてきた年月を思い、戸籍簿を机の中央へ置いた。
「この村の者を呼べ。誰にも答えを教えるな」
初めて、聞きたい話ではなく聞くべき話を求めた。




